釈迦とイエス・ 釈迦と日蓮 ② 釈迦の無記説 有名な釈迦の「無記(むき)説」があります 無記とは、説明しない。回答がない。という意味であり 釈迦は以下の4種10項目の問いに対し 無記すなわち無回答の立場をとっています ① 世界は時間的に常住(永遠)か無常かの2項目 ② 世界は空間的に有限か無限かの2項目 ③ 霊魂と身体は一つであるか別なのかの2項目 ④ 人間(仏とも)は死後、存在するかしないか 存在しかつ非存在であるのか 存在せず非存在でもないのかの4項目 六十二見 釈迦当時のインドには 釈迦とは根本的に違う62の思想があったとされます これが「六十二見」です パーリ語経典(原始経典)の1つ ディーカ・ニカーヤ(長部経典)に 属する梵網経(ぼんもうきょう)にみらるそうです この「六十二見とは、主として アートマン(我や霊魂)に関する考えです 我は常住不滅とする常住論4見 我と世界の一部が常住で他は無常とする一分常住論4見 世界が有限であるか無限であるかを論ずる辺無辺論4見 詭弁論4見 詭弁論には サンジャヤの説いた懐疑論(うなぎ論)や 不可知論〔超感覚的なもの、絶対的なもの、無限的なもの 神の存在などは認識できない(不可知)とし 経験を超越した問題を論ずるのは無意味とする主張〕などがある さらに、我と世界は無因にて生起するという無因論2見 我は死後、想念(意識)をもって存在するという有想(うそう)論16見 我は死後、想念をもたずに存在するという無想論8見 死後、想念があるのでもなくないのでもないという非有想非無想論8見 我は死後、存在しないという断滅論7見 快楽あるいは瞑想の境地によって 我は現世で涅槃(ねはん・悟りの境地)に 達することができるという現世涅槃論5見 なお、釈迦の無記も不可知論の一種です ただ釈迦の場合、単なる不可知論者ではなく 超感覚的なものに対しても哲学的な答えをちゃんともっていて 例えば、アートマンという存在に無記の立場をとっただけでなく 生命とは五陰仮和合(ごおんけわごう)であると説き アートマンの存在を間接的に否定しています また、一神教では、世界は、唯一絶対の神によって創造され 全ては神の意志によって起こるとしますが これに対して釈迦は 全ては、因(結果を生じさせる直接的な因。原因)と 縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因。助因) によって生起する すなわち全ては他との関係性によって生起する という「縁起説」を立て否定しています 五陰仮和合 釈迦は人間というか生命をどのように定義したかというと 衆生(生きとし生けるもの・とくに人間) すなわち生命は 五陰(ごおん)が 仮に和合したもの〔五陰仮和合(ごおんけわごう)〕と定義しています 【 五陰… 生命を構成する五つの要素。五蘊(ごうん)ともいう 色〔生命の物質的側面〕 他は精神作用で 受〔眼、耳、鼻、舌、身、意(心のこと) の六根を通し外界を受け入れる作用〕 想〔受で受け入れたものを知覚し、想いうかべる作用〕 行〔想にもとづき何かを行おうとする衝動的欲求〕 識〔受から行までを統括する精神の根本〕 】 仮というのは 生命は一瞬一瞬変化してやまない存在である 空の存在である だから、生命とは五陰が一瞬一瞬 仮に和合しているのにすぎない ということです 生命の本質は「空」であり、「仮」(け)であり 実体なきものであるゆえ 当然、霊魂(アートマン)のような 不滅の自己の本質など存在しない というのが釈迦の立場です つまり仏教とは 釈迦が霊魂を否定して創始した宗教です 阿頼耶識 釈迦は、すべてが「空」であるという立場から 不変的・固定的な自己の本質である バラモン教のアートマン(不滅の自己・霊魂) の存在を否定しました ところが一方では、バラモン教の「業」(ごう)や 「輪廻」という考えに立って 仏教という新宗教を創始しました そうすると「輪廻する主体」の存在が問題となります この「輪廻する主体」について 釈迦が没したあと様々な説が展開されました そして定着したのが「阿頼耶識説」です 阿頼耶識という無意識層に 身・口・意(心)の全ての「業」(行為)= 人間のおよそ一切の行為 が蓄積されていく という考え方です そして、霊魂でなく、この阿頼耶識いわば業エネルギーが 自己の本質であり、輪廻する主体ということです 釈迦の立場、つまり「空」という立場では 赤ん坊のときのあなたと 今のあなたが別の存在ということになってしまいます もっと言えば、今のあなたと 次の瞬間のあなたとは別の存在ということになります ところが、赤ん坊のときのあなたと 現在のあなたは、≪あなた≫としてちゃんと一貫しています これについて釈迦の立場では説明がつきません 仮に3年で、私たちの身体の全ての細胞が入れ替わるとしましょう しかし「3年経って細胞が入れ替わったんだから 今の自分は以前の自分とは違う だから、以前の自分がした借金は払わなくてもよいはずだ」 なんて話は通用しないですよね(笑) これに説明をつけたのが 「阿頼耶識説」(あらやしきせつ)と言えます 阿頼耶識(あらやしき)説においては 阿頼耶識という無意識層に 身口意(しんくい・意は心のこと)の 全ての「業」〔行為のこと。カルマン(カルマ)〕 すなわちその人のおよそ一切の行為が蓄積されていきます 今、あなたがが私のサイトの話を読んだという事実は 10年たっても50年たっても 10000年たっても消えることはありません トラウマなら、その人が死ねば消滅しますが 宗教というのは 永遠という時間軸において語るので ある事実は、自分の生命の中に永遠に継続されていく ということになります また、現世の阿頼耶識に蓄積された 「業」の善悪のプラスマイナスで、来世の果報(結果と報い)が決まる というのが阿頼耶識説です つまり仏教の生命学の基本は 霊魂による輪廻ではなく、業相続、業輪廻なのです 阿頼耶識説は インド大乗仏教の2大教派の1つ唯識派にはじまり その流れを汲む 法相宗〔ほっそうしゅう・華厳宗とともに奈良時代に栄えた宗派 平安二宗(天台宗と真言宗)の興隆により衰退 興福寺、薬師寺、清水寺などが法相宗の寺院 かつては、法隆寺も大本山の1つであったが、昭和25年に独立し 独自の聖徳宗となっている〕をはじめ 日本の伝統仏教各派が取り込んでいることから 大乗仏教の生命学の基本とみてよいでしょう 唯識派は 瑜伽(ゆが・ヨガ)の実践を重んじたことから瑜伽行派ともいいます 事物の全ては心の本体である識によって仮にあらわれた存在であり ただ識のみがあるという極端な唯心論の立場をとります 4世紀頃に登場しています 梵我一如 ちょうど釈迦の当時 バラモン教に、≪梵我一如≫とが登場し 主流的な思想となっていたようです 梵我一如の「梵」 〔ブラフマン・このブラフマンが 神格化されたのがブラフマー(梵天)〕は 宇宙の根本原理のことで 「我」(アートマン)は、固定的・不変的な自己の本質で 霊魂とも訳されるものです すなわち自己の本質であるアートマンが 宇宙の根本原理 つまり全てを成り立たせている宇宙の原理のブラフマン と同一であると悟れば 我と梵が合一して 輪廻転生から解脱できるというのが≪梵我一如≫です この梵我一如による解脱は 現在のヒンズー教でも 「信愛」(バクティー・神を熱烈に信じて愛すること)による解脱とともに 根本的教義の座を占めています バラモン教において 「業」「輪廻」「解脱」の考えが 最初に登場するのは 古ウパニシャッドの時代だといいます 〔 ウパニシャッドは バラモン教の聖典 ヴェーダの最終部で 作成は前6世紀(前8世紀。また前7世紀とも) から16世紀まで至るとれ このうち前3世紀までのものを古ウパニシャッドと呼ぶ 〕 この古ウパニシャッドの中心思想が 「梵」ぼん・ブラフマン。宇宙の最高原理〕と アートマン〔固定的不変的な自己の本質。我や霊魂と訳される〕 の合一(梵我一如・ぼんがいちにょ)によって 輪廻転生より解脱するというものです 六派哲学(バラモン教で正統とされる6つの学派) 最大のヴェーダーンタ学派では アートマンが本来ブラフマンと同一であると認識することで 梵我一如が達成されるとします ウパニシャッド時代には、ある種の瞑想や 欲望を離れることなどにより 梵我一如が達成され、解脱する と説いた思想家もいたといいます 「梵我一如」は、インド思想界に 一大ブームを起こしたということですから 釈迦の時代にすでに確立されていたとしたら 釈迦が出家後になした瞑想修行も、苦行も 梵我一如を目的としたものであったと考えられます 輪廻説 古ウパニシャッドの説く 輪廻説は「五火二道説」と呼ばれるものです 二道とは 天道(ディーバヤーナ)と祖道(ピトゥリヤーナ)をいいます 天道は、生前に正しい知識をもって 祭祀を行うなど善を積んだ者が 死後におもむく道であり 梵天の世界に到達して 二度とこの世に生まれてこなくてもよいという道です したがって死ぬこともないので不死を得たことになります これが解脱です 仏教においても古い仏典では 解脱のかわりに「不死」という言葉がしばしば用いられています キリスト教の死後、天国に生まれて 永遠の幸福を得るという考えや 浄土教の極楽往生もつまるところ「解脱思想」と言えるわけです もちろん、これらは、輪廻転生を前提とせず 「地獄」という観念を設けているので 本来の解脱とはちょっと違います ちなみに日本では「輪廻」「解脱」はほとんど浸透せず 「成仏」や「極楽往生」が広まりました 一方、祖道は、天道に行けない者のおもむく道で 月に一定期間とどまった後 雨といっしょに(雨は月から降ると考えられていた) この世に再び舞い戻る やがて植物の種子に入り込んで これを人や動物が食べると人や動物の精子となり 人や犬に生まれる 何に生まれるかは前世の行いによるというものです 五火二道説の「五火」は 今述べたこの世に再生する5つの段階を 火の神アグニ(火に投じた供物を天上界の神々にとどける神)を 象徴する祭火に 投げ入れる5種の供物にたとえるところからきています 輪廻転生について言っておくと 輪廻するというにしては、数があわなくない? という疑問が生じませんか だって、世界の人口ってどんどん増えているんですよ(笑) 20世紀に人類は人口爆発と呼ばれる 人類史上最大の人口増加を経験したと言われています 1930年代の世界人口は約20億人 60年代には30億人 そして、国連の2011年版「世界人口白書」によると 2011年10月31日に世界人口が70億人に到達したと推計されていて 2050年には92億人になるとの予想があるのです ヴェーダとプラーナ そもそもバラモン教の経典 ヴェーダというものは どういうものなんだ? という疑問がありますよね 説明しておきます バラモン教とは 前2千年~前1千5百年頃 西インドに侵入を開始し 前1千年頃にはインダスやガンジス河流域などに都市国家をつくった アーリア人のもたらした信仰で多神教です 仏教やキリスト教のような創唱宗教ではなく 日本の神道のように教祖はいません ヒンズー教は、バラモン教が変貌して成立した宗教です 前6~前4世紀に、釈迦をはじめとする 反バラモンの自由思想家たちが活躍し これによりバラモン文化の枠組みが崩壊したといいます バラモン教は、前3世紀頃からアーリア人の神々に 土着民の神々を加えるなど 土着民の非アーリア的な民間信仰や習俗を吸収し 変貌していきました そしておそくとも5世紀までには シヴァやヴィシュヌを最高神とする ヒンズー教へと生まれ変わったと考えられています このバラモン教、ヒンズー教の根本的な聖典が、ヴェーダです ヴェーダは4種類あります リグ・ヴェーダ〔神々への讃歌の集大成。ヴェーダの最古層で 前1200年頃を中心に書かれ 前900頃までには、現在の形になったという〕 ヤジュル・ヴェーダ〔祭儀で唱えるヤジュ(呪句)を集めもの〕 サーマ・ヴェーダ〔祭儀のときに唱える御詠歌(ごえいか)を集めたもの〕 アタルヴァ・ヴェータ〔幸福祈願や怨敵降伏(ごうぶく)の 祝詞(のりと)を集めたもの〕 この4つのヴェーダどれもが 本集〔サンヒター。讃歌、詠歌、呪句の集大成 前1200年に中心部が完成〕 祭儀書〔ブラーフマナ。散文で祭祀の神学的説明と実施方法を記す 前800年頃に中心部が完成〕 森林書〔アーラニヤカ。ブラーフマナのうち 森などで秘儀によりひそかに伝授された秘説を記す〕 奥義書〔ウパニシヤッド・森林書の思想を深めたもの 様々な哲学を問答形式で記す 作成は前6世紀(前7や前8の説も)から16世紀までに渡り 前3世紀までのものを古ウパニシャッドと呼ぶ〕 の4つの部分で構成されています ヒンズー教の聖典は、1つは、ヴェーダです これは神の声を記した天啓文学で、バラモン教からのものです もう一つは、マハーバーラタとラーマーヤナという2大叙事詩や 古来の伝承をもとに作られたプラーナ聖典などの の聖伝文学です ヴェーダが、神の声を記した天啓聖典であるのに対し プラーナはのちの宗教家や思想家による聖伝文学とされています マハーバーラタは 前10世紀のアーリア人の部族間の戦争がテーマです バラタ戦争を舞台にしたもので 伝説では、ビヤーサ仙人の著とされます 第6巻の23から40章は 「バガバッド・ギーター」という戦争開始の部分で 戦争にのぞむ一方の雄のアルジュナ王子が 同族との争いをためらうのを ビシュヌ(ヒンズー教の最高神)が クリシュナ(ビシュヌの化身の一つ・ マハーバーラタの主人公)となって出現し 王族の義務と、正義の必要性と、神の恩寵の偉大さなどを説いて 戦いに向かわせる話で、広く親しまれているといいます ラーマーヤナはコーサラ国の王子 ラーマが 魔王ラーバナに奪われた王女を奪還する話で 現存するものは2世紀末頃に成立したといいます プラーナは古(いにしえ)の意味で、内容は ビシュヌ、シバをはじめとする諸神の神話 神々への讃歌、宇宙論、儀礼、巡礼地の縁起、神殿や神像の建立法 神々や聖仙の系譜、カースト制度、住期の義務 哲学思想、医学、音楽、文芸論などあらゆる問題にふれているそうです 18の大プラーナと、同数の副プラーナがあり これらはビシュヌ派かシバ派のいずれかで用いられているそうです バラモン教の身分の低い僧侶たちが バラモン教に土俗的、民族的要素を取り入れて プラーナの原型を創り上げ さらに挿入や改ざんが繰り返され 4世紀から14世紀の間に、現在の諸プラーナが成立した と考えられています なお諸々のプラーナの著者については マハーバーラタを書いたとされるビヤーサ仙人にかこつけています 以上の他、ヒンズー教が用いる聖典には マヌ法典をはじめとする多数の法典 さらに各宗派それぞれの聖典 さらにバラモン六派の哲学の書などもあります ● マヌ法典 原型は前200年から後200年頃に成立したという 宇宙のはじめ・万物の創造からはじまり 人間が一生を通じて行う通過儀礼、先祖の祭祀、四住期 日々の生活、輪廻・業・解脱について 国王の義務 〔王は法をつくらず保護し、法に従って政治をする者であるとし 立法についてバラモンの関与を説く〕 さらには婚姻法、相続法、裁判の手続きなどを記述している バラモンの特権を擁護する立場から バルナ〔バラモン(聖職者)、クシャトリア(王族・貴族・武士) バイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)というカースト制度の根幹〕 による差別をいたる所に述べ、宗教の聖典としての性格が強い マヌ法典はマヌが述べたものだとされる マヌは、ブラフマー(仏教に取り入れられ梵天となった)と サラスバディー(仏教に取り入れられ弁財天となった)の子で 旧約聖書のノアの箱船のノアにあたる人 ヴェーダ聖典のブラーフマナにその神話がある マヌが養い大きくして海に放した魚が 大洪水がきて人類が滅亡することを予言する マヌは舟に乗り、魚の導くままヒマラヤに着く マヌ以外の人類は滅亡したが マヌは苦行と祭祀によって1人の女性を得 2人で人類を再生させたという 六派哲学 バラモン教やヒンズー教において 正統と認められている6つの学派 あるいはその哲学体系を六派哲学といいます 古代には多くの学派が存在したようですが その代表ですね これらは、西暦120年頃から600年頃に成立したそうです ① ヴェーダーンタ学派 六派哲学の中で最大の支持を誇った学派 アートマンが本来ブラフマンと同一であると認識することで 「梵我一如」が達成され、輪廻転生から解脱できると説く ② サーンキヤ学派 数論学派と訳される 人は、精神原理である プルシャ(霊魂・アートマンと同じものという)が 物質原理であるプラクティと隔絶したものであることを知らず 物質原理に関心を持ち、物質原理が展開して輪廻が生じる プルシャが物質原理に無関心になると解脱できると説く 因中有果説はこの派のもの ③ ヨガ学派 サンキーヤ学派と姉妹関係にあり 哲学体系はほぼ同じだが サンキーヤ学派が無神論であるのに対して 最高神シバの存在を認める ヨガの実践により 三昧(ざんまい・心を対象に集中させ乱さないこと) の境地に達することで 物質原理とプルシャを識別する真の智慧を得 肉体は消滅し、解脱できると説く ④ ヴァイシェーシカ学派 卓越した学派の意味で、勝論学派と訳される 自然現象、世界の構成、人間の認識や行為を 実体、性質、運動、普遍、特殊、内属、の 6つのカテゴリー〔12世紀頃には、無が加わり7つ〕から説明する 実体は、地・水・火・風・虚空・方角(空間)・ 時間・アートマン(自我)・意(思考器官)に9種に分類される 性質は、色・味・香・触・数・量・楽・苦・欲望・嫌悪・ 努力・功徳・罪障など24種に分類される 運動は、上昇・下降・屈・伸・進行の5種類に分類される 普遍とは、ある犬と別の犬を見たときに どちらも犬であると認識させる犬性など 個別の間に同類の観念を引き起こす原理 特殊は普遍と反対で 個別の間に異なる種類や個別の観念を引き起こす原理 内属とは、性質、運動、不変、特殊の4つが 実体と一体不離の関係にあること これらのことを理解し、欲望から離れることで解脱できると説く 因中無果説はこの派のもの ⑤ ミーマンサー学派 考察学派の意味で ヴェーダの祭式について研究した学派 ヴェーダには、祭式の規則や意義をまとめた祭事部(祭儀書)と 哲学的思考をまとめた知識部(奥義書)があり 前者を同派が、後者をヴェーダーンタ学派が研究した ヴェーダは人間や神が作ったものでなく 作者がいない永遠の過去から実在するものであると主張し 絶対神の存在を否定 神々はヴェーダの祭祀を遂行するための道具であると説く ⑥ ニヤーヤ学派 正理学派と訳される 論理学を研究 知識(認識)の手段、知識(認識)の対象 疑惑、動機、実例、定説、論証肢 検証、決定、論議、論争、論詰(ろんきつ)、誤った理由、詭弁 誤った非難、勝利の決着の16項目を研究し 16項目に通達することによって 輪廻転生より解脱できると説いたという なお、認識の手段=正しい認識= 正しい判断 をもたらすものとしては 知覚、推理、聖典の言葉をあげ、この考察が重視されたという 知識の対象、すなわち知るべき対象としては アートマン、身体、業、輪廻の考察が重視されたようである 世界の成り立ちについての対立は 因中無果説の立場にあるヴァイシェーシカ学派は 人が目にしている存在は 原子(極微の球体で不滅)が集まってできたものであり 存在は、根本的な原理が展開して 生成されるのではないと主張し これに対し因中有果説を説くサーンキヤ学派は プラクティという物質原理が展開する結果 存在は生成されると主張したといいます それから、ニヤーヤ学派とヴァイシェーシカ学派は 他の学派がヴェーダに絶対的権威を認めたのに対し ヴェーダの権威は認めるものの それは絶対的なものではなく ヴェーダは創造されたものであるとし ヴェーダを無条件に価値基準とするのではなく いかにして正しい推論をし 正しい知識を得るのかを研究したとされます ミーマーンサー学派は、ヴェーダ聖典の言葉(声)は 創造されたもの(無常のもの)ではなく もともと実在するものの顕れにすぎず 永遠の実在であるという 「声常住論」〔実在のあらわれとすることから「声顕論」ともいう〕 を唱えています 一方、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、それに仏教は ヴェーダの言葉は 無常のものであるという「声無常論」を唱え ミーマーンサー学派と対立したとされます ヴァイシェーシカ学派は、いかなる知識も直接知覚するか またそれを基礎として推論するしか得る手段はない ヴェーダから得られる知識も ヴェーダから推論によって得られる知識であるとして ヴェーダそのものは、知識の根源にはならない と主張しています 声論には、音声と音声の本体を区別し、音声は無常だが 本体は、ブラフマン(梵・宇宙の根本原理)そのものである という説も誕生し これはヨーガ学派に採用されたといいます 多くの日本人は バラモン教をよく知らないので 多神教というイメージから 日本の神道に毛が生えたような宗教だろう たいした哲学なんてなく 神を崇めたり、祀ったりするだけの 儀式中心型の宗教だろう と漠然と思っているはずです ところがこれだけの哲学を根拠とする宗教なわけです 哲学性だけで言えば キリスト教などお呼びでなく 仏教よりも上かも知れませんよ(笑) ブラフマン、アートマン 現象世界についての論争 古ウパニシャッドでは ヤージニャバルキアや、シャーンディリヤなどの哲学者たちが 主に対話形式で、ブラフマン(梵)やアートマン(我)について それぞれ思想を述べています 「梵我一如」は シャーンディリヤの教説として示されています 【 心臓の内にある私のアートマンは、 大地より大きく、虚空より大きく 天よりも大きく、諸世界よりも大きい あらゆる行為をなし、あらゆる欲望をもち あらゆる香をもち、あらゆる味をもち 万物を包みこみ、沈黙して煩わされることのないもの それは心臓の内にある私のアートマンである それはブラフマンである 】 なお、古ウパニシャッドにおいて 輪廻、解脱、業の思想も体系化されています これらはインドの思想の中核となり 仏教とともにアジアに広く伝わり アジア諸民族の思想や文化にも大きな影響を与えたとされます なお、ヴェーダンダ学派の聖典である ブラフマ・スートラ(5世紀に成立。ヴェーダンダ学派によると 前3世紀頃までに源流ができたという)では ブラフマン、アートマン 現象世界は、どれも実在としているといいます これに対して7世紀の ガウダパーダは 大乗仏教の唯識派の唯識思想〔すべての事象(モノやコト)は 心の本体である識の現れで、識のみが実在し 他は識がつくりだした影にすぎないという立場〕の影響をうけ ブラフマンのみが実在 アートマンと現象世界は幻影であると主張したそうです さらに8世紀前半には 彼の孫 シャンカラ(28また32歳で没)が 有名な「不二一元論」を唱えています これは、ブラフマンはアートマンと同一であり それ以外の一切は幻影(マーヤー)で実在しないという説です この不二一元論は 今でもヒンズー思想の中核にあります 輪廻も生死も、すべて幻影なのですから 幻影から脱し、アートマンが覚醒して ブラフマンと一体化するとき 輪廻の幻影も消滅し、解脱できるというわけです また、シャンカラは、解脱の手段として ブラフマンの認識のみを主張し 祭祀や社会的義務といった「行為の道」を否定したといいます 後世、シャンカラ派は、ブラフマンが無明と結合することで 現象世界が現れるとしたといいます ラーマーヌジャ(1017~1137)は ブラフマン、アートマン、現象世界はともに実在で アートマンはブラフマンの身体(様相)であり 現象世界はアートマンの身体(様相)であるので 現象世界はブラフマンを本性とするという 「被限定者不二一元論」を唱えています また、彼はブラフマンとビシュヌを同一とし ビシュヌへの「信愛」(バクティ)による解脱を唱えています 但し、彼の信愛は知的な要素が強かったといいます この他にも、ブラフマン、アートマン 現象世界について様々な説が出たようです 釈迦とイエス・ 釈迦と日蓮 ③ 釈迦とイエス・ 釈迦と日蓮 ① |
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