緋山酔恭「B級哲学仙境録」 釈迦とイエス・釈迦と日蓮 ③



B級哲学仙境論


釈迦とイエス

釈迦と日蓮






釈迦とイエス・
釈迦と日蓮 ③





梵我一如と信愛(バクティ)



ヒンズー教では「解脱」の手段として


① 行為の道 (カルマ・ヨガ)

法典に定められている社会的義務を報酬を求めず実践する道



② 知識の道 (ジュニャーナ・ヨガ)

自己の本質であるアートマン(我・霊魂)が

宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と同一であると知る道



③ 信愛の道 (バクティ・ヨガ)

バクティ(信愛)とは、神に絶対帰依することで

神の恩寵により無明の闇が払われ、解脱できるという道



以上の3つの道を認めています




バクティ(信愛)は、最初、南インドの

ビシュヌ派(ヒンズー教はビシュヌ派とシヴァ派に大別される)

の諸派で重視されたそうです



そして7世紀頃からアールワールと呼ばれるビシュヌ派の

神秘主義的吟遊(ぎんゆう)詩人たちが現れ


寺院から寺院を巡って、バクティあふれた熱狂的な宗教詩を

神の像の前で歌うようになったとされます




この宗教詩人たちの言説が

やがて神学として整備されていくわけですが


前述のラーマーヌジャ(1017~1137)が

バクティの一応の哲学的完成をなしたとされています


彼は東インドにもバクティを広めています



ラーマーヌジャの教えは、のちに

危険を感じると猫が子猫の首をくわえて移動するように

神にすべてをまかせるべきだという猫派と


小猿が親猿にとびついて移動するように

個人の努力も必要であるという猿派に分かれたそうです




そして、バクティは15~16世紀に

北インドで爆発的な流行をみるに至ります



知識の道は、自己が宇宙の本体である梵と同一である

ことを知る必要があります


このため、宇宙を深く洞察できる知的エリートだけが

「解脱」が可能ということになります



これに対し「信愛の道」は

女性でも下層カーストの人々でも実践可能です


このため「信愛の道」は爆発的な流行をみたのであり

ヒンズー教が大衆化されるに至った一番の要因とされます






ちなみに、ヴィシュヌはもともとは太陽神で

リグ・ヴェーダではその1つにすぎず

バラモン教時代は、大きな神格ではありませんでした


土着民の最高神と習合をかさね

シヴァと並ぶヒンズー教の最高神に至ったといいます


シヴァが山岳と関係が深いのに対し

ヴィシュヌは海洋と関係が深いです



のちに化身説が登場しています


化身の数や種類は宗派によって

様々なようですが、10化身が広く普及しています


10化身には

ラーマ〔インド2大叙事詩の1つ「ラーマーヤナ」の主人公

コーサラ国王の長男。悪魔を倒す英雄〕


クリシュナ〔インド2大叙事詩の1つ「マハーバーラタ」の主人公

悪魔を退治する英雄〕


ブッダ(釈迦)などがあり


ブッダについては

偉大なる聖典 ヴェーダを悪神(アスラ)から守るため

邪教をとき悪神を退治したといいます



仏教には、那羅延天(ヴィシュヌの別名 ナーラヤナから)あるいは

毘紐天(びちゅうてん・ヴィシュヌの音写)として取り入れられ


また、大力の神として、那羅延堅固王(ならえんけんごおう)となり

密迹金剛力士(みつしゃくこんごうりきし)とともに


金剛力士(仁王)の1人となったたそうですが

仏教では、大きな尊格になることはありませんでした


なお、仁王は、開口の阿形(あぎょう)像=那羅延像と

口を結んだ吽形像(うんぎょう)=密迹像の2体を一対として

寺院の表門などに安置されます






それからバラモン教では

最古のリグ・ヴェーダ時代(前1500~前900頃)には


インドラ〔シャクロー・デーバーナーム・インドラ。軍神。雷神

仏教に取り込まれて帝釈天となっている〕

が最高神的地位にいて


前500年頃には

ブラフマー〔梵天・宇宙の最高原理の「梵」(ブラフマン)の神格化〕

に代わり


ヒンズー教となって

ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3神が

れぞれ宇宙の創造、維持、破壊を司る

として最高神の座にありました



ところがヴィシュヌとシヴァの信仰が高まるにつれ

ブラフマーの地位が下がり

宇宙はヴィシュヌかシヴァのどちらかの影響のもと

ブラフマーの創造がなされた

とされるようになったといいます



なお、バラモン(婆羅門)とは

サンスクリット語(梵語)のブラーフマナの漢訳(音写)で

最高神ブラフマー(梵天)をたてまつり浄行を修する意味とされ

浄行や浄志と漢訳(意訳)されています







釈迦と密教



真言(マントラ)を唱え

除災招福を祈ることはバラモン教時代から存在しましたが


釈迦の原始仏教教団では

マントラ(呪文)による招福、病気直し

延命などの呪術をきびしく禁じていました



さらに指先を組み合わせて

仏や菩薩の悟りや誓いを表現する

「印」〔印契(いんげい)・印相・密印ともいう

仏像、菩薩像にもみられる〕も、厳禁していました




例えば、富豪の息子 ケーヴァッタが

「比丘たちに神通力を披露させれば

信者がもっと増えるのではないか」と言ってきたときに


釈迦は「魔術のごときもので奇跡を見せらて集めた者は

それに冷めると去っていく。自分は説法で奇跡を見せる」

と述べたことはよく知られています


〔 原始仏典の一つディーガ・ニカーヤ(長部経典)の

ケーヴァッタ・スッタ  漢訳仏典は長阿含経の堅固経 〕




また真偽はともかく


阿闍世(あじゃせ)王から

仏教とバラモン教との違いを尋ねられた釈迦は


「手相占い、人相占い、夢占い

火を使う護摩の祈祷、呪文をとなえて行う運命判断

家相判断、悪魔払いの祈祷

花嫁を嫁がせる吉日を予言すること

人を不幸にする呪術、鏡を使う呪術

神懸かりした少女の言葉による予言術・・・


こうした卑しき法を戒めるのが私の教えです」


と述べたというような話(伝説?)もあるようです





また当時、バラモン教でしきりに行われていた

いけにえの祭儀に対しても

釈迦は「山羊や羊や牛を殺しても人は清浄にならない」

と述べていたとされています





しかし、インド仏教は、釈迦の入滅後約100年ないし200年

〔前3世紀後半のアショーカ王の時代〕 原始教団が分裂し

小乗教(部派仏教)の時代を迎えます


のちに民衆に布教する大乗仏教が成立するも

しだいにヒンズー教の圧迫をうけます


さらにイスラム教の侵入

(8世紀頃より始まり多くの寺院や仏像が破壊された)

により衰退します



これらの要因から

バラモ教やヒンズー教の呪術的要素を取り込み

大きく変貌し「密教」(後期仏教)が誕生します


密教の代表的経典である

大日経や金剛頂経が成立するのは、7世紀半ばから末とされています



釈迦はキリストより約500年も前の人ですから

釈迦が没してから1100年も経ってからです





「密教」の根本は

曼荼羅本尊に向かい


手に印を結び(身)


口に真言を唱え(口)

心に本尊を観じる(意) ことで


仏の身口意(しんくい・意は心のこと)

の働き〔これを仏の三密という〕が


修行者の身に入り

修行者の身口意の三業が、仏の三密と相応合致し


つまり衆生の信と仏の慈悲により

衆生と仏とが結ばれ


行者がそのまま仏となるというものです (即身成仏)


これを三密加持とか、三密瑜伽(ゆが)といいます





ちなみにヒンズー教の成立過程にあたる前2~後3世紀は

仏教がインド宗教界、思想界の主流であったそうです


インド仏教の滅亡は、歴史的には1203年のイスラム教徒による

密教の根本道場 ビクラマシー寺院の破壊とされています







日蓮と密教



では、創価学会なんかが仰ぐ

日蓮とは、どういう人なんでしょう?


日蓮仏法の根幹は


「南無妙法蓮華経」を

宇宙の根本原理、宇宙の究極の法則、宇宙の仏界の生命

宇宙の慈悲の生命などとし


日蓮の書いた曼荼羅を拝み

題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば


自己に内在する仏界の生命である南無妙法蓮華経が

曼荼羅を仲立ちとして


宇宙の仏界である南無妙法蓮華経と合致し

自己の仏界が顕現される  即身成仏される



あるいは南無妙法蓮華経と唱えれば

宇宙根源のリズムである南無妙法蓮華経に

自己の生命がのっかって

幸福の方向へ向かうというものです





ちなみに「即身成仏」とは

「即身仏」(ミイラ)とは違います


本来 何度も生まれ変わり修行して悟れるはずの

究極の真理を


日蓮の書いた曼荼羅を拝み

題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば


現世で悟ることができ

仏(覚者)になれるということです






●  即身成仏


衆生が凡夫の身のまま仏になること

大乗仏教は、利他を行じて仏になることを目指すものですが


当初、歴劫修行〔りゃっこうしゅぎょう・

何度も生まれ変わって長大な期間修行すること〕をして


仏の相(三十二相や八十種好)をそなえて仏なるとされていました


その後、そんなに長い期間をかけなくても

現世で成仏できるはずだ

という考えが求められ


それが密教で「即身成仏」という形で成立したとされます





日蓮のいう究極の真理とは

中国天台宗の祖 天台大師 智顗〔ちぎ・538~598〕

が明らかにした

「一念三千」という教えです



ところが日蓮は

これの天台の教えを

≪理の一念三千≫にすぎない主張します



つまり、天台大師は

全ての衆生の成仏の理論(一念三千)を明かしたが


凡夫がどのようにしてこの法理を会得し

成仏するかという方法(事)を説かなかったと!!

と言うのです



そして、私(日蓮)が書いた曼荼羅を拝み

題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば


凡夫でも容易に一念三千の理論を会得し

現世で仏(覚者)になれますよ

と教えたたわけです



これが≪事の一念三千≫です






そもそも「事」とはなんでしょう?


真言宗(真言密教・空海が祖)は


事相〔じそう・

教相が教学面であるのに対して

曼荼羅の建立

壇 (だん・本尊を安置する大壇

護摩を焚くための護摩壇など)の作り方

真言、印の結び方

護摩の作法など実践にかかわる分野〕

ばかりがもっぱら発展し

たくさんの事相の流派が生じました


これに対し教相面では

空海以来ほとんど発展をみせていません




日蓮の≪事相の一念三千≫は

密教の事相となんら変わらないことがわかります


そしてここまで書けば

日蓮仏法の本質が「密教」であることは

誰にでも理解できますね(笑)






ちなみに一念三千とはなにか?


くだけて言うと

≪自己の一念(一瞬の心)を変えれば

世界の全て(三千)が変わる≫ということなのですが


面白いのは

天台大師 智顗(ちぎ)が

一念の中に「国土世間」を含めたことです



一念に、国土世間が含まれていなかったら

一念を変えても、環境変革は別の問題ということになる

すると、一念三千は「自己変革」だけの論理で終わってしまいます



ところが、天台の思想だと

自分の一念を変えれば

自己がよりどころにしている

「非情」(感情のない国土、草木、石など)まで

変えることができるということになります



そしてこの「一念三千」の思想を

一番強く受け継いでいだのが日蓮です



日蓮は

「この娑婆世界の変革をほうっておいて

死後の極楽往生を願うばかりの

念仏宗を信仰すると地獄に落ちるぞ!

念仏無間地獄!!」と叫びました



それゆえ創価学会をはじめとする日蓮系は

布教に熱心であり

社会改革(=政治)に積極的なのです





話をもどすと

日蓮は、空海の真言宗(真言密教)はもちろん


日本の天台宗を密教化した3代天台座主の円仁や

5代天台座主の円珍を痛烈に批判しています


"弘法等・顛倒(てんどう)して大日経最第一と定めて

日本国に弘通せるは法華経一分の乳に

大日経七分の水を入れたるなり

水にも非ず乳にも非ず大日経にも非ず

而(しか)も法華経に似て大日経に似たり"



"円仁・円珍の両大師・先師伝教大師の正義を

劫略(こうりゃく・かすめとること)して

勅宣を申し下すの疑い之れ有る上・

仏誡遁(のが)れ難し、随(したが)つて

又(また)亡国の因縁・謗法の源初之れに始まるか"


と日蓮の御書にあります




ところが日蓮自身の教えが「密教」そのものなのですよ(笑)



では、日蓮が痛烈に批判する

天台密教とはなんなのでしょう?



簡単に言うと

法華経や天台大師の教えと

「密教」(大日経や金剛頂経)を融合させたのなのです



これに対して、日蓮のしたことは

法華経をそのまま密教化した ということです


正しくは、法華経を理論化した天台の教義を

そのまま密教化したわけです




また、密教においては

即身成仏するための秘法は、師匠から


修行をつんできて法を受けるべく

資格のある弟子にのみ伝授されていくものであるのに対し


日蓮の場合、法然(日本の浄土宗の教祖)の

念仏(南無阿弥陀仏)をまねて

一般庶民を対象に、広く布教したこともあって


誰一人として、日蓮仏法のの根本が「密教」

さらに言えば「バラモン教」の「梵我一如」と

なんら変わらないことに気づかないのです







釈迦と日蓮



釈迦と日蓮の根本的な違いを判りやすく述べましょう


例えば、あなたの弟が犬を拾ってきたとします


そして「この犬の名前、ポチに決めたよ」と言ったとします


あなたは、このポチという名に対して

正しいとか誤りであるとか言えますか?


言えませんよね



これは、≪創造された真理≫に対しては

「それは正しい」とか

「それは間違っている」とか


あるいは「そういう考え方もあるけど、こういう考えもあるでしょ」

などと論じられないからです



日蓮は

「宇宙の根本原理、宇宙根源の法則は

≪南無妙法蓮華経≫です


南無妙法蓮華経は単なる名称ではありません

唱えれば量り知れない功徳にあずかれます」

と主張しました



これに対して

南無妙法蓮華経が 正しいとか、間違っているとか

論じられないでしょ


創造された真理は、信じるか信じないかのことになるのです




釈迦は、宇宙の根本原理など

わけのわからない問題に対しては

「無記」(説明しない。回答しない)という立場をとりました



そして「全ては空であり、変化してやまない。ゆえに実体がない」

と主張しただけです


釈迦は【真理の発見者】なんです



これに対し、日蓮というひとは【真理の創造者】であり

一神教の世界では、真理の創造者とは「神」のことです



バラモン教では、「梵」を宇宙の根本原理をとし

密教では「大日如来」を宇宙の根本仏とし


日蓮仏法ではこれが「南無妙法蓮華経」にすりかわった

にすぎないのです




例えるなら、釈迦が「これは黒い虫です!!」

と言ったのに対し


Aさんが「いやいやそれはクワガタだよ」と言う

さらにBさんが「それはミヤマクワガタでしょ」と言える


このように発見された真理は、客観性をもつゆえ

議論の余地があるのです






キリスト教なら

唯一絶対神が6日間で宇宙の全てを創造したとか

マリアが処女のままイエスを産んだとか


悪魔はもともと天上界にいた天使で

イエスの試練に耐えきれず地上に落とされた堕天使である

などといった「真理」があります



神が6日で世界を創造したという話は旧約聖書にあります


「マリアの処女懐胎」や「悪魔は堕天使」は

1962~65年に行われた

カトリックの公会議で正統教義として承認されています



しかしこのような真理は、その宗教宗派にしか通らない話です


特定の宗教宗派にしか通用しない真理など

私に言わせると真理ではなくてドグマ(独善)です



ドグマとは、特定の宗教宗派にとっての「価値」(必要性)なのです







釈迦とイエス



では、釈迦とイエスに類似点はあるのか?


民主主義が発達していけば、当然、それにともなって

弱者に対するセーフティーネットも確立していきます


そして、幸いなことにそういう時代に我々は生まれてきました


セーフティーネットなんてなかった時代の弱者の不安や痛みは

現代の私たちでは想像がつかないほど大きかったことでしょう



とくにかつては身分が大きな宿命であり

不幸の根本的原因の一つであったことは言うまでもありません



身分は先祖から子々孫々まで代々続くものであり

その前では

才能も努力もほとんど意味のないものだったのですから・・・




このような不条理に立たされた弱者に対して


キリストは「貧しき者は幸いなり」とか

「神のもとに平等」とか「信じる者は救われる」などと

≪信仰による平等論≫を教えました



釈迦は、苦の原因は「執著」であるとし

全てが「空」と説き、執著から離れることを教え


これを達成した境地が

「涅槃」(ねはん・ニルバーナの音写。静寂な悟り)

であると教えました



また"生まれによってバラモンとなるのではない

生まれによってバラモンならざる者となるのでもない

行為によってバラモンなのである

行為によってバラモンならざる者なるのである"

(NHKブックス中村元・田辺祥二著「ブッダの人と思想」)


と、因果応報を根拠とする

≪行為による平等論≫を説いたのです




つまり、彼らは、不条理に対する答えを与え

弱者の心を救済したわけです




人類は、全人類が食べていくのに十分な食糧を

生産しているといいます


だから、富める国で過剰に生産され、廃棄している食糧が

貧しい国の人たちに分配されれば


この世界から「食べることに苦しむ」という

人間の不幸の1つが消滅します


このようなことは、皆が解っていることです



でも、この誰もが解る単純な話が実現できないのです


だから世界の1/6もの人が、今も飢餓で苦しんでいるのです


ちなみに 日本は食糧の7割以上を輸入しながら

その1/3を捨てている世界一の残飯大国なんだそうです




こうした「貧困」や「差別」といった不幸に対し


釈迦は

"執著を離れれば「苦」は消滅し涅槃の境地を得る"と教え


イエスは

"全てが神のもとに平等で、信じる者は救われる"

と答えたわけです



つまり、"本来 差別なんかは存在してやしない

平等に救済の道が開かれているんだぞ"

と答えたのであり


現実にある「貧困」や「差別」といった

不幸そのものを解決したのではありません




むしろ「貧困」については

経済学者たちが模索してきたと言えます


アダム・スミス(1727~90・イギリスの経済学者。哲学者)は

「国が貧しいのは市場が発達していないからであり


規制を緩和・撤廃し、多くの人が

市場に参入できるようにすれば、貧困はなくなる」と主張しています



マルサス(1766~1834・イギリスの経済学者)は

「国が貧しいのは人口が多すぎるからだ」と言ったそうです



マックス・ウェーバー

(1864~1920・ドイツの社会学者。経済学者)は

「その国が貧しいのは、人々が迷信や慣習にとらわれ

科学的で合理的な判断をしないからだ」と主張したといいます



そして、マルクス(1818~1883)は

「貧困は資本家による搾取が原因だ!!」と叫んだのです





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