緋山「B哲仙境録」 女性の価値、子供の意味、マイノリティー・ジェンダーについて



B級哲学仙境論


女性の価値

マイノリティー


 




女性の価値・
子供の意味・
マイノリティー・
ジェンダーについて





女性の価値



風狂さんという方のサイトに

とても興味深い話があります


(現在、サイトがみあたりません

みつけ方が悪いのかもですが)



【 人類は直立歩行によって

骨盤をあまり横に広げると歩行時のバランスが悪くなる


このことから

人類の骨盤はお椀形に変化した


そしてこれによって、産道が狭まり、他の動物に比べ難産化した



また、狭い産道を通れるように子供が

未熟児の状態で生まれてくるようになり

母親による高度の保育が必要となった



つまり、骨盤の変化→

子供が未熟児の状態で生まれてくるようになり


高度の保育が必要となった→

オスの恒常的な支援が必要となった



また、育児期間が長いのは

人類が脳を発達させた結果でもあり

子供の期間は脳を発達させるための期間であって

多くの知識を得るための期間だと考えられる 】



【 このような進化を人類がたどったことから

女性は、資源(食料、保護、世話、優しさなど)を確約した

男としか性交しないようにできている


逆にいうと、男性の「愛」とは「資源の確約」という約束を

否応なく守りたがる心理メカニズムである 】




こうした視点から

売春は短期の婚姻契約

結婚は長期の売春契約 と言う学者の人もいますし


極論でいうと、売春がビジネスなら

結婚も、女性にとってビジネスである

とさえ言えるのです






もともと人類の歴史においては

共同体で女性を所有していて

決められた仕事をなした男性には

平等に「性」が分配されてきたという説もあります



こうした社会においては

男性に平等に性を分配することが

女性の役割でもあったということです


また、女性も美醜を問わず

誰しも性欲を満たすことができたと言えます



さらに、子供も「誰の子」というよりも

共同体みんなの子供として育てられたと言います




ところが部族社会が崩壊し

私有財産制が発達したことによって

性の供給を受けることができない男性が出現してしまった

そうです



これは女性が、性の供給を制限することにより

「女性の性は価値が高い」という幻想をつくりあげて

力のある男性に庇護を求めていった

というのが原因ということです






つまり、女性がつくり出した

社会的な「性」=ジェンダー に、騙されて


男性は、指輪だ ネックレスだ ブランドモノのバッグだ

と貢がされている(笑) ということです



近世ヨーロッパの貴婦人が

華麗なドレス、豪奢なアクセサリーで身を飾り

美を競った社交の場、舞踏会


これなんか、女性のつくりあげた

ジェンダーの象徴でしょう






但し、原始共産制と呼ばれる社会を

人類原初の社会と考える立場には、なんら証拠はないそうです


1つの説にすぎないということです



我々と近縁とされる類人猿やサルの社会を調べてみても

それぞれです



現代人のように、雌雄のペアとその子どもたちで構成される

単雄単雌型の群れで暮らす類人猿にはテナガザルがいます



また、オス一頭とメス複数頭とその子どもたちで構成される

単雄複雌型の群れで暮らす類人猿にはゴリラがいます



メス一頭とオス複数頭とその子どもたちで構成される

複雄単雌型の群れで暮らす類人猿はいないそうですが


中南米にいる新世界ザルと呼ばれるグループの中に存在するといいます



複数のオトナオスと複数のオトナメスとその子どもたちで構成される

複雄複雌型の群れで暮らす類人猿にはチンパンジーがいます


ニホンザルもそうです



それから、霊長類(類人猿やサル)の多くは

群れで生活しているそうですが


オランウータンなんかは基本的に単独で生活しているといます

〔母親と子供のみ一緒に生活している〕






類人猿の中では、テナガザル(90%) → オランウータン(93% )→

ゴリラ(96%) → チンパンジー(97%)およびボノボの順に

ヒトと近縁になるそうです 〔 ()は現生のヒトとの遺伝子DNAの共有度 〕



ヒトは、1300万年前にオランウータンの祖先と分かれ

700万年前にゴリラの祖先と分かれ

600万~500万年前にチンパンジーとボノボの祖先と分岐したそうです



移動のさい、ゴリラがナックルウォークをするのに対し

オランウータンは、完全四足歩行をします





なお、現代人の場合

会社などで働いている人にとっては

家族よりも職場の仲間と一緒にいる時間の方が

ずっと長いということもあるので


我々にとって「群れ」とは家族なのか

会社なのかということも考える必要があるようです







話を戻します


女性が、性の供給を制限することにより

「女性の性は価値が高い」という幻想をつくりあげ


子育てと引き換えに

男性から金品の投資をずっと確約されるのです



男性は本当は、自分のことにもっと

資源(お金やエネルギーや時間)を使えば

豊かな人生がおくれるかもしれませんね(笑)



そう考えると、人間の社会は

本当は、女性中心に回っているといえます






女性が美しくなろうとする

美にあくなき投資をするのは


男性の性欲が誘導型であり

女性の美に誘導されて

おこるしくみになっているからだそうです





よく、「男性は自分の子孫を多く残したい

という本能があるので多くの相手とセックスしたがる

これに対して女性は、強い遺伝子を残そうと

1人の優れた男性を求める」

と言われます



ただ、様々な遺伝子を残した方が

自分の遺伝子を残せる確率が高くなるという意味では

女性も男性も同じだと思いますが・・・





いずれにしても

一夫一婦制とか、浮気ばダメなんて

生物学的に言えば、男性の性欲に矛盾しています



男性にとって生物学的に矛盾があるのに

浮気したら


女性に、離婚する権利に正当性が生じ

男性は多額の賠償金を払うことになります


法律でも女の権利が高く見積もられて守られている


ということです







ここで、再び、風狂さんのお話に戻ります

これもめちゃくちゃ面白いですよ



男をつなぎとめるために

女がとった戦略というのがじつに面白いのです


≪発情のサインを消し去る≫

という戦略をとったといいます



そもそも動物のオスは発情のサインがなければ

性的に興奮することがなく、交尾することもできない


また、メスの発情期がわかるとそのときに交尾すれば

確実に自分の子孫を残せることがわかる


つまり無駄にエネルギーを使う必要がない



〔なお、生物の発情期が春なのは

冬は生命にとって危険であることからのようです〕



ところが、発情期がわからないと

継続的に性交する必要があるし


メスが自分以外のオスと交尾しないように見張っておく必要がある



つまりメスをずっと独り占めにしなくてはいけなくなった

というわけで、そこから婚姻制度へと発展した

というのです




ちなみに、チンパンジーのメスの月経周期は32日ほどらしく、排卵が近くなると

性器を覆っている皮膚が、ピンク色に大きく腫れあがります

この現象は12日ほど続くそうです


但し、この性皮が腫れるという現象は

(ヒヒなど他の霊長類にも見られるが) ヒトに近い類人猿では

チンパンジー属のみにしか見られないといいます






ちなみに、一夫一婦制は

キリスト教の倫理観が基礎となっています



イスラムでは

イスラム教では「4人妻」を認めています


これは、コーランに

「もしお前たちが孤児を公平に扱うことが難しいというなら

孤児の母のうち気に入った女を2人なり3人なり

あるいは4人なりめとりなさい

もし妻を公平に扱えないのなら、1人だけ

あるいは妻の他は奴隷の女で我慢しておきなさい」

という神の言葉に基づくそうです



イスラム教国は、武力によって布教をすすめていく

政策がとられたことから

多数の未亡人と孤児が生まれ

そこでコーランにはこんな話がみられるわけです



さらに4人を超えて妻を持っても罰せられることはなく

ムハンマド自身、正妻だけでも少なくとも14人はいたようで

多数の妻をもっていたそうです





旧約聖書によると

≪ アブラハムは、85歳を超えても子供がなく

妻のサラも高齢であったため、サラの女奴隷の

若いエジプト人 ハガルとの間に長子 イシュマエルをもうけた


99歳のアブラハムもとに、神の使者がやってきて

「サラを祝福して男子を与える」という啓示を伝える


こうして、次男のイサクが生まれる

ときにアブラハム100歳、サラ90歳 ≫ とあり


神が、多妻をすすめた事実みられます



聖書には一夫多妻を禁じている箇所はみられないといいます


ソロモン王なんかは、妻700人、側室300人という

大ハーレムを築いていますが

そのこと自体では、神によって裁かれていません



但し、神が造られたアダムの伴侶は、イブだけであることから

一夫一妻が望ましいという考え方が支配的になっていったようです




売春も、ギリシャ・ローマ時代では公認されていた事実があります


西欧における

一夫一婦制、同性愛への偏見、売春の禁止 …

といったものは、すべてキリスト教の倫理観から成立したもの

ということになります





日本だって少子化対策だけを考えるなら一夫多妻制を認め

経済力のある人にどんどん子供を作ってもらう方がいいでしょう


ただ、一夫一婦制がルールとしてあるということは

そこに社会を維持するための何らかの意味があると思います


女性への差別をなくすとか

お金のない人にも平等に妻を持てる機会を与えることにより

不公平感を薄めるとか・・・・ です






ついでに「売春は悪だ」という考えは正しいのか?

という話をしておくと


対等の関係、純粋な関係といっても

男女において温度差があるはずです


【 女性は、資源(食料、保護、世話、優しさなど)を

確約した男としか性交しないようにできている

逆にいうと、男性の女性への「愛」とは「資源の確約」という約束を

否応なく守りたがる心理メカニズムである 】ということです


また、≪売春は短期の婚姻契約、結婚は長期の売春契約≫

と論じられることもあるのです






「我思う、ゆえに我あり」で有名な

デカルト(1596~1650)は


生得観念〔しょうとくかんねん・

生まれながらにして(=先天的・先験的)

心に具わっている観念

神や、自我についての観念など〕


の存在を主張しましたが



これを否定した

イギリスの経験主義哲学者のロック(1632~1704)は

「すべての観念は、白紙(タブラ・ラサ)の心に

経験によって(=後天的) 得られる」

という有名な言葉を残しました





よく、大学の倫理の授業で、このような↓問題が出されます


① あなたはブレーキの効かなくなった車に乗っている

このまま走ると5人が死んでし まう


しかし車を脇道にそらすと別の1人を殺すが5人は助かる

あなたは車の進路を変えるべきだろうか?




② 事故で5人の重傷者がいる

5人はそれぞれ違う臓器を致命的に損傷している


このとき事故とは無関係な男がいたとする

この男の臓器を5人に移植すれば

男は死んでしまうが、5人は助けられる


あなたが外科医だったら、1人を犠牲にしてでも5人を助けるべきか?




こうした話のオリジナル版は

イギリスの哲学者で

倫理学の分野で業績を残した

フィリッパ・ルース・フット(1920~2010)によって

「トロッコ問題」として提示されたものです




功利主義的な考えからいくと

1人を犠牲にし、5人を助けるほうが

「正しい」ことになりますが



多くの人が①の質問では

「一人を犠牲にすることは許される」と答えるのに対し

②では「一人を犠牲にすることは許されない」と答えるそうです


つまり逆の結果が生じるわけです


これは文化や宗教の違う様々な地域で調べてみても

ほとんど同じ結果になるといいます



1人の死について

①の場合、巻き添え(副次的なこと)

と考えることができるのに対し


②の場合は、自分の直接的な意図と行為によって死ぬこと

になるからだとされています





文化や宗教の違う様々な地域で調べてみても

ほとんど同じ結果になるとすると


人間には生まれながらにして

道徳的に「なにが正しくなにが間違えか」を

直観かつ強力的に判断する能力=「理性」がある


そうした「理性」というものが

本能として具わっているのではないのか?

ということになりますよね




このようなことから

今ではタブラ・ラサ説は人気がなく

道徳性は、生得的なもの=先天的なものとして

人間に備わっていると考えられるようになってきているといいます




私たちは、リンチ殺人に対して

「絶対に許せない」といった感情が湧きます



売春が、こうした人間の基礎的な感情あるいは理性

あるいは思考に基づく善悪判断なら

「売春は善だ」とか「売春は悪だ」と決められますが


売春についての善悪判断は

世間のパラダイム(しきたりやしがらみ。常識)でしかないので

本質においての善悪は、決められないのです



安いお金で、どんな男性をも平等に、愛してくれる女性と

貞淑な妻と、本質でいうと、むしろ前者の方が立派な人間とさえ言える

ということなのです




「割りきった関係だから、容姿などどうでもいいのですか?

ちびデブハゲの三拍子揃ったおじさんでもいいのですか?」

と語るA子と


これに対し

「大丈夫です どんな男性でも可愛いところがあるしね」

と語るB子では


A子の方が、容姿で男性を差別しているでしょ(笑)


どっちが、たくさん「愛」をもっていますか?

という話になるということです



だいいち、浮かばれない男性が、実際に救済されている

という側面があるのです








女性の尊厳とは?



女性が身を売る仕事 =

女性の≪尊厳≫を害する行為 と言う人がいます



貧しい国はどうかわかりませんが

日本ではそんな話は嘘ぱっちです



風俗店は、スカウトから紹介された

女の子に稼がせてあけないといけません


そうしないと

その子はスカウトに

「この店は稼げない」と文句を言います



するとスカウトからは、風俗店に対し

「そんなことでは女の子ひきあげるから」とおどしてきます


容姿のよい子には

1日3万稼げない場合、その分、補填する

などといった約束までして回してもらうわけです



ちなみにスカウトは

女の子が稼いだ分の15%を、(女の子からでなく) お店からもらえる

といったシステムになっています



〔 その分、女の子の後ろ盾になり、店からぼったくられないようにしたり

心のケアをしたりするのが、スカウトです


女の子としても、直接、店に雇われるよりも

有益なので、スカウトという職業が成立するのです


しかも、全国どこでも、またガールズバーからソープまで

その子の希望にあわせて紹介できる決まりとなっているのです 〕



若くて容姿のよい女性の場合

時間の単位で、食事よりも、sexのほうが稼げるわけですから


そういう子とsexをするよりも

食事をするほうがずっとハードルが高いのです



つまり、若くて容姿のよい風俗関係の女性の場合

尊厳(ぶっちゃけ身体)を売って

お金を得ている という体面をとっていますが

ホントは、身体ではなく、時間を売っているのです



要するに、女の子の時間はタダではない

女の子の時間が一番高い ということなのです



そして、尊厳とは、≪信念や誇りを感じて生きることができる≫

ということですから


女の子は、その時間を売って

自分が≪信念や誇りを感じて生きることができるもの≫

すなわち「尊厳」を手に入れるわけです




もちろん、女性にとって容姿が優れている

ということは

それによって、誇りをもって生きることができる

ということは言えます



なので、優れた容姿そのものも「尊厳」とは言えます



とはいえ、身体を売る女性にとって

「尊厳を踏みにじられる行為」とは

時間に対する対価が払われないことですから


身体よりもむしろ時間が、尊厳と同等の価値をもつ

もっと言えば、尊厳そのものである と言えるのです



一方、容姿や身体は

尊厳という「目的の価値」を手に入れるための

武器というか、「手段としての価値」である ということです




尊厳論







子供の意味



未来の環境の変化に適応するために

生物は遺伝的に違う個体を生み出します


その中で環境に適応した強い個体だけが

子孫を残し「種」は保存されていきます


これが進化です



ということは、生物が生存する意義の第一は

自己保存=本能ではなく、「種の保存」です



≪種の保存≫というのは


いわしのような魚なら

たくさん生まれて

たくさん大きな魚に食べられることで

残ったものが

種を保存していく

というように


魚類にもみられる原理です





これは人間にとっても同じはずです


例えば、アフリカという日差しの強い場所では

紫外線から身を守るため、肌の黒い個体が優位になり

生き残って子孫を残してきたわけです



このように、生物が存在として存在するの第一義が

「種の保存」であるとしたら


日本人が滅んだとしたって

ホモサピエンスという「種」にとっては

どうってことないということになります





人間は「遠くの人を助けない」



富める国で過剰に生産され、廃棄している食糧が

貧しい国の人たちに分配されれば

この世界から「食べることに苦しむ」という不幸の1つが消滅します


こんなことは、皆が解っていることですが

この誰もが解る単純な話が実現できないのが

人間という英知をもつ存在です


だから世界の1/6もの人が、今も飢餓で苦しんでいるのです




人間が「遠くの人を助けない」

のは


人類に「遠くの人を助けるという進化的な経験がないから」

という人がいますが



そもそも、進化=種の保存

に対して意味がない  生物の存在目的ではない

ということなのかもしれません






「生物は生きることが目的である」

「生物の本質は自己保存である」と言うなら


生物はなぜそれと矛盾する

「子孫を残す」という行為をなすのであろうか?

という話になりますよ




子孫を残すということは

子供にメシを食わせなきゃならないし

学校にも行かせなきゃならない(笑)


それだけエルギーを使うし

自分の生命をおびやかす行為でもあります




ナイチンゲールが活躍した時代は

細菌学も衛生学も未発達で


病院もきわめて不衛生で

産婦が、医師の手を介して細菌感染を起こし

産褥熱(さんじょくねつ)にかかって亡くなることも

多かったといいます



1840年代は、じつに1/3の女性が、出産後、産褥熱で亡くなっていた

あり、まさに出産は、女性にとって命がけでした





人間はみな

「子孫を残すこと」=「自己保存」(ホントは種の保存です)

と思い込んでしまっていますから


この矛盾に気づく人が

世界にどれだけいるでしょうか?

また、いたでしょうか?

ということなのです




そもそも自分=遺伝子だとしたら

雌雄分化した生物は、子孫によって

自分を保存することなどできはしません


子どもですら半分しか自分ではないことになります



さらに、我々1人1人の10世代前からの祖先は

1024人存在するといいます


となると、我々の持つ遺伝子は

46本(ヒトの染色体の数)×1024人=4万7千104本のうちの46本

ということになります



なので10代後の子孫の46本のうち

1つでも自分のものである確率は、とんでもなく少ないのです


子孫に男子が続いた場合に限り、Y遺伝子だけは残りますが・・・・




さらに戦国末期、江戸時代初期までさかのぼると

だいたい血脈的な先祖は16代前になるそうですが

その数なんと3万2千768人になり


平安時代とか奈良時代までいくと数千万人になるそうです



つまり自己を永遠に保存していく

などということは夢物語なのです




そうなると、本来、種の保存である行為を

自己保存と思わせる存在がなくてはなりません


それが、なんなのかは分かりませんが・・・・




いずれにせよ


「自分の子孫を残したい」「自分の遺伝子を残したい」

という欲求があるという事実は


子供や子孫が

≪かなり確かな救済原理(自己を成り立たせている論理)≫

≪かなり確かな自分の存在根拠≫なるからです


父親なら≪自分の夢を子供によって実現させたい≫

などという気持ちにかられたりします






一神教の目的というのは

死後、天国に生まれて永遠の幸福を得ることです


キリスト教徒とイスラム教徒で

だいたい世界人口の2/3を占めるとすると


それだけの人がそのように願っているということになります



日本でも同様に

日本は、仏教の国ですが

本来の仏教思想である≪輪廻転生≫は、あまり定着せず

死後、極楽浄土に生まれる≪極楽往生=成仏≫

の考えが広まりました



また、バラモン教、仏教、ジャイナ教

バラモン教が変貌して成立したヒンズー教

といったインドの宗教はどれも


「解脱」(げだつ)といって

輪廻転生から脱し、二度とこの世に生まれることがないことを

究極の目的としています



以上のよう事実から

人間が「この世界に二度と生まれてきたくない」

と思っているということはあきらかなのです




なぜ、この世界を厭(いと)うのでしょうか?


女性という存在で考えると

女性は、常に性的価値を評価されて生きています


性的価値において、常に人の目にさらされて生きています


「あいつはブスだ」とか、「まぁまぁじゃねぇ」とか

「あいつとやりたい」とか・・・・



そんな優越・劣等の世界だから

親は「二度とこの世に生まれてきたくない」のです




人間というのは、じつに身勝手な生き物です


なぜなら自分が二度と生まれてきたくないと思っているこの世界に

子供を産み落とすのです


しかもその身勝手に、誰1人として気づいていないのです





儒教では、親を大事にすることが

人として一番立派な行為として教えます


日本では江戸時代、儒教の朱子学が正学とされていたので

いまだその考えは根強いです


本来、子供を産むというのは

親の欲望以外なにものでもないのです



子供が親に対して「育ててもらった恩」が

仮にあるとしても


そんなものは

子供が「自分(親)の存在根拠になってくれた恩」

に比べたら、微々たるものなのです(笑)



≪夫婦の絆になる≫ ≪自分の夢を子供によって実現させたい≫ 

≪自分たちの老後のため≫ などなどの理由で産むのに


「虐待する」「放置して応援しない」

「尊厳を否定する」「負担を要求する」 とんでもない話なのです





だいたい発展途上国では

子供を≪労働力≫として生みます


これは、自分が生きてゆくために精一杯だからです




社会契約論を最初に唱えた

イギリスの哲学者 ホッブス(1588~1679)は


≪ 動物は、理性を持たないため自己保存の予見ができない

このため生命の危険を感じたときだけ自己保存を考える


これに対して人間は、理性によって未来の自己保存を予見して

つねに他者より優位に立とうと行動する

それゆえ「際限のない欲望」が生まれる ≫

と考えたわけですが



将来、年老いたときに、なにがあるかわならない

「子供がいれば安心だ」

「子供にめんどうをみてもらえる」

というのは、未来の自己保存のために、子供を産むようなものです





文部科学省のサイトに

「社会の宝」として子どもを育てよう!(報告)

「子育ては、親だけが担うことだと思っていませんか?

そうではありません

子どもを育てることは未来の日本を支える人材を育てることです

社会の一人一人、みんなが主役なのです

子どもの成長を社会全体で支え喜び合いましょう」


とあります


これについては、間違えでも、正しいでもなく

宗教に近いのです




もとオウム真理教の大幹部で

現在はオウムの後継団体の1つ「ひかりの輪」の代表

上祐史浩(じょうゆうふみひろ)氏が

オウムに出家する際、母親にこう↓語ったそうです


「第三次世界大戦で核戦争がおきて、人々が焼かれるのを防ぐためにも

母さんのためにも 出家しなければいけない

僕たちが一生懸命修行したら、特別な変化がおこって

世の中が真理にもとづく平和になるんだ」



≪第三次世界大戦≫  ≪特別な変化≫

≪真理≫  ≪真理にもとづく平和≫  ≪救済≫  ≪使命≫

≪人類愛≫  ≪世界の終末≫  ≪解脱≫

≪宇宙の根本原理≫  ≪宇宙根源の法則≫



【 子供は社会の宝 】

という言葉はこうした言葉に近いということなのです


人間を言葉の世界にひきずり込む力をもった言葉である

ということなのです



宗教は、大げさだとしても

何度も書いているように



【 結論を言うと


創価学会の新聞を毎日新聞が印刷している世の中

言論の自由なんて「嘘」の世の中…



肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ

多くの人を殺している私たち…


これは、家畜を食べているというのではなく

我々先進諸国の人間が肉食獣として

草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです



それにコンビニのお弁当を食べるたびに

分解しにくいプラスチックを廃棄し

地球すら破壊しようとしている私たち・・・

全てのことが「お金」の世の中…



そんな上に私たちは

「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった

バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ

その上にのっかって生活しているのです


つまりゲームの世界だけでなく

現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル

仮想現実の上にのっかった現実なのです 】



そもそも、我々は、言葉の世界に生きていて

宗教の信者と五十歩百歩であり


【子供は社会の宝】なんて言葉は

「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいったものと一緒なのです




我々がなぜ、子孫を残すのか?

これは、種の保存レベルのことなのです







マイノリティーをどう考えるか?



そもそも国家というのは

各世代、特に若い世代の人口を維持することで

社会的に安定します


経済の安定や

福祉財源の維持による老後の安定などです



それゆえ、子どもを作る人を優遇するのは当然でしょう


(その前に子どもが作れる環境を整備しろよ

という国への批判はありますが)


具体的には、税金の控除があります




また、本来、人間も動物である以上

自分のDNAを残したいという欲求は、本能として具わっています



とはいえ、何かしらの理由で

DNAを残す状態にない人たちもいるのも事実です



夫婦どちらかが不妊症で作れない人たち


性同一性障害の人たち


LGBT〔レズビアン(女性同性愛者)・ゲイ(男性同性愛者)・

バイセクシュアル(両性愛者)・

トランスジェンダー(性別越境者)〕といった

セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の人たち


さらには

産んでも育てるお金や環境がない人たちもいます






「権力」の哲学者として知られる

ミシェル・フーコー(1926~84・フランスの哲学者)の


大著「性の歴史」によると


【 古代ギリシアや古代オリエントの社会では

ホモや少年愛が、貴族階級の一般的な性愛として社会的に承認されていた

ところがキリスト教が、世界宗教となり、その倫理観が支配的となった


こうして中世には、同性愛者は

性の倒錯者(倒錯とはさかさまの意)とされ

神への冒涜者、罪深き者として排除されていった


18世紀以降(産業革命以降)は、権力が、労働の観点から

人口のもとである「性」を管理しようとし


人口の増加に貢献しない、つまり産業社会の発展に貢献しない

同性愛者の性行動を問題視するようになり

分析の対象とするようになった


18、19世紀には、一夫一婦制を正常とする考え方が広まった

こうして同性愛が差別や偏見の対象となっていった 】とあります



ちなみに

フーコー自身が、ホモ・セクシャル(同性愛者)で

同性愛が原因のエイズで死んだと言われています





日本では「夜這い」という習俗が大正時代まであり

各地の農村では、戦後、高度成長期直前まで存在していたそうです



平安時代は「妻問い婚」と言って、オトコがオンナの家に訪ねていき

性交をして、食べ物などいろいろな物資を置いていったそうです



また江戸時代には茶屋などで客を相手に男色を売った

「陰間」と呼ばれる男娼がいたそうです




売春の禁止、一夫一婦制、同性愛の禁止・・・・

みなキリスト教の倫理観から成立したものなんです


いいとか悪いとかは別にして・・・・





ナチのホロコーストではユダヤ人ばかりでなく

ジプシー(ロマ人・移動型生活をする民族)、戦争捕虜


反ナチ分子や共産主義者や無政府主義者などの政治犯

身体障害者、精神障害者、同性愛者、浮浪者


アルコール依存症患者、一般犯罪者、カトリックの聖職者

エホバの証人(ものみの塔)の信者


さらにはこれらをかくまった者なども虐殺されました





最初に社会契約論を唱えた

イギリスの哲学者 ホップス(1588~1679)は


【 人間は、自然状態にあっては

自己保存のために積極的に暴力を用いてもよいといった

「自然権」〔自然状態にあって人間が持つ権利、人権〕

を生まれながらに持つ


ゆえに自然権の行使は、敵対者に、先制攻撃を加えることで

殺害するか服従させるかの選択となる


人々は、自己保存の本能から、他人の暴力による死を嫌い

それ回避するために、自然権を主権者(代理人)に委ねる契約をする



自然権を委ねるとは

自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でもなく

理性を委ねることである

この契約によって成立した社会が国家である 】


と述べています




つまり、自然権からすれば、なにをしても自由だけど

国家、社会で生活している以上

他人の生命、財産を不当に侵害してはならない

ということです



逆に、他人の生命、財産を不当に侵害しなければ

性的マイノリティーや

結婚しない人、子供をつくらない人は、赦されるべきなはずです





以上のことを、総合して結論を述べると


性的マイノリティーや

結婚しない、子供をつくらないという生き方は、個人の自由です



ただ、社会の維持と個人の維持のどちらを選択するか

において、個人を選択したのならば

社会を当てにするのは筋が違いということです



例えば、同性婚を認めると

控除も発生することになるので

それを悪用する人が必ず出てくるでしょう


それをあえて法律で認める必要があるのかは

疑問であるということです







ジェンダーフリーについて



「ジェンダーフリー」というと


学校で、出席簿を男女区別のない順でとる


男子を「くん」女子を「さん」で呼ぶのは

区別(差別)だとして、男子も女子も「さん」付けで呼ぶ


体操服を両性共通のデザインにする


男子にも家庭科を必修にさせる


男子が学級委員、女子が副学級委員といった固定化をしない


こういった学校教育か浮かんできますよね



そもそも、ジェンダーフリーとはどこからきたのでしょうか?


1979年に、国連が女性差別撤廃条約を採択


これを受け、日本政府は男女共学化に取り組みだし

1993年に中学校で、1994年には高校で、家庭科の男女共学化が実施


これにより、小学校5・6年、中学1~3年、高校1年の合計6年間

にわたる男女共修の家庭科教育体制が完成されたそうです



1999年(平成11年)には

「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思により

社会のあらゆる分野の活動に参画する機会が確保される社会」


「男女が平等に政治的、経済的、社会的

文化的利益を享受することができ、かつ、ともに責任を担う社会」


を目指すための「男女共同参画社会基本法」が公布・施行され


2001年には、内閣府に男女共同参画局が設立されています



ジェンダーフリーは

こうした男女共同参画社会基本法施行のための思想として

持ち込まれたものだそうです



ところがジェンダーフリーという言葉をめぐって誤解や混乱が起こり

2006年には、男女共同参画局より地方公共団体に対して

「この用語を使用しないことが適切」との通達が出ています





そもそもジェンダーフリーってなんなの?


ジェンダーとは、生物学的に規定された「性」(sex)ではなく

社会的文化的に規定された「性差」の意味で、フリーは自由の意味で

ジェンダーフリーとは和製英語だといいます



なお「ジェンダーレス」とは、違います



ジェンダーレスとは

性差(ジェンダー)は

「人間が人為的に作り出した社会的文化的性別である」とし

性差そのものを否定します



男子が、「男なんだから、おしとやかで優しくありなさい」

と教育を受け、ままごとやあやとりなんかをして

成長していけば、女性のようになるし


女子が、「女なのだから、活発でありなさい。勇気をもちなさい」

と教育され、かけっこや木登りなんかをして

成長していけば、男性のようになる


といった思想です



簡単にいうと

「男らしさ」「女らしさ」(=ジェンダー)を否定し


「女なんだから、もっとおしとやかにしなさい」

「男なんだから泣くんじゃない」というは“ダメ”

とする考えです




これに対し、ジェンダーフリーは

社会的な男女の観念にとらわれることなく

自分らしく生きましょうという思想、運動なんだそうです




そもそも「男らしさ」「女らしさ」は

男女の脳の構造的違いや、男性ホルモン(アンドロゲン)の有無によって

生じていることが判っているといいます



つまり、ジェンダーは、人間が人為的に作り出したものではない

ことが分かっているのです



なので「女なんだから、もっとおしとやかにしなさい」

「男なんだから泣くんじゃない」というは“ダメ”が

ジェンダーフリーではなく




ジェンダーフリーとは

ジェンダーが"男性が女性を支配するための道具"になってきたので

それを排除しようという思想、運動だといいます



とくに夫婦の「性別な役割分担」を否定し、夫も子育てに参加し

夫も妻も自分の能力を発揮する仕事に就き

ともに自己実現できるようにしよう

といった運動のようです






ジェンダーフリーについては、賛否両論あって

様々な立場の人が色々なことを言ってきました



石原東京都知事は

「ひな祭りやこいのぼりといった

伝統文化まで拒否する極端でグロテスク(異質)な主張」


「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない

男女の区別なくして、人としての規範はもとより

家庭、社会も成り立たないのは自明の理」


としてジェンダー教育を批判しました




一方、遠足なんかの出発も男子からでは

女子に男子の前に出ることの抵抗感を植えつける

でしゃばらないのが女性の「性」の本質という固定観念を植え付ける

と言われたり



おじいさんが山へ柴刈り(仕事)に

おばあさんが川へ洗濯(家事)に行くという

「桃太郎」の昔話は、性別による役割を意識させるから

子供に読ませてはいけないといった主張まで登場したといいです





さらには、ジェンダー教育には

美しくて優しいだけのお姫様はふさわしくとして


学芸会では、乗馬が上手で縫い物やダンスをもする

シンデレラが創作されたりしたそうです





学芸会では

「女はバカな方がいい」という王様の言葉から

女性に対する社会的偏見について考えさせたり


難題を解決するにあたって

力や武器を使わないことで

男子の攻撃性を批判し、真の力とは何かを教えたりする


といった内容のものがふさわしいとされているようです






さて、そもそも、ジェンダーフリーがおかしいのは

子育てを、女性の「権利」でなく「義務」と決め付けてるところです


子供を育てることを「義務」と考える

それこそ女性の本質を否定しているようなものです




それからジェンダーは

"男性が女性を支配するための道具"になってきたといいますが


性の供給を制限し、性をこのうえもなく価値の高いもの

という幻想を作り出して


資源(食料、保護、世話、優しさなど)を確約した

男としか性交しないといったように


「力」のあるなしで男性を差別し

「性」により男性を誘惑し、支配してきたのは女性ですよ(笑)



つまり、ジェンダーをつくったのも

ジャンダーを支配の道具としてきたのも女性です





また、美人の子は美人の子同士集まって

1種のブランドをつくり

ブスの子を差別するといったように


生物学的な性でなく

社会的に価値を認められた性=ジェンダー

によって、美人な子がブスの子を差別する




このように、ジェンダーというのは

女性自身が、女性自身を

差別する道具としても使われているのです





結局、地味な子は、美人の子と付き合ったって

引き立て役になるだけで


メリットがないから

地味な子同士、付き合うということになるわけです





こういったことは、人間の本質に根差したことであり

いいとか、悪いとかいう話ではないのです








男女の脳の違い



男子がままごとをすれば女のようだと言われ

女子が野球やサッカーなんかをすれば男みたいだと言われます


だけど「男らしさ」「女らしさ」のイメージは

社会の伝統や文化によって形成された

後天的なものであるという考えもあります



つまり

「女子は、木登りしたり

かけっこしたりして自主性を養うことが正しい」


「男子は、あやとりしたり、ままごとしたりして

こまやかさや優しさを養うことが正しい」


と考える社会で育ったなら

男女が逆転するということです



となると

男性の方が力が強い

そういった身体的な違いが

「男子は勇ましく・逞しく、女子は優しく・しとやかに」

といった思考を構築しているだけかもしれませんね





ただ、男女では

脳の構造が地球人と宇宙人ほど差がある

なんて話もされます


男性はつねに「解決」を求め

女性は「共感」を求めるなんて言われています


女性が会話を楽しいと感じるのは

自分がしゃべった量に比例するといいます


平たく言うと内容なんてどうでもいいってことですね




だから、男女の間で

こんなことが日常的に起きているそうです


女性は「答え」を求めていない

なのに、男は結論を述べようと必死になる→


男が答えを話しているのに


女の方は共感を求めているだけなので

途中で全く別の話をし出す→


会話がとびとびになって、男はいらだつ→


どうせ、まともに話を聞かないのだからと

以後、男は会話しなくなる→


女は共感を得られなくなる→

2人の間に溝が生まれる




それから、男というのは自分の中で

ずっと考えてきた結論を、裁判官のように

ポンと言うそうです


例えば

男「俺、今月で会社やめるよ」→


女「なんでそんな大事なことを簡単に決めちゃうわけ

相談もなしに」→


男「だって、お前はいつもちゃんと話を聞いてないだろ」となり


男女の間に亀裂が深まって

離婚なんてことになるらしいのです




よく価値観の不一致で別れたなんていうけれど

この説から考えると

そうではなくて、多くはお互いが

異性の本質を理解していないことから生じる破局なんですね





それから女性が求めている「愛」と

男性の求めている「愛」に違いがあるようです



女性には、特有のシンデレラ願望

悲劇のヒロイン願望があるから


女性の求める「愛」は

「私をいつも一番に思っていて」といったものになるらしく



これに対して男性は、外で戦ってくる自分に対し

応援団からの声援的な「愛」を求めているそうなのです



女性がシンデレラなら

男性は仮面ライダー、ウルトラマンってとこでしょうか・・・・



そんなことから、男女の本質の違いを考えると

男性の本質が「尊敬」を「尊厳」として求めるのに対し

女性の本質が「尊重」を「尊厳」として求めると言えるかもしれませんね




男性は女性に立てられたい生きものだ

と言われるのも

そんなとこからかもしれません



妻から夫として立ててもらえないと

その反動として、夫は、威張るしかなくなってしまうらしいです





女性は安定あるいは現実を求め

男性は冒険あるいは理想を求める

という話もよくされます



つまり、安定を求め

立てられたい男性を立てて

稼がせるのが女性なわけです



生物の仕組みってよくできているなぁ

と関心させられます






男女平等諭から
「差別」について考える




旧約聖書によると


【 イブは、サタンであるへびに誘惑され

神に決して食べてはいけないと命じられていた

知恵の木の実をもいで

最初の男であるアダムとともに口にする


最初に食べたのはイブで

アダムもイブのすすめで食べ

二人は裸であることへの羞恥心に目覚める


神に逆らったことにより

二人は天上の楽園であるエデンを追放される



このとき神は、イブに「お前は苦しんで子を産む」

「男を求め、男はお前を支配する」と告げ


アダムには「お前は生涯、食べ物を得るために苦しむ」

(=労働の義務) と告げる 】とあります




現代の男女共同参画社会の理念からいくと

聖書は「おかしい」ことになりますよね





「差別はいけない」というけれど

≪差別≫とは、そもそもなんなのでしょうか?




≪差別≫と表裏一体の言葉に、≪人権≫という言葉があります



憲法で保障されている (保障とは権利などを守ること)

『基本的人権』は


【 全ての人間が生まれながらにしてもつ権利で

人は生まれながらにして自由かつ平等である 】

というものです


具体的には、【 身体・思想・宗教・言論・結社の自由

生存権〔人間らしい生存を全うする権利〕

参政権、裁判請求権などをいう 】とされています



憲法の第25条は

≪すべて国民は、健康で文化的な

最低限度の生活を営む権利を有する≫


第26条は

≪すべて国民は、法律の定めるところにより

その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する≫ です





「差別はいけない」の≪差別≫には

基本、原欲求(本能)的なコトは含まれていません



男性なら女性をつねに

「あいつはブスだ」とか、「まぁまぁじゃねぇ」とか

「あいつとやりたい」とか、評価(差別)していますし


美人の女性と結婚したいと願っています



一方、女性は、出産・育児という目的をもつため

資源(食料、保護、世話、優しさなど)を確約した

男としか性交しないようにできているわけです


なので、低収入の男性を差別します



でもこうした差別は、差別とは考えませんよね



≪差別はいけない≫という「差別」は

ブスだからバスに乗るな!! とか

低収入だから公園を使用するな!! とか

いった社会的なコトです




そこで問題提起します


もともと、我々人間の社会において

出産・育児を、女性の本能的な目的とみなしてきたからこそ


「低収入の男性を差別するというのは

女性の原欲求に根ざしたコトだから仕方ない」


という暗黙の了解が成立してきたのではないでしょうか?



それを、男女平等という理屈から

育児を、男性に強要するのはおかしいでしょ

という話になりますよ



これは、育児についての問題提起でなく

≪差別≫とはなんなのか? についての問題提起です



そもそも男女の結婚生活の在り方など

私にはそんなに興味もなく、論ずる資格もないですからね(笑)








● おまけ


サティー



ヒンズー教では、夫が死ぬと、寡婦(未亡人)は

夫の後を追って殉死しなければならないという風習があり

これを「サティー」と言いました


寡婦は、夫の死体を焼く薪の上にのせられて一緒に焼かれたそうです



ヒンズー教の聖典の1つ「マハーバーラタ」によると


聖仙 ダクシャの娘である サティー(貞淑な女性の意)は

シヴァ(ヒンズー教の最高神)を慕い、シヴァとサティーは結婚する



しかし、ダクシャは

ヴィシュヌ(ヒンズー教の最高神・ヒンズー教は

シヴァ派か、ビシュヌ派に分かれる)

を崇拝し、シヴァを嫌っていた


神々を招いて祭祀を執り行ったときにも

ダクシャはシヴァを招こうとしなかった



シヴァは、ダクシャの祭祀は徹底的に破壊した


ダクシャが羊の頭を持つのは、シヴァが彼の首を切り落とし

和解のためにもとの首を捜したが見つからず

羊の頭をつけたためであるという




また、2人の結婚に怒ったダクシャは

シヴァを山中に閉じ込めてしまう


サティーは自殺して、その身をシヴァに捧げたので

シヴァもサティーも救われた


とあるそうです




この神話から、妻は殉死して

夫の霊魂を救済しなければならないという

サティーという風習が生じたといいます



なお、サティーは、パールバディーに生まれ変わったともされます



【 パールバディー ・・・・

シヴァの妻。シヴァの最初の妻サティーの転生とされる


ヒマラヤ山脈の山神 ヒマヴァットの娘

ガンジス川の女神 ガンガーの姉


軍神 スカンダ〔仏教に韋駄(いだ)天として取り込まれた〕と

学問の神 ガネーシャ〔歓喜(かんぎ)天・聖天として取り込まれた〕の母 】




サティーは、薪の上にのぼる前に

装飾品を周り者に与えたとされ

妻の焼死の手本とされていたといいます




サティーでは

薪の上にのぼる前に

装飾品を周り者に与えたとそうで

それが妻の焼死の手本とされていたといいます




また、ヒンズー教の聖典の1つ「ラーマーヤナ」には


コーサラ国の王子 ラーマの妃 シーターが

スリランカの魔王 ラーバナによって誘拐される


戦いの末、ラーマはラーバナを殺害し

シーターを救出するが

ラーマは、シーターの貞操を疑う


シーターは身の潔白を証明するため

聖火に飛び込む(神明裁判)


結果、シーターは火傷を負わず

火の神 アグニが現れ、シーターの潔白を証明する


という話があるそうです





ちなみに、シーターの神話と同様な話が

記紀神話にみられます


記紀神話によると

邇々芸命の妻 木花之佐久夜毘売

(このはなのさくやぴめ・全国1300社の浅間神社の祭神)は


邇々芸命の子を身ごもごりますが

邇々芸に「お前とは一夜しかともに過ごしていない」と疑われます


そこで木花之佐久夜毘売は

「お腹の子があなたの子でないなら

無事に生まれてくることはないはずです」と言って

産屋(うぶや)に火を放ち、その中で出産します (神明裁判)


長男の 火照命(ほでりのみこと・海幸彦)は

火が燃え始めたときに生まれ


次男の 火須勢理命(ほすせりのみこと・

日本書紀ではこの神が海幸彦になっている)は

火が盛んに燃えているときに生まれ


三男の 火遠理命〔ほおりのみこと・

火火出見命(ほほでみのみこと)。山幸彦〕は

火の勢いが弱まったときに生まれています





話を戻します


サティー風習は

中世になって広くインド諸地方に普及したそうですが


寡婦の自発的な意思のものだけでなく

親族に強制されて行われたものもあったり

薬物も使われたといいます



1829年に、イギリスの植民地政府が

法律を制定して禁止となっています



幼児婚や、持参金(ダウリ)制度により

年齢とはなれた婚姻が成立し

それが結果としてサティーに結びついていたといいます



インドでは、適当な夫を確保するため

早々に娘を結婚させる慣習があり


「マヌ法典」には、男性30歳の場合、女性は12歳が

最もよい結婚年齢とされているそうです


この年齢差が寡婦を多く生み出す要因となっていた

といいます






● マヌ法典



原型は前200年から後200年頃に成立したという


宇宙のはじめ・万物の創造からはじまり

人間が一生を通じて行う通過儀礼、先祖の祭祀、四住期

日々の生活、輪廻・業・解脱について


国王の義務

〔王は法をつくらず保護し、法に従って政治をする者であるとし

立法についてバラモンの関与を説く〕


さらには婚姻法、相続法、裁判の手続きなどを記述している



バラモンの特権を擁護する立場から

バルナ〔バラモン(聖職者)、クシャトリア(王族・貴族・武士)

バイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)というカースト制度の根幹〕

による差別をいたる所に述べ、宗教の聖典としての性格が強い



マヌ法典はマヌが述べたものだとされる


マヌは、ブラフマー(仏教に取り入れられ梵天となった)と

サラスバディー(仏教に取り入れられ弁財天となった)の子で

旧約聖書のノアの箱船のノアにあたる人


ヴェーダ聖典のブラーフマナにその神話がある


マヌが養い大きくして海に放した魚が

大洪水がきて人類が滅亡することを予言する


マヌは舟に乗り、魚の導くままヒマラヤに着く


マヌ以外の人類は滅亡したが

マヌは苦行と祭祀によって1人の女性を得

2人で人類を再生させたという





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