緋山酔恭「B級哲学仙境録」 神とはなにか? キリスト教編 ② プロテスタント諸教会



B級哲学仙境論


神とはなにか?編


 




神とはなにか?

キリスト教編 ②




プロテスタント諸教会



プロテスタントの名は

1529年、神聖ローマ帝国(ドイツ)の

第二シュパイエル帝国議会

(ルター派容認の可否を問う議会)にて


少数派のルターの改革運動にくみする議員たちが

カトリック教会を支持する多数派の議決に反対し


「抗議」(protestation)して自らの立場を

告白したことに由来するといいます




プロテスタントの信徒は

自分たちが新教と呼ばれるのを否定します


聖書に書かれていない教義


例えば

教会を通じてでなければ神の救いが受けられないとか


マリアに原罪がないとか


( 原罪とは、アダムとイブが神の言葉に反して

智慧の実を食べたことにより

その子孫である全ての人間が生まれながらにしてもつ罪

マリアの無原罪はマリアを神聖化する教義 )


いった教義は


カトリックが勝手に創造したもので

カトリックこそ「新教」であり「邪教」であると断じているわけです





なお中世にはローマ教会は

聖書を各国語に訳すことを認めなかったので

信徒は直接聖書を読むことができませんでした


広く各国語に訳されるようになったのは

宗教改革以後です



なかでも、マルティン・ルター(1483~1546)が

ヘブライ語(旧約)、ギリシャ語(新約)の原典から


ドイツ語に訳した「ルター訳聖書」

〔新約は1522年に完成。旧約は1534年に完成〕は有名です



但し、聖書をドイツ語に訳したのは

ルターが初めてではないようですが




要するに、宗教改革以後、カトリックの嘘がバレてしまったのです




とはいえ、プロテスタントが正しい(聖書どおり)か?

というとどうでしょう


プロテスタントには

法王のような、全体を統一する権威がなく、諸教会に分かれいます


ぶっちゃけ三原則され標榜さえしていれば

プロテスタントと自称できるようで

じつに様々なものがあります


いくつかあげておきます





改革派


スイスのカルヴァンやツヴィングリ

とくにカルヴァンの流れを汲む諸教会の総称


ツヴィングリ(1484~1531)を指導者としてスイスのチューリヒに始まり

カルヴァン(1509~64・フランス人。ジュネーヴで活躍 )を中心とした

世代により体系づけられた教派だという





長老派


改革派の1つ

カルヴァン主義に基づく


長老派は

教会の運営に、俗人の長老の発言権を重視する

末端の教会において

牧師とともに信徒の中から選出された一定数の長老が運営にたずさる





なお、フランス、スイス、オランダ、スコットランド

アメリカなどがカルヴァン主義の国です



カルヴァンの 「二重予定論」は

自由意志を否定し、人間は努力(善行)によって救われることはない

いくら善行を重ねても救われることとは関係ない


人間の救いは神の無差別の選択によって決まっている

神の意志によって救われる者と救われない者とが

あらかじめ定められるというものです




それから、フランスのカルヴァン派の信徒のこと

「ユグノー」といいます


語源は諸説あってはっきりしませんが


ジュネーヴが、ドイツの都市と

改革主義を採用することで同盟を結んでいたので

同盟 eidgenossen (アイドゲノッセン)という言葉からきたという説や


幽霊を意味する「ユゴン」からでたというなど説があります



キリスト教では、カトリック教徒とプロテスタントの信者が

フランスやドイツで宗教戦争(内乱)をくりひろげている


フランスでのユグノー戦争(1562~98)では、なんと36年

ドイツでのドイツ三十年戦争(1618~48)でも、30年もの間

断続的とはいえ、同じ国の、同じ神を信じる者同士が

殺し合いをしているのです





会衆派 (組合派)


長老派の流れを汲み

長老派がが、厳格な教会規律を主張するのに対し

個々の教会の独立、自治を重視し、各教会が信条規約を

自由に制定できるとする





ルター派 (ルーテル派)


ドイツの宗教改革者。プロテスタンティズムの確立者

マルティン・ルター(1483~1546)を祖とする


ルーテルというのは、ドイツ語には古典音楽や劇で使われる

「舞台発音」とか「舞台ドイツ語」と呼ばれるものがあって

それによるものという



17世紀末から18世紀中ごろには

正統主義の信仰の教義化、形式化に対して

信仰の内面性、実践、宗教体験

禁欲的生活、自由な信徒集会を唱えた

神秘主義的要素が強い「敬虔主義」という運動が

ルター派内におこっている



スイスのジュネーブに本部を置く

「ルーテル世界連盟」は、79ヵ国にある145の加盟教会を有し

全世界には7500万人の信徒を抱えているとされ

単独教派としては世界最大という


このうちアメリカには600万の会員を有する

アメリカ福音ルーテル教会がある


ドイツ、北欧諸国が ルター主義の国





アナバプティスト (再洗礼派)


幼児洗礼を否定、あるいは無効とし、成人洗礼を提唱、実施する

イエスの教えに従って生きることを

自ら告白する者のみを教会に加わるべきと考える

宗教改革時代にツヴィングリの弟子たちから分派した教派





バプティスト派 (浸礼派)


アナバプティストの流れを汲み、幼児洗礼を否定

成人が信仰の決心のもとに行う浸礼

(洗礼の一種で全身を水に浸すもの)を提唱、実施する


この派はアメリカで目覚ましく発展し

黒人最大の教派となり、キング牧師を出している





アーミッシュ


アメリカのペンシルベニア州と

カナダのオンタリオ州の農村に集団で居住


彼らは17~18世紀にかけて

アメリカに移住したドイツ系移民の子孫だという


( もともとはスイスのチューリッヒで生まれた

アナバプティストの分派で、のちに信徒がドイツに移住したとされる )



男性はひげをのばし黒いつばの広い帽子をかぶり

女性は黒の靴下と靴をはき

ともにボタンのないフックのついた自家製の服を着て


日常会話も祈りもペンシルベニアドイツ語

〔ペンシルベニアダッチ

(ダッチ)は現代ではオランダ語やオランダ人の意味で使われるが

古くはドイツ語およびドイツ人を指した〕を用いる


移動手段は馬車で、ラジオ、テレビなど近代発明品を用いず

農業にも近代的機械を用いない


わずかに、風車、水車によって

蓄電池に充電した電気を利用する程度


情報の入手も共同体内部の近況を報道する

新聞、雑誌が認められてる程度


このように生活様式に特徴がある


また、彼らは専用の教会をその集落に持たず

普通の家に持ち回りで集い神に祈る

これは教会が権威の場となることを嫌ってのことという




なお、アーミッシュの子供は16歳になると

一度親元を離れて俗世で暮らす


この期間を「ラムスプリンガ」という

その間に酒やタバコなどを含む、多くの快楽を経験する


18歳の成人になる=ラムスプリンガを終える と


アーミッシュのコミュニティに戻るか

アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを

選択する事が認められている


ほとんどのアーミッシュの新成人は

そのままアーミッシュであり続けることを選択するという





メノライト


宗教改革時代のアナバプテストの指導者

メノ・シモンズ(オランダ出身)の名に由来

クエーカーとともに非暴力、平和主義を貫く

アナバプテストからの分派





メソジスト派


カルヴァン主義を否定し

人間の自由意志を強調するアルミニウス主義をとる


この派の名は、メソッド(聖書に示された規則正しい生活法)に由来

メソジストは几帳面屋の意味で

あだ名されたことからはじまるという


ルター派同様、悔い改めによる救済を強調する




【 アルミニウス主義・・・・



神の救いは、神の恵みに応答する全ての人々のために開かれている

救いは、神の恵みに対する各自の応答(自由意志)によるものであり

全能の神は、応答する者としない者を

あらかじめご存じであるというだけであり

救われる者、ましてや地獄にいく者を

神があらかじめ定めておられるわけではない という考え


アルミニウス(1560~1609・オランダ改革派の神学者)は

もともとはカルヴァンの予定説への攻撃をかわすための

緩和的な説として唱えたようであるが


のちにオランダ共和国を揺るがすほどの神学論争が巻きおこり

アルミニウスが没したあとも

少数派であったアルミニウス派は迫害を加えられたという 】





クエーカー (フレンド派)


静寂の祈りにより、神を待ち望み、神の力(内なる光)が

人の内に働くことを目指すといった霊的体験の重視と

絶対平和主義(昭和22年、会派としてノーベル平和賞を受賞)

を特徴とする


クエーカーとは、ふるえるの意味で

祈りによる霊的体験に感動してふるえること

正式にはフレンド派教会という

聖書以上に聖霊を重視し

聖霊によってもたらされる回心を最重要視する





ユニテリアン


イエスは神ではなく、神はヤーウェ1人だという

神の単一性(ユニティー)を主張する





ユニバーサリスト


人類は、最後には全部救われるという普遍万人救済説

(ユニバーサリズム)を主張する


現在は、ユニテリアンと合同して

ユニテリアン・ユニバーサリスト教会となっている

これなどは正統派の基本の三位一体さえ認めていない(笑)





救世軍


軍隊型の制服、軍旗、軍隊用語、階級といった軍隊的な規律を採用し

実践的な社会活動を重視する





アドベンティスト派 (再臨派)


終末論を強調する

アメリカの農民説教者のウィリアム・ミラーを派祖とする


彼はキリストの再臨を1844年の10/22日とし

このとき世界の終末と審判があると唱え

人々は恐怖にあおられ財産を放棄する者も現れたという


結局、なにも起こらず、その後、再臨の日の計算を間違えたとする

セカンド・アドベント・クリスチャンと


当日、地上ではなく天国に何か変化があったと主張する

セブンスデー・アドベンティストとが誕生


この2派からさらにいくつかの教派が出ているらしい



〔 なお、セブンスデー・アドベンティストは

神が6日で天地創造を終え、1日休息していることから

一週間の七日目である土曜日を安息日とし、これ厳守する


キリスト教ではイエスの復活した日曜日を安息日とする教派が多い 〕





また、モルモン教のように正統派から異端とされますが

社会的にはプロテスタントの一派と認められているものもあります







●  モルモン教



末日聖徒イエスキリスト教会の通称

1830年にアメリカに誕生

創始者は、ジョセフ・スミス(1805~44)


彼は、古代アメリカ大陸に実在したという

預言者 モロナイ (現在は、神の使い=天使 となっているらしい)

より「金の板の聖なる文書が存在するから

4年後の18歳になったら掘り出すように」とのおつげを受ける



1827年に自宅近くの丘の石の下から金版を掘り出すと

古代エジプト文字を変形させた文字で書かれてあったため


聖霊の助けをうけ、特殊な眼鏡

(旧約聖書にあるウリムとトンミムというものらしい)

を用いて翻訳、30年に刊行した


これがモルモン経典である


聖書とは別にキリストについて書かれた聖なる文書だという


金板は、天使を通じて天に返還したという



ジョセフ・スミスによると

金板は、横15センチ、縦20センチ

一枚の厚さはブリキ板よりやや薄く

ルーズリーフのように一方を3つの輪でとじてあったという

重さは、馬で運ぶ必要があったと述べている


また、金板の2/3は天使から翻訳を許されず

1/3(70~100枚と考えられている)の翻訳を命じられたらしい



この金板は、イスラエルの民が

古代アメリカ大陸に渡って書いたものとされ

最初の預言者から預言者モルモンまで書き継がれ

モルモンの子のモロナイが西暦421年に丘に埋めたという



モルモン教では、モルモン経典を聖書とともに用い

千年王国説を唱えている


終末の後、神の国(シオン)がアメリカに樹立されるとしている



90年までは一夫多妻制を唱えていて

ジョセフ・スミスには49人もの妻がいたという説もある


またコーヒーなどの刺激物をとることをさけ

信徒は教会に2年間無料奉仕する義務があるという



スミスは権力を得るが、人々の反発から暴徒に殺害


後継者の ビリガム・ヤング(1805~77)は

ソルトレイク(ユタ州の州都

西側にイスラエルの死海のような

塩分濃度の高いグレートソルトレイクが広がる)

に信徒とともに移住

農業や産業を興して都市を建設した



現在アメリカでは5つのグループに分裂しているそうで

信徒は世界で1100万を超すという





アメリカの宗教・・・・

アメリカは、WASP(ワスプ)、すなわち、ホワイト(白人)・

アングロサクソン系・プロテスタントの社会である


カトリック教徒としての初の(現在まで唯一)大統領は

1963年に暗殺された35代 ケネディ(アイルランド系=ケルト系)


プロテスタント50%、カトリック25%、無宗教15%


その他(モルモン教・ユダヤ教・イスラム教・

仏教・ヒンズー教など)で5%


イスラム教徒の割合が増加しているという話もあるが

現在1%未満、2050年においての予測でも2%程度のである 】







ルターと聖書



ヴィッテンベルク大学の教授(生涯この職にあった)であった

ルター(1483~1546)は

法王がローマの聖ペテロ大聖堂を改築する為に行った

免罪符の乱売に抗議する意見書「95ヵ条の論題」を


一説では、大学の掲示板でもあった

ヴィッテンベルク教会の扉に提示したといいます



意見書はラテン語で書かれていたそうですが

何者かがドイツ語に訳し、各地に伝わり大反響を呼び起こすこと

になったといいます



論題にはローマ教会の腐敗を糾弾するだけではなく

教義の根幹をくつがえす内容のものであったことから

大変な反響となったわけです



ルターは、福音主義による心からの悔い改めこそ

生活全体に新たな方向づけをもたらすゆえ

救いに至るのであって

外的要因(免罪符)によって

神の罰を免れようとするのは気休めにすぎない

と主張したといいます



ルターの功績としては、新約聖書のドイツ語訳の完成と

さらには原典の旧約聖書(ヘブライ語)と新約聖書(ギリシア語)から

ドイツ語に訳したルター訳聖書の完成にあります



一方、ドイツ農民戦争

(1524~25。大規模の農民一揆ゆえ戦争と呼ぶ)のとき

農民が、キリスト教の新しい動きに力を得て

行動を起こしたのにもかかわらず


農民の急速な自立化に対して諸侯に武力鎮圧を求めています


これによって農民は敗北し、再び隷属させられることとなり

これがドイツの近代化を後退させることになった

とされています






●  聖書



英語のバイブルは

ギリシャ語のビブロス

〔紙の原料となるカヤツリグサ科の多年草 パピルスの皮〕

に由来するという



キリスト教では弟子たちがイエスの言行を記した

「福音書」(ふくいんしょ)や

弟子たちの書簡類をまとめて「新約聖書」とし

「旧約聖書」とともに聖典として用いている



旧約聖書は

律法書5巻(モーセ五書)

預言書8巻

諸書11巻

に区分されている



旧約聖書が、ヘブライ語原典から

ギリシャ語に訳されたのが前3世紀頃とされ

これを「七十人訳聖書」という



【 七十人訳聖書

名称は、モーセ五書のギリシャ語訳が

パレスチナから派遣された72人の長老により

72日間でなされたという伝説にもとづくとも

70は旧約聖書において権威の数で、権威的翻訳を意味するともいう 】



これをもとに

ヒエロニムス〔340頃~420・教父〕がラテン語に訳している




新約聖書は、全27巻からなり

紀元60年代から約100年かけて執筆・編纂されたという

原典はギリシア語で

ヒエロニムスにより

旧約聖書に先立ちラテン語訳されている




ヒエロニムスがラテン語訳した旧約・新約をあわせて

「ウルガタ版聖書」〔ウルガタは共通の意〕と称し

ローマカトリック教会の正典として、長きに亘り用いられてきた





ちなみに

外典(がいてん)というのは、ユダヤ教では認めていないが

キリスト教の旧約聖書に採用となったユダヤ教の文書ことである


またこれを「旧約外典」と呼ぶのに対して

最終的に異端とされ正典として認められなかった

キリスト教の古代教会の文書を「新約外典」と言う


「旧約偽典」は、正典にも外典にも属さないユダヤ教の文書である







フ ス



ルター以前の宗教改革者に、フス(1369頃~1415)がいます

ボヘミア(現 チェコの西部)の人で、プラハ大学学長

カトリックの教会主席司祭をつとめた人といいます



彼は、十字軍調達のための免罪符の販売を厳しく批判します


このため南ドイツ コンスタンツにおける公会議への出頭を命じられ

神聖ローマ皇帝発行の通行許可書を

たずさえていったにもかかわらず、逮捕され

法廷に立たされますが自説の撤回を拒否し、投獄されます


公会議の結果、異端と宣告されて火刑に処され

遺灰はライン川にまかれたといいます


フスの思想は聖書に忠実であったそうです



のちにフスはチェコ人の民族的英雄、守護神的存在となっています

また、プロテスタント指導者にも

フスの思想の影響を受けた者も多いといいます




フス戦争(1419~36)は、フス派信徒が

カトリック教会を相手に起こした戦争です


当時のボヘミアは、国土の半ばを教会と修道院が所有し

ドイツ人が大多数の要職を独占していたといいます


ゆえに、フス戦争は、チェコ人による民族解放運動でもあったそうです



ところが、フス派は2派に分裂してしまいます


パンとぶどう酒による聖餐を、俗人信徒が行うことの許可や

神の言葉を自由に説教することの許可などを唱えたウトラキスト派と


終末・神の審判が近いことを信じ

武器による神の王国の建設を主張したタボル派です



ボヘミア王をかねる神聖ローマ皇帝は、ローマ教皇の懇願もあり

十字軍をボヘミアに派遣しますが

タルボ派を主力とするフス派にしばしば敗北してしまいます


フス派は一時、オーストリア、バイエルン、ザクセン

ブランデンブルクなどドイツ国内まで侵入します


33年には、皇帝・ローマ教会側が

俗人信徒がパンとぶどう酒の聖餐を行うことを

認める条件で和解となります



翌年、ウトラキスト派がタルボ派を破り


36年には、要求がほぼ全面的に受け入れられ

最終的にローマ教会と和解し

ボスニア国民教会が認められたといいます


フス派は、カトリックに復帰していますが

プロテスタントの先駆とみられています


フス戦争はチェコ史上最大の輝かしい歴史とされています



しかし1620年、フス派は

熱烈なカトリック信徒でボスニアを支配していた

ハプスブルク家との戦いに敗れ、壊滅します



チェコスロバキア建国(1918)による民族意識の高揚を受けて

カトリック教会の離脱と、フスへの教義への復活が叫ばれ


一部の聖職者によって、1920年にチェコスロバキア教会が成立し

71年にチェコスロバキア・フス派教会と改称しました


但し、大きな勢力ではないようです



一方、モラビア兄弟会は

フス戦争後、ローマ教会と和解し誕生した

ボスニア国民教会を批判した人たちにはじまるといいます


カトリックの反宗教改革や

三十年戦争(1618~48・カトリックとプロテスタントの宗教戦争)

により弾圧を受けるも

ドイツでツィンツェンドルフ伯爵の援助を受け再興(1727)


1732年にセントトマス島に2人

グリーンランドに3人の宣教師を派遣して以来

アメリカの黒人や後進国への伝道につとめたといいます


現在もアメリカで広く活動しています


兄弟とは、共通の体験、交わり、分かち合いを回復する

ことによって教会の革新を目指すという意味のようです







イギリス国教会とピューリタン



、プロテスタントの一派ではありますが

カトリック、東方正教会、プロテスタントと

並び称されているのが


イギリス国教会(アングリカン・チャーチ

イングランド教会。英国国教会。英国聖公会)です


この国教会を母教会とする世界各地の教会が

「聖公会」と呼ばれています


イングランド国王を首長とします



聖公会の特徴は、プロテスタントの一派でありながら

カトリック形式の典礼(儀式)を用いるところにあります



1534年、ローマ法王と対立した ヘンリー8世が

国王至上法を制定し、イギリスの教会をローマ教会から離反させ

自らその首位となって成立したことに始まります



ローマ法王との対立は

王妃との離婚を、法王が認めなかったことです


この ヘンリー8世というのは、最初の王妃を離婚

次は王妃の侍女を妻とするが処刑、3番目は出産後に死亡

4番目を離婚、5番目を処刑

6番目をむかえたあと梅毒で死去しています


次々に愛人をつくり、妻をとりかえ

追放したり

不義密通、謀反を企てた、魔法を使ったなどの理由で

処刑しています



次の エドワード6世は、3番目の妻の子で

熱心な新教徒で、プロテスタントの教義を受け入れ

典礼についてはカトリックの形式を維持するという

国教会の基礎を固めました



エドワードが16歳で死去すると

ヘンリー8世の最初の王妃の娘 メアリー1世が王位につきます


彼女はカトリックへの復帰をなし、新教徒を弾圧、処刑し

流血のメアリーと呼ばれました



次の エリザベス1世は

ヘンリー8世の2番目の妻の娘で、生涯独身

スペインの無敵艦隊を撃破し

イギリス絶対王政の最盛期を築いた女帝です


彼女は、再びローマ教会から独立させ

信仰をエドワードのときに戻しています




1642年には、市民革命であるピューリタン革命が起こり

49年、国王 チャールズ1世が処刑され

イギリスは共和国となり国教会は廃止されました


しかし、独裁を行った クロムウェルが死ぬと

王政復古となり、国教会も復活します



1982年、ローマ法王 ヨハネ・パウロ2世がイギリスを訪問

国教会のランシー大主教と会見し、448年ぶりに和解します



日本聖公会は、立教大学、桃山学院大学

聖路加国際病院などを設立しています






なお

ピューリタンの主流を占めたのは

カルヴァンの思想に基づき

教会の運営に、俗人の長老の発言権を重視する長老派です


長老派は、今では、植民地時代に

移民によってつくられた

アメリカの長老派教会が最も有力であるといいます


日本では、明治学院、東北学院、フェリス女学院などを設立しています





話をもどします


王政復古で国教会が復活すると

長老派信徒は急速に国教会に吸収されていったとされます




ピューリタン(清教徒)とは

カトリック的要素を含むイギリス国教会の信仰に反対し

カルヴァン主義の立場から徹底した宗教改革を主張した

プロテスタント諸教派の総称、またその信徒です


このうち絶対王政下のイギリスから、信仰の自由を求め

1620年にメイフラワー号で北アメリカに移住した

102人のピューリタンたちが、ピルグリム・ファーザーズです



彼らは、船上で、協力して新植民地を建設することを誓う

「メイフラワー号の誓約」を行い

マサチューセッツ州プリマスに上陸

ニューイングランド(マサチューセッツなど6州からなる地方)

の植民地開拓の基礎を築いています



なお、アメリカの恒久的植民地の建設は

1607年、イギリス人によるジェームズ・タウン(ノースダコダ州)が最初で

プリマスはこれに次ぎます




開拓者ピルグリム・ファーザーズが始めて収穫を得て

神に感謝したことを記念するのが「感謝祭」

(アメリカの祝日。11月の第4木曜日

カナダでは同様の祭を10月の第2月曜日に行う)で


この日は家族で新大陸特有の食用鳥である七面鳥と

開拓期当時、りんごや洋なしの代わりとしたカボチャで

パイをつくり食べるといいます



また、彼らが来た当初、現地は飢饉で

先住民に助けられたそうです


それを感謝して別の年に先住民を招いて

収穫を祝う宴会を開いたのが起源だともいいます




ピルグリム・ファーザーズは、エリザベス時代に

ピューリタン改革運動をなし

国教会の迫害をうけて亡命した人たちです



彼らの流れを汲むのが

厳格な教会規律を主張する長老派に対し

個々の教会の独立、自治を重視し、各教会が信条規約を

自由に制定できるとする会衆派教会です


この派は、ハーバード大学を設立しています

日本では、同志社大学、神戸女学院、大阪女学院などが会衆派です








宗教戦争



1、ユグノー戦争


フランスとドイツでは断続的とはいえ

カトリック教徒とプロテスタント教徒が

なんと30年ものあいだ宗教戦争をくりひろげている



フランスのカルヴァン派の信徒のこと「ユグノー」という



ユグノー戦争では、「サン・バルテルミーの虐殺」がおこり

1572年の8/24日の未明から翌朝にかけて

3千人ものユグノーがパリで殺戮されている


この殺戮は地方へも拡大

一種の魔女狩り状態となりおよそ8千人

(記録によって全国で2千人から10万人の差がある)が殺されたという



この事件は、フランス国王 シャルル9世の信頼を得て

宮廷で権力を増大させるユグノーのコリニー提督を排除するため

王母とギース家(フランスの名門で旧教派の中心)が

提督暗殺を企てて失敗に終わった(8/22)ことに端を発している



宮廷側は、ユグノーの報復を恐れ

アンリ・ド・ナバルと、シャルル9世の妹との婚儀のために

パリに集まっていたユグノーを殺害した


このときアンリ・ド・ナバルも軟禁

カトリックに改宗させられているが、のちに脱出し、新教に復帰している



なお、アンリ・ド・ナバルは

ナバール(今日のスペインとフランスにまたがる国)の国王で

のちフランス国王をかねる。ブルボン王朝の祖である



アンリ・ド・ナバルは

第3次ユグノー戦争からのユグノーの統帥で

70年のサンジェルマンの和議により旧教徒との和解が成立


72年にはシャルル9世の妹と結婚するが

サン・バルテルミーの虐殺は、婚礼の一週間後に起きている




なお、ユグノー戦争は、カトリック教会とユグノーの対立に

貴族の政治闘争がからみ、スペインがカトリック側を

イギリスがユグノー側を支援したという


戦闘(8回)と和議が繰り返されている




シャルル9世の急死により、弟のアンリ3世が王位につくが

アンリ3世も旧教同盟が占領するパリを包囲中に

狂信的カトリック僧に暗殺される



【 旧教同盟は、過激派カトリックで

スペインの支援を得て新教徒を弾圧した


パリのカトリック市民の蜂起により

アンリ3世が首都のパリから追放されると

旧教同盟の指導者ギース公アンリがパリを掌握


これに対しアンリ3世は、全国三部会でギース公を暗殺した 】





王位継承法に従い、アンリ・ド・ナバルが即位して

アンリ4世となるが、スペインの支援をうける

旧教同盟はパリを占領し続け

これにともなって各地に農民一揆が起こり、王国分裂の危機が高まった



そこで93年、アンリ・ド・ナバルは、カトリックに改宗

これが成功し、即位が認められ

翌年、パリ入城を果たし


さらに、新教徒と和解するナントの勅令(1598)を発布し

信仰の自由を認め35年を超えた宗教戦争に終止符をうつ



ナントの勅令は、ユグノーなどのプロテスタント信徒に対し

カトリック信徒とほぼ同じ権利を与えたもので

近世のヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めたものである



アンリ4世は、1610年に狂信的なカトリック信者によって暗殺されたが

フランス国民の間で人気の高い王の一人で

50フラン紙幣において肖像が採用されていた





ナントの勅令は

1685年、ルイ14世(太陽王。絶対王政の最盛期を実現

東方に領土を拡大。ベルサイユ宮殿を建てた)が撤回したため

多数のユグノーが国外へ逃亡する


1787年、ルイ16世(フランス革命により処刑)の

寛容令により自由を回復している




なお、ナントの勅令撤回より

プロテスタント信徒の大半が

ネーデルランド(オランダ)などの国外へ逃れたことで


フランスは商工業の担い手を失い

財政の悪化を招くこととなる


そして、それを補う増税政策が

フランス革命の引き金になるのである







2、ドイツ三十年戦争


ドイツという国は、かつては神聖ローマ帝国と呼ばれていた


神聖ローマ帝国(962~1806)は、ドイツ、オーストリア

チェコ、イタリア北部を中心に存在していたが

実際は帝国というより、大小の国家連合体である


首都もなかった



とくに、13世紀頃になると、有力な貴族が誕生し

皇帝の地位をおびやかしていたが

16世紀の宗教改革によって、これに新旧教徒の対立が加わった



17世紀初め、皇帝の旧教化政策を起因として

ボヘミア(チェコの中心部)でルター派信徒が反乱

これをきっかけに、全ドイツが内乱(三十年戦争)へと突入していった


これに、外国勢力が介入して事態は複雑化する


オーストリアを地盤とする皇帝と

南部のバイエルンが支持する旧教側には、スペインが


これに対して、北ドイツを中心とする新教側には

新教国として台頭してきたデンマークとスウェーデンが支援した



のちに旧教国のフランスも参戦

フランスは国際的な利害からスウェーデンを助けて、新教側に味方している



結局、外国部隊によってドイツ各地があらされ、国土は疲弊


関係諸領邦や各国が多数参加したヨーロッパ初の国際会議である

ウェストファリア会議(ウェストファリアはドイツの州名)により終結している



このときのウェストファリア条約(1648)は

30年戦争を終わらせるためにドイツとフランス

ドイツとスウェーデンとの間で結ばれた諸条約の総称で


スイスのドイツからの独立

スペインからのオランダの独立とカルヴァン派の承認がなされている







3、オランダ独立戦争


オランダ独立戦争(1568~1648)も宗教戦争で

八十年戦争と呼ばれている


スペイン領であったネーデルランド(オランダ)が

スペインによる新教弾圧と重税などに対して抵抗、独立を求めて戦った


戦争が長期化したことで

カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルグ)が

独立戦争から脱落するも

カルヴァン派が多数を占める北部7州は同盟を結んで抵抗を続け


81年には、ネーデルランド連邦共和国を樹立し、独立を宣言

1648年のウェストファリア条約によって独立が正式に承認されている





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