緋山酔恭「B級哲学仙境録」キリスト教編 ③ 日本のプロテスタントの歴史



B級哲学仙境論


神とはなにか?編


 




神とはなにか?

キリスト教編 ③




日本のプロテスタントの歴史



日本のプロテスタントの信徒数は約60万だといいます


最初にプロテスタントの教義が伝えられたのは

幕末期の1859年だとされます



諸外国の反対でキリシタン禁制の高札が撤廃されたのが

73年(明治6)ですが

それに先立ち日本基督公会が、横浜に設立されています


その後、組合教会、聖公会、メソジスト、パプティスト

といった各教会が設立されていきました





最初に日本へ伝道したのは

アメリカ・オランダ改革派教会

〔アメリカに移民したオランダ改革派の信徒が設立〕

と、米国長老派教会 の宣教師たちです


「改革派」も「長老派」もカルヴァン主義の教会です



ブラウン、ヘボン、バラといった宣教師たちに感化され

プロテスタントの信徒となった青年グループが「横浜バンド」です



ブラウン〔1810~80・改革派。横浜の修文館で英語を教授

塾を開設し英語と神学を教え、横浜バンドを育成

各派合同の新約聖書の共同訳の委員長。英和俗語辞典を出版

病気を得て聖書訳の完成を見ずして帰国、翌年に没〕



ヘボン〔1832~1911・長老派。医師

日本初の和英辞典を刊行。ブラウンとともに聖書の和訳を行い

新約、旧約を完成。明治学院の初代総理をつとめ帰国〕



バラ〔1832~1920・改革派。横浜の高島英学校で教授。帰国途上で死去〕



ヘボンの来日は1859年の10月、ブラウンは同年11月

ヘボンは1861年です  明治元年は1868年です





横浜バンドの青年は

明治維新によって没落した佐幕派の子弟たちで

外国人居留地の横浜で、洋学を学んでいたといいます


彼らは、日本基督公会や

東京一致神学校(のちの明治学院)を設立しています



明治学院は、ブラウン・ヘボン・バラの私塾を源流とし

日本基督一致教会の教育機関として発足した

東京一致神学校を前身とするそうです


ヘボンが初代総理をつとめています




日本基督公会〔1872年(明治5)〕は

純粋な福音主義に立ち

いずれの教派にも属さない無教派主義を目指して設立されました


また、海外からの自立を旗印に各地に公会(教会)を立てていったそうです



やがて全国的に広まると

長老派、改革派、カルバン主義と結ばれ

「日本基督一致教会」(明治10)となり

さらに「日本基督教会」(旧日基・明治23)になりました



なお、明治中期には

仏教、キリスト教、教派神道のみが


〔 教派神道とは、神社神道とは別の独自の教義を持つ神道

教祖と教会を有する神道。天理教など〕


国家神道(明治政府が創始。第二次大戦の敗北により崩壊)に

従属する事実上の公認宗教とされ

国家神道の枠組みのなかで宗教活動の自由が認められていました



1939年(昭和14)には、政府が非常時局を理由に

戦時中の思想統制をもくろんだ宗教団体法が定められ


41年には、「日本基督教会」(旧日基)をはじとする

プロテスタントのほとんど全ての教派

33派が合同させられ、日本基督教団が成立しています



戦後、日本基督教団からは


聖公会、ルター派教会、バプティスト連盟

日本基督教会

〔新日基。昭和36年に、旧日本基督教会系の一部

39の教会が日本基督教団から離脱して設立

現在は、約140の教会を有し、信徒数は1万5千という〕

救世軍 などが離脱しましたが


大半が日本基督教団にとどまり今日に至るそうです



この日本基督教団成立以前の最大教派は

日本基督教会(旧日基)で

それに、日本組合基督教会と、日本メソジスト教会を加えて

3大教派と称されていました




なお、ルター派の伝道は1892年(明治25)

アメリカの宣教師によって始まり

後に北欧系、ドイツ系が加わり

第二次世界大戦中の日本基督教団時代を経て

それぞれに独立し、教団を構成しているそうです







横浜バンド



横浜バンドで最も有名なのが

日本基督教会(旧日基)の指導者であった

植村正久(1858~1925)です


彼は、旗本の子で、バラの私塾(のちのブラウン塾)に入り

バラより洗礼をうけ、東京一致神学校を卒業し


日本一致教会の伝道者となり

東京の麹町(こうじまち・東京都千代田区)に

番町一致教会(のちの富士見教会)を建て、生涯牧師をつとめています


なお、植村は、日清・日露の戦争を

正義と文明の進歩のための戦いと言っていたそうです




他には


井深梶之助(かじのすけ・1854~1946)は

ブラウン塾で学び、東京一致神学校卒業後

ここで教え、のちにヘボンの後任として

明治学院の総理をつとめています


植村とともに、日本基督教会を指導したといいます



押川方義(まさよし・1851~1928)は

仙台神学校のちの東北学院を設立しています







本多庸一(よういつ・1842~1912)は

津軽藩士で明治維新の没落により

洋学を取得するために横浜に来て

バラ塾、ブラウン塾に学んだ「横浜バンド」の1人です


のちに廃校となっていた津軽藩の藩校 東奥義塾を再興し

北米のメソジスト教会より

日本に派遣されていたジョン・イング宣教師を

英語教師として招きます



イング宣教師に感化を受けた

東奥義塾の生徒22名が洗礼を受け

本多もメソジスト派に転じています


そして、イングと本多を中心として1875年(明治8)

東北最古のプロテスタント教会として

弘前公会(現 弘前教会)が誕生しています


初代日本人牧師は、本多庸一です



以後、津軽一円にメソジスト派の教会が

生まれていったとされますが

後にこのグループは「弘前バンド」と呼ばれています


これは日本プロテスタント草創期の三大バンド(横浜、熊本、札幌)

に準じるものとされます



本多は、日本メソジスト教会初代監督

また東京英和学校(のちの青山学院大学)で教授し

のちに青山学院の院長をつとめたといいます


一方で、日清・日露戦争の推進にあたったといいます







熊本バンドと同志社



熊本洋学校で学び、アメリカ人教育者の

リロイ・ジェーンズ

〔1838~1909・南北戦争で砲兵大尉をつとめた歴戦の士

士官学校で教えていた。71年(明治4)に

熊本藩のまねきで洋学校の教頭となる〕

に感化された青年グループが「熊本バンド」です



熊本洋学校は、藩政改革により藩校の時習館が廃され

西洋の思想や技術を導入する目的で

ジェーンズをまねいて、熊本城内に開校


4年制で、英語、地理、歴史、測量学、化学

星学、人体学などを教えたそうです


生徒数は200名だったといいます



ジェーンズは三年目になると

毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始め

この参加者の中からキリストを信じるものが出てきたといいます



なお、76年に熊本洋学校は閉鎖され

ジェーンズは、大阪英学校に移り

その後いったん帰国、再来日して

第三高等中学校(京都大学の前身)で英語を教え

99年に帰国したといいます




ジェーンズに洗礼を受けた入信者35名は

明治6年に熊本市の花岡山

(標高133m。熊本バンドの奉教碑がある)で


キリスト教により民衆を教化し、祖国を救おうという誓いのもとに

「奉教趣意書」に署名しています



彼らの思想は、キリスト教と、儒教や近代の学問の間に

共通性を見出すところにあったといいます


また、彼らのなかには、洋学校卒業後

同志社英学校に入学した者も多くいたそうです





熊本バンドでは

植村正久と神学論争を展開した


海老名弾正

〔だんじょう・1856~1937。福岡柳川藩士の子。同志社卒業。牧師

卒業後、在学中に、 新島襄(じょう・同志社の設立者)とともに設立した

群馬の安中教会(安中は新島の故郷)の牧師となる

のち同志社大学総長などをつとめた〕

などが代表です



彼は、キリスト教は、全ての人がもつ普遍的な宗教性

を究極的に完成させたものであると主張し

儒教や神道との共通性を見出そうとしたのに対し


植村は、キリストの教えは神の啓示(おつげ)であり

キリストの神性は独自のものだと主張しています



この海老名も、日露戦争を人道のための戦いとし、積極的に肯定

また、日本組合教会の朝鮮伝道を、朝鮮民族が日本帝国の臣民となり

世界にはばたくものだと言っていたとされます




他には、徳富蘇峰

〔 とくとみそほう・1863~1957。もと熊本藩士。評論家

ジャーナリスト。貴族院議員


雑誌を刊行し、平民主義(自由で安全な生活をする権利)

平和主義、自由主義(個人の権利の尊重)、平等主義を宣伝


日露戦争以後は、帝国主義をさかんに宣伝

太平洋戦争では、宣戦の詔勅(天皇の命令書)を起草し

大日本言論報国会会長をつとめた 〕

も熊本バンドの代表者です






日本組合教会は

1869年、アメリカン・ボード(会衆派の設立した外国伝道団体)の

宣教師 グリーン夫妻の来日から始まります


アメリカン・ボードの関係教会には

やがて同志社を卒業した熊本バンド出身の伝道者が加わり

各地に教会が設立されました


アメリカン・ボードと熊本バンドの二つが

日本組合基督教会の源流とされます



〔 グリーン(1843~1890)・・・・

神戸に伝道。神戸公会を設立

その後、横浜での新約聖書の共同訳に加わる

のち同志社で神学を教え、のち東京で伝道 〕




同志社の設立者 新島襄(じょう・1843~1890)は

安中(あんなか・群馬県)の江戸詰め下級武士の子で

蘭学、数学、航海術を学び、21歳の1864年(幕末)に

箱館(函館)よりアメリカに密航します



なお、アメリカへの渡航を画策し、箱館に潜伏中

ロシア領事館付のロシア正教会の司祭

ニコライの家に住み、日本語教師として

ニコライに日本語と、古事記などの手ほどきをしたといいます



アメリカでは、全寮制のフィリップス・アカデミーで学び

在学中、庇護をうけていたアメリカ会衆派信徒で

船主のハーディ夫妻のすすめで洗礼をうけたといいます



さらにアーマスト大学、アンドーヴァー神学校で学び


アンドーヴァー神学校在学中の72年(明治5)に

訪米した岩倉具視(ともみ)全権大使

率いる使節団の文部理事官の通訳となり

使節団に随行し、ヨーロッパ8カ国を視察します



その後、アメリカン・ボード

(会衆派の設立した外国伝道団体)の会合で

日本におけるキリスト教主義大学の設立を訴え

5000ドルの寄付の規約を得えて

宣教師とともに74年に帰国します



翌年には、京都の薩摩藩屋敷跡に同志社英学校を設立します


当時はわずか8人の生徒であったそうですが

熊本洋学校で学んだ青年たちが次々と入学



新島は大学を設立すべく募金活動に奔走しましたが

志なかばで死去したといいます


同志社英学校が同志社大学となったのは

1912年(明治45年・大正元年)です







札幌バンド



「札幌バンド」は

「青年よ大志(大望)を抱け」

(ボーイズ・ビー・アンビシィオス)の言葉で知られる

クラーク博士(1826~86)に、感化された青年グループです




●  ウィリアム・スミス・クラーク


アメリカの教育家

日本政府の要請をうけてマサチューセッツ農科大学長のまま

76年(明治9)6月に来日

8月に開校した札幌農学校の初代教頭となった

事実上の創設者である


1年後の77年の4月に帰国



帰国後は学長を辞め

「洋上大学」という、大型の船に学校施設を備え付け

世界中の青少年を教導して回ろうという構想を企画するも

希望者が集まらず失敗に終わる


その後、知人と鉱山経営にのりだすも

知人が横領を繰り返したうえに逃亡


会社は破産し、背負った借金による

いくつもの裁判を抱えるこことなった


さらに心臓病にも侵され

寝たきりのような生活を強いられ、59歳で没している


現在のアメリカにおいは、

クラークはまったく無名の人物だという


なお、南北戦争に北軍軍人として従軍し

大佐まで昇進して1個連隊を率いていた歴戦の勇士であった






彼は、厳格なピューリタン(清教徒。カルヴァン主義者)で

札幌バンドは、クラークの感化をうけてキリスト教に入信した

農学校の第一期生と第二期生の学生たちのグループです



彼らはクラークの離日にあたり

「耶蘇(やそ・キリスト教のこと)を信ずる者の誓約」

(イエスを信ずる者の契約)に著名し

生涯の信仰を誓い合ったといいます



「青年よ大志を抱け」は

このときクラークが青年たちを激励した言葉だそうです




札幌バンドで名の知られる人物は

なんといっても 内村鑑三(かんぞう)です



他には、旧5千円紙幣になった

新渡戸稲造〔にとべいなぞう・1862(幕末)~1933(昭和8)

農学校2期生。国連事務局次長。太平洋問題調査会理事長〕

などがいます





●   内村鑑三 1861(幕末)~1930(昭和5)


農学校2期生

多数の著書を残し


キリストの再臨運動(終末とキリストの再臨が近いことを語る運動

内村は不義の戦争によって日本が滅亡すると唱えた)を展開し


日蓮とともに、日本の代表的予言者として知られる


〔日蓮は、自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)と

他国侵逼難(たこくしんぴつなん)の予言した〕



無教会主義〔教会の建物はもちろん教会の制度や儀式

すなわち教会組織そのものは否定されるものではないにしろ

キリスト教徒にとって不可欠なものではないという立場

日本独自の思想〕の創始者でもある




なお、クラーク博士は

「私がこの学校に要求する規則は

ビー・ジェントルマン(紳士たれ)に尽くる」と述べ、細かな学則を否定

キリスト教精神を根底とした人間教育を行ったとされます







YMCA



西城秀樹という歌手のヤングマンという曲で

有名になったYMCAは

キリスト教青年会(ヤング・マンズ・クリスチャン・アソシエーション)

の通称です


キリスト教の精神にもとづく人格形成(体育、知育、徳育による

身体、知性、精神の向上)を目指し

社会奉仕を行う超教派的な集団です



1844年にロンドンの呉服商の店員であった

ジョージ・ウィリアムズが

青年12名(彼を含めて)とともにロンドンに創設した団体で


学生への伝道活動や

労働する青年のために体育館や

宿泊施設を建設することなどを目的に始まったそうだです


彼らの教派は、組合派が3名

バプテスト派が3名、メソジスト派が3名

英国教会(聖公会)3名だったといいます


当初から超教派的な運動を展開する目的だったといいます



欧米に広まり、今では世界の124の国

1万を超える町や村で活動を展開し、会員数は4500万人いるそうです



日本には1880年(明治13)に東京YMCAが設立されています

その後、大阪YMCA、横浜YMCA、神戸YMCAができたといいます


日本でもYMCA運動を興したのは、20歳代の青年たちで

その中には、内村鑑三、新渡戸稲造、新島襄などがいます




女性のYWCA

(ヤング・ウーマンズ・クリスチャン・アソシエーション)は

1855年に、ロンドンのエマ・ロバーツという婦人が創設した祈りの会と

同年、キナードという婦人が創設した看護婦のホームYWCAが源流で

77年にこの2つの婦人団体が合同したのにはじまるといいます


日本YWCAは、1905年(明治38)に創設されています



YMCAもYWCAも今では青年だけでなく

幅広い年齢の人たちが活動していて


活動は主に、子どもや青少年に対する活動

障害児や障害者のための活動

高齢者が健康にすごすための活動

平和活動、地域活動で


具体的には、青少年キャンプなどの研修

バザーやコンサートなどのイベント


幼稚園や学童クラブの運営

高校や各種専門学校や語学学校の運営

予備校や学習塾の運営


障害児へのサービス、介護福祉事業

宿泊施設の運営などをしているようです







最初の日本語訳聖書




最初の日本語訳聖書は、誰の手によるの?


ギュツラク〔1803~51・プロイセン(ドイツ)の人

宣教師。東洋学者。オランダの伝道教会から

バタビア(オランダ領時代だったときのインドネシアのジャカルタ)

に派遣され

のちシンガポール、タイ、マカオと移り

オリファント社のモリソン号の通訳として来日〕

による「約翰(ヨハネ)福音之伝」だといいます



【 モリソン号は、浦賀(神奈川県横須賀市)に来航

貿易を求めたが異国船打払令により砲撃をうけ

鹿児島でも入港しようとして砲撃をうけ、失敗に終わり

マカオへ帰っている。(これをモリソン号事件という) 】



約翰福音之伝は

ハジメニカシコイモノゴザル コノカシコイモノ 

ゴクラクトトモニゴザル ではじまる全文カタカナ訳だそうです



彼は、マカオ(現在は中国の港湾都市

当時はポルトガルの植民地)に

漂着した3人の日本人の協力で和訳に成功し

これを江戸末期にあたる1837年に

シンガポールで出版したといいます



ギュツラクのあとも宣教師たちによる部分的な訳がつづき

1872年(明治5)になって

各派合同の宣教師会議で

新約聖書の共同訳を出版ことが決定され

80年に完成しました


旧約聖書の共同訳も87年に完成しています


これは「明治訳」と呼ばれます




なお、これ以前に

ヘボンとブラウンは

新約聖書馬可伝(マルコ伝)、新約聖書約翰伝(ヨハネ伝)

新約聖書馬太伝(マタイ伝)を出版しています


また、この翻訳には

奥野昌綱〔横浜バンドの中心的メンバーの一人。牧師

文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌の完成に大きな貢献をした〕

などの日本人が協力しています



ヘボンは、ギュツラフの「約翰福音之伝」を携えて

1859年に自費で日本に渡り、医師業をする傍ら

同年より日本で宣教していたブラウンとともに

聖書翻訳事業を開始したといいます





「明治訳」は、ヘボンとブラウンの事業を

受け継ぐ形で、2人の他に


会衆派のグリーンなど

各派〔英国聖公会宣教協会、バプテスト教会、メソジスト監督教会

イギリス海外福音伝道会、スコットランド一致長老教会

米国聖公会、カナダ・メソジスト教会など〕

の宣教師らが参加して完成したようです


〔ロシア正教会にも参加を呼びかけたが参加がなかったという〕



また、奥野昌綱や

松山高吉(たかよし・会衆派の牧師

文語訳聖書の翻訳や賛美歌事業貢献)

などの日本人も協力したといいます





ちなみに、20世紀後半以降は、近代以降のエキュメニズム

〔教派を超えた結束を目指す主義〕の流れに沿って


それまで異なる聖書を用いてきた

カトリック教会とプロテスタント諸派が世界各国で

共同して聖書の翻訳に取り組んでいるといいます



日本でも日本聖書協会〔プロテスタント系であるが

カトリックとも共同作業を行うほか

正教会にも聖書を頒布している〕が

「共同訳聖書」(1978・新約のみ)

「新共同訳聖書」(1987・旧訳と新約)を出版しています




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