緋山酔恭「B級哲学仙境録」 神とはなにか? キリスト教編 ④



B級哲学仙境論


神とはなにか?編


 



神とはなにか?

キリスト教編 ④




カタリ 派 (キリスト教異端)



ローマカトリック教会から異端とされた数多くの教派の中でも

特に有名なのがカタリ派です


12、13世紀に南フランスと北・中部のイタリアで有力だった教派です


カタリはギリシア語で清浄を意味するカタロスに由来するといいます


南フランスでは

アルビジョア派(南フランスのアルビ地方から)と

呼ばれていたらしいです


第3ラテラノ公会議(1179年)で

ローマ法王から破門宣言がなされています




カタリ派では、全ての物資的存在、現実世界を

悪神が創造したものとし


霊魂が、悪神の牢獄(肉体)に閉じ込められたのが

人間であるという「霊肉二元論」を説いていたようです



教義の細かい点については

カタリ派の教派間で違いがあり


善と悪の2神が永遠に存在するとしている絶対派と

天使の一人が反逆して悪神となったとし

悪神は有限であるとする穏和派があり


絶対派は輪廻転生を説いたとされています



そして、ローマ教会も物質的存在、悪魔の存在であり

旧約聖書は悪神の書であると主張し

新約聖書のみをよりどころとしたといいます



また、霊魂を善、肉体を悪とする二元論の立場をとることから

キリストの誕生と死を否定、十字架はキリストを殺害する

人類最大の罪であるとし、キリストの復活をも否定したそうです



そして、戒律を全うすることで

霊魂が悪神より解放され天上界に戻れるとし

肉食、殺生(せっしょう)、性交、所有など

世俗的生活の全てを否定し

断食(だんじき)などの禁欲的生活と

使徒的生活を実践したとされます



さらに一切の社会関係を否定

このため結婚生活を行わなかったといいます



僧侶の妻帯を禁じている仏教とは違い

キリスト教において結婚は

神が人間を創造したときに定めた秩序であり


神に祝福される行為であって

カトリックでは秘蹟〔ひせき・サクラメント

神の恩寵を受けることができる儀式〕の1つにもなっているのですが

これを否定したわけです




ここまでいくと異端というより

異教ではないかと思わざるを得ませんが

カタリ派は真のキリスト教会を主張したそうです


極端な現実否定を唱えることから

入信者はそれほど多くなかったようです


とはいえ禁欲を実践する彼らを敬う者が多くなり

社会的影響が強まっていったそうです




ローマ法王の指令のもと

北フランス諸侯によって組織された

アルビジョア十字軍(1209~29)による弾圧をうけ

各地でおびただしい血が流されたそうです


1244年に最後の拠点モンセギュール城が陥落し

南フランスのカタリ派は滅んだとされています


イタリアでは15世紀まで活動が続いたらしいです








修道会



カタリ派に対する対抗伝道から

誕生したのが、ドミニコ修道会です


ドミニコ修道会を設立した

ドミニクス(1170頃~1221・スペインの修道士)は

武力でなく説教によりカタリ派信徒を改宗させようと

巡国説教者となり

のちに修道会を設立したとされたといいます



このドミニコ会の会士こそが

ローマ法王より異端審問官に任命され

魔女狩りや異端審問で中心的な役割を果たすことになります



魔女狩りや異端審問には

のちにフランシスコ修道会士も加わり、通常 二名一組となり

問題とされる地方を巡回し


彼らには自白のための拷問が認められていて

判決により、罪を悔い改めて十字架を着用すること

聖地巡礼、投獄、財産没収、火刑などを下したといいます


財産の没収や火刑の執行は、世俗権力にまかせたとされます




また、スペインでは審問官の任命権が

ローマ法王から国王にうつり

異端審問が王国を統治するための一つの機構となったといいます






修道会って、北海道で集団生活して、バターつくったり

飴つくったりしてるような人たちじゃないの?


修道会についても簡単に述べておくと

修道院内で祈りと労働に専念するものと

布教と慈善活動を積極的に行うものとに大別されるのです



日本でいうと

前者の代表が、北海道の函館郊外のトラピスト修道院や

函館のトラピチヌス女子修道院のトラピスト修道会です


自給自足の農業労働に従事し

菜食などの戒律を守り、祈りの生活をするわけです




後者は托鉢修道会といいます

ドミニコ会、フランシスコ会、カルメル会らがその代表です


前者が有力信徒からの土地の寄進により富裕化し

世俗領主のようになっていったのに対し


托鉢修道会は、観想的な生活よりも

門(かど)付けによる喜捨(きしゃ)

つまり托鉢による施しに清貧の精神を求めたそうです


13世紀の西欧諸都市に誕生しています



使徒つまりイエスの弟子たちのような伝道生活を最も重要視し

修道院での日課を減らし

活発な説教活動を行うところに特徴があります



男子修道会と女子修道会(第二会)の他に

第三会と呼ばれる在俗者会をおくのも特徴です



それから修道院は、カトリックと

東方正教会(ロシア正教やギリシア正教)のもので

プロテスタントには極めて稀な例外を除いては存在していません





なお、跣足(せんぞく)修道会は、使徒の生活にならい

また清貧の実践から、会士が靴をはくことを禁じている修道会です


サンダルをはく場合も多いようですが

まったくの裸足の修道会もあるらしいです



なお前者、すなわち祈りと労働に専念する修道会にも

跣足を規則としているものがあるようです



この制度は、フランシスコ修道会の創設者

フランチェスコがはじめた規則だといいます



イタリアのフランチェスコ(1182~1226)は

托鉢と貧者への奉仕生活を始め

共鳴する若者とともに

フランシスコ会の前身にあたる「小さき兄弟の修道会」を設立


彼らは自分たちを小さき兄弟と称し

鳥など全ての自然のものを兄弟と呼び


粗衣をまとい裸足で伝道生活をなしたといいます


日本へは桃山時代の1593年に伝道しています




カルメル会は、カルメル山(イスラエル北部)の

修道院士たちを起源とし

13世紀にカトリックの托鉢修道会として認可されたようです


16世紀に、アビラ(スペイン中部)のテレサ(女性)と

十字架のヨハネ(スペイン人)という

神秘家(神と接触または合一することを目指す宗教家)

によって改革


彼らに共鳴する者たちが2人の没後

もとのカルメル会である履足(りそく)派から

跣足(せんぞく・跣は裸足の意味)派を独立させています


ヨハネの神秘主義は、霊魂の闇の中で

花婿である神と愛のまじわりを結ぶというものだそうです






日本へは1549年

イエズス会士のフランシスコ・ザビエル

(スペインのナバラ王国の貴族)によって

始めてキリスト教が伝道されています


このイエズス会も後者にあたります


日本では古くイエスの漢訳が耶蘇(やそ)であることから

耶蘇会と呼ばれたそうです



イエズス会は男子修道会で

宗教改革によって失墜したカトリックの権威回復と

失った信徒を再び入信させる目的で設立されたそうで

布教者の育成は軍隊式で知られ

世界の果てまで布教しぬく精神を育てたといいます



カトリック復興運動の先頭で活躍し

多くの信徒をカトリックにとどめますが


内部の腐敗に対する非難が再三にわたり各地から寄せられ

またブルボン王家の絶対王政主義との対立もあり


18世紀後半にはローマ法王により解散させられ

会士は追放処分を受けています (40年後に復興を許されている)



日本へは1908年(明治41)に再来日し

東京に上智大学や兵庫に六甲大学などを設立しています







魔女狩り



魔女狩りは

15~16世紀のヨーロッパでは一つの産業とさえ言われ

魔女を発見する職業まで誕生しています


魔女とは、悪魔と契約を結び

呪法を用いて人々に害を与えるものとされます


本来は、霊能者やシャーマンのような者をさすのでしょうけれど

恐ろしいのは一般の無実の者が

魔女(男性も魔女と呼ばれたという)と

判定されたところにあります



教会に行かないと、魔女のうたがいがかけられ

熱心にかよう者は、魔女が偽装しているとうわさされたそうです


互いが密告におびえる社会へと陥ったそうです


拷問、泣き試験(聖書の言葉を聞かせて涙を流さなかったら魔女と判定)

神明裁判(裸にして両手を後ろ手に縛り水に沈めて

浮き上がってきたら魔女と判定)が行われ

魔女裁判で魔女と判定された者は、火刑に処されたのです




また、異端者すなわちキリスト教徒であっても

正統的教義に反する教えを信じる者への弾圧も猛威をふるいました



一人で10万の裁判を行い、火刑台の煙を絶やさなかったという

伝説的な審問官も誕生しています



これは、異端審問が、キリスト教異端派の教徒のみならず

神への冒とく行為を犯した者、民間信仰を信じる者

キリスト教徒に偽装したユダヤ人(ユダヤ教徒)

さらに風紀を乱した者にまでおよび

また正統派間における党派争いにまでおよんだからだとされています



なお、虐殺をのがれるためキリスト教に改宗したが

ひそかにユダヤ教を信仰している疑いの

スペインやポルトガルのユダヤ人は

スペイン語で豚を意味するマノラーと呼ばれたです





たった2人の者に告発されると異端とされ

拷問にかけられたらしいです


拷問の目的は自白と浄化だったそうです


もっとも広く行われた拷問は、ラックという装置に

異端の嫌疑がある者をばんざいさせた状態で寝かし

手と足をしばったロープをとまきとっていくものです


最初に肩の関節がはずれ、そのあと筋肉がちぎれ

体がバラバラになるといいます


他に頭蓋骨を圧迫してゆき最後には砕いてしまう装置や

口の中に入れて開いていきあごを砕く器具などがあったようです




異端審問は、ヨーロッパだけで行われたのではありません

列強の植民地とされたラテン・アメリカでも

すさまじかったといいます


ペルーの首都リマには、スペイン王の命により

1570年に宗教裁判所が建設され、なんと250年間も存在し

50万人が犠牲になったといいます


1820年に裁判所の閉鎖が決まったときには

民衆が大挙して押しかけてこれを打ち壊したそうです







ジョルダーノ・ブルーノ



ガリレオと同時期の人

ジョルダーノ・ブルーノ

(1548~1600・イタリアの自然哲学者

近代宇宙観の先駆者)は


ナポリのドミニコ会の修道院で学ぶものの禁書を読み

異端の疑いがかけられて逃亡したといいます



そしてイタリア各地をはじめ

スイス、フランス、イギリス、ドイツを

研究と教授をしながら遍歴したそうです


ロンドン滞在中に「原因・原理・一者」(1584) と

「無限、宇宙と諸世界について」(1584)

という2つの代表作の他、多くの著作を書いています



15年余の遍歴の後、イタリアに帰りますがベネチアで逮捕され

異端審問所に送られ、8年間の獄中生活を強いられた後

ローマの「花の広場」で火刑に処されています



彼は火刑にされる時、審問官に

「私よりも宣告を下しているあなたの方が

真理の前に恐れおののいているではないか」

という言葉を残したそうです




彼の思想はコペルニクスの地動説を発展させたもので

宇宙は無限であり、太陽や地球のような星が無数に存在する

というものでした



太陽があり、それを回る地球や惑星、月がある

その外にはまた別の太陽が存在し

それを回る惑星があるはずである


それらがどこまでも宇宙に広がっていて、無限である

この宇宙の中で、万物は変化し、生成を繰り返していることだろう

というものです




“宇宙は無限の拡がりであるが故に、無数の万物を包み

しかも万物はそのなかで生成流転を繰り返しながら

それを包む宇宙は永遠不変である

その展開された姿においてさまざまの差異・対立を含みながら

宇宙そのものは「ありうるものすべてを包み

しかもそれらに無関心」な一として存続している

したがって宇宙そのものには上もなければ下もなく

限界もなければ中心もない

消滅もなければ生成もない

無限なる宇宙のなかには無数の天体(世界)が存在し

そのなかで無数のアトムが集合離散を繰り返している

したがってこの地球(世界)と同様の世界は他にも存在しうるはずだし

われわれ人間同様あるいは

「よりすぐれたものもどこかに住んでいないとは考えられない」”


(創文社 清水純一「ジョルダーノ・ブルーノの研究」より)






ブルーノの功績は「無限の宇宙」という概念を初めて示したこと

これによって、従来の宇宙観を打ち破ったこととされています



但し、月を惑星の一種と見なしたり〔当時としても明らかな誤解〕

魔術の書も書いていることから


彼の場合は、科学的見地よりも

宗教観に根ざしたものであったとも考えられています




ローマカトリックというのは

【 宇宙の中心は地球である

地球の中心はローマ教会であり、裏側の中心はエルサレムである

宇宙はローマ教会を中心に回っている 】

という天動説を立て


これをローマ教会の権威としていたわけです



彼の死の轍を踏まないように

ガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われています








十字軍



十字軍は、1096年から13世紀後半まで

8回にわたって行われた


イスラム教徒を討伐し

聖地エルサレムを奪還するための遠征軍です



エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教

イスラム教の共通の聖地で


キリスト教にとっては

イエスの墓(聖墳墓)が存在し、巡礼が盛んでした



ところが11世紀後半から勢力をのばした

セルジューク・トルコがエルサレムを占領し

キリスト教の巡礼者を迫害したのです



これに対して、ローマ皇帝が

ローマ教皇(ローマ法王)に支援を要請


教皇は、宗教会議を開き、聖地回復を宣言


十字軍の参加者には

贖宥(しょくゆう・罪を赦されるためにするつぐないを免除すること)や

債務(さいむ)の帳消しを保証します


十字軍への参加者には、宗教的情熱ばかりではなく

現実的な欲求もあったとされます



教皇も、聖地回復の他に

これをきっかけに十字軍税を確立し


さらにビザンチン帝国(東ローマ帝国)をも傘下に収めようとを

もくろんでいたといいます




第1次(1096~99)は、フランスの騎士を中心に結成され

99年には、エルサレムを占領

聖地に残った諸侯が

ロレーヌ公を宗主とするエルサレム王国を建設




第2次(1147~49)は

神聖ローマ皇帝やフランス王が参加

シリアの首都ダマスカスを攻撃している




第3次(1189~92)は、約90年ぶりに

エルサレムがイスラム教徒に奪還されたために行われた遠征で

最大規模の遠征だったという


神聖ローマ皇帝、フランス王、イギリス王が指揮にあたるも

神聖ローマ皇帝が小アジア(現在のトルコ)で渡河中に溺死したり


イギリス王とフランス王が対立して

フランス王が途中で引き上げてしまったりで

イギリス王は各地を転戦するも退勢を挽回できずに帰国している




第4次(1202~04)は、ローマ教皇の提唱で

フランス諸侯や騎士が参加

助けるべきはずの

ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の

首都 コンスタンティノープルを攻撃、占領


この地にブランダル伯を初代皇帝とする

ラテン帝国(1204~61)を建設している


この十字軍は宗教的目的が薄れ

イタリア商人のための企業と化した十字軍と批評されている


方向転換十字軍と呼ばれる悪評高きものである




第5次(1217~21)は、ハンガリー王、オーストリア王が参加

エジプト北部のダミエッタを占領するもすぐに奪還されている




第6次(1228~29)は、神聖ローマ皇帝により起こされ

エルサレムを奪還するも、まもなくエジプト王に占領されている




第7次(1248~54)は、フランス王によって起こされるも

王は捕虜となり、身代金を払って帰国したとされている




第8次(1270)も同じフランス王によって起こされたが

王がアフリカのチェニスで伝染病で死去したために挫折


イスラエル北西部の港湾都市アッコに踏みとどまっていた

キリスト教徒は、捕虜をのぞいて全て海に落とされたという




十字軍は、聖地回復という目的は達成できなかった上に

民衆に対してはキリスト教への不信感を与え

宗教への情熱を薄めてしまったとされます



また、諸侯や騎士は遠征により疲弊。戦死者も多数出て

家系を断たれた者も多かったといいます



一方で、遠征により陸海の交通路が発達し、東方貿易が進み

これによって都市の興隆をうながしたとされます



また、ビザンチン文化や当時の先進文化であった

イスラム文化との接触は

西ヨーロッパの文化に大きな影響を与えたといいます





これ以後、新たに強大な敵となったオスマン帝国

〔1299~1922。オスマン・トルコ

453年に東ローマ帝国(を滅亡させる

最盛期の16世紀には、その領土は

ジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがった

17世紀末から衰退。第一次大戦で敗北後、革命により滅亡〕

に対する遠征を「後の十字軍」と呼びます



有名なのが1396年のニコポリス十字軍で

ブルガリア北部のニコポリスで、オスマントルコと

ハンガリー王率いるヨーロッパ連合軍が戦っています


トルコの進出に脅威したハンガリー王が

ローマ教皇に協力を求め、教皇の呼びかけに

フランス、イギリス、ドイツ、ワラキア(ルーマニア南部)

ポーランド、スペインから10万の軍勢が参加


目的は、オスマン・トルコの

コンスタンティノープル(東ローマ帝国の首都)の包囲をとき

バルカン半島から駆逐することだったそうですが


結局、連合軍は敗走し

オスマン・トルコのバルカン半島の支配を決定させたそうです







騎士修道会



なお十字軍の時代には

「騎士修道会」というのが活躍しました



会員は騎士以上の階級から募集し

イスラム世界との境界に常駐し

十字軍の主戦力として戦い


また、聖地巡礼のキリスト教徒の救護にあたったといいます

西欧で多数創設されています



ヨハネ騎士修道会

テンプル騎士修道会(テンプルとは、ヤーウェの神殿の意

エルサレムのソロモン神殿の近くに本拠があったことから)

ドイツ騎士修道会が、三大騎士団と呼ばれています



12世紀後半の最盛期には

全騎士修道会の会士は数十万におよび

東欧、中東にも所領を得て、数万の城館が築かれ

病院や銀行を経営し、市(いち)を管理するなどしていたといいます


また、会士は入会するにあたり、財産を修道会に寄付し

共有財産とする制度をとっていたそうです



前線で戦うのは数%で

多くの会士の仕事は、食糧や軍需品の補給また輸送

経済基盤の構築にあったそうです






●  三大騎士修道会のその後



① テンプル騎士修道会は

巡礼者の預金を預かる金融業を営みました



当時、巡礼は命がけで、盗賊やイスラム教徒に襲われ

金品はもちろん、命さえ奪われることがしばしばありました


そこで、巡礼者が、各地に存在する

テンプル騎士修道会に現金を預けておき

巡礼の途中、立ち寄った村や町の詰所で

現金を引き出せる銀行のようなシステムを確立したのです


これにより、巡礼者は、賊に襲われても

被害を最小限で抑えられるようになったのです




テンプル騎士修道会はこうした世界初の銀行システムによって

莫大な財をつくり、フランス王家の財政も委託管理し

たびたび援助をしていました



また、ヨーロッパから中東にかけて多くの土地を所有し

そこに教会と城砦を築き、農園を経営

戦艦まで所有していたとされます



キプロス全島をも所有していて十字軍以後

本拠をキプロス島に移しています




イギリスとの戦争により、財政難に苦しむ

フランス王 フィリップ4世は、法王庁への献金をやめたり

ユダヤ人の財産を没収、追放したりしていましたが


ついに、最大の債権者であるテンプル騎士団の壊滅を画策します



1307年、王はフランス全土の騎士団会員を逮捕


入会の儀式に男色行為があること

反キリストへの誓いをなしたこと

悪魔崇拝を行ったことなど100以上の異端の罪をかぶせ

罪を認めるまで拷問を行ったといいます



異端審問を行うには法王庁の許可がいますが

当時の法王(教皇)は、フィリップ4世の意のままになる人物

であったといいます



これにより騎士団の活動は禁止され

全財産はヨハネ騎士修道会の管理へと移され


さらに1312年には、公会議で正式に異端となり

14年には、投獄されていた

会長のジャック・ド・モレーら4人の指導者が処刑されています






② ヨハネ騎士修道会は、十字軍の役目を終えると

本拠をロードス島(現在ギリシア領)に移し

ロードス島騎士修道会となります


1530年に、オスマン・トルコにロードス島を奪われ

マルタ島(シチリア島南部の共和国)に移り

マルタ島騎士修道会となり

オスマン・トルコとの海戦に有力な戦力として活躍しています



マルタ島が1798年に、ナポレオンに奪われるまで存続し

19世紀半ばに本部をローマに再興しています



なお、正式名は

ロードスおよびマルタにおける

エルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会 といいます






③ ドイツ騎士騎士修道会は

十字軍以後、神聖ローマ皇帝から

プロイセン(ドイツ北東部の地方)を征服領有することの許可をうけます




●  神聖ローマ帝国


現在のドイツである

西ローマ帝国の後継国家を名乗ったことからの名称

962~1806年まで続いた


その範囲は、初めのうちイタリアにも及んでいたが

13世紀中頃には、事実上、ドイツ地域にのみ限られるようになっている


また11~12世紀から帝国の封建化が強まり

諸侯はそれぞれ領邦の形成を進めて


皇帝から政治的に独立していき

帝位の継承は選帝侯と呼ばれる

聖俗の有力諸侯の選挙によるものとなった




ドイツ騎士騎士修道会は、ローマ法王から

異教徒の征服は、彼らの罪をあがなう救済行為である

という教勅をうけ


「東方植民」〔12世紀初頭から14世紀にかけてなされた

ドイツ人による東方スラブ人が住む地域への侵略、植民地化

ドイツ騎士団により征服された古プロイセン人(スラブ人)の信仰は

アニミズム的な多神教であったようである〕の主役となり


1283年までにプロイセン全域を征服

プロイセンをドイツ騎士修道会の独立国家となしています



1410年、ポーランドとリトアニアの連合軍に大敗し

西プロイセンを失い

残る領土は東プロイセンのみとなります



1523年には、会長のアルブレヒドが

ルターと面会、感銘をうけ、配下の騎士とともにルター派に改宗し

騎士王国は消滅しました



また、ヨーロッパの名門 ホーエンツェレルン家の一族である

アルブレヒドは、プロイセン公国を建設します


このプロイセン公国(プロシア公国・1525~1701)が

のちにプロイセン大国(1701~1918)となります




プロイセン大国は、1866年の普墺(ふおう)戦争に勝利します


普墺戦争は

オーストリア(ハプスブルク家)を盟主とするドイツ連邦が

脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されます


その後、ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ

連邦を二分してのドイツ統一の主導権争いとなりました




プロイセン王国は、北ドイツ連邦

〔1867~1871・ドイツ北部のプロイセン王国を

主体に22の領邦から成立した連合体〕の中心となり


1870年には、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・

バイエルン王国と同盟を結び、普仏戦争に圧勝します




71年には、統一ドイツのドイツ帝国が建設され

プロイセン王国は、帝国を実質的に支配しました



当時のドイツには、カトリックの国と

プロテスタントの国が混在していて


カトリック国は、統一されるなら

オーストラリアによる統一を望むといった

情勢にありましたが


プロテスタント国のプロイセンによって成し遂げられたのです


なお、このドイツ帝国建設に活躍したのが

プロイセン王国の宰相 ビスマルクです





ドイツ帝国は、第一次世界大戦の敗北(1918)とともに

ドイツ革命が起きて帝政は倒され

ヴァイマル共和政と呼ばれる共和制へと移行しています




なお、騎士王国消滅後も

騎士修道会はドイツ南部で存続し現在に至るといいます


正式名は、ドイツ人の聖母マリア騎士修道会で

チュートン騎士団(チュートンとは、ゲルマン民族の一派)

の名でも知られます








叙任権闘争



西欧では長らく

聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は

土地の領主が持っていたといいます


その後、カトリック教会の大司教・

司教・修道院長等の高位聖職者任免権は

世俗の権力である神聖ローマ皇帝が持ち


下位聖職者任免権はイギリス・フランス等の国王や

荘園領主が持っていたそうです



しかし、中世に入ると

聖職者の腐敗の一つである聖職売買が

世俗の権力に、聖職者叙任権が握られているために起こるのである

と考えられ始め


教皇権が強まる中で、この叙任権をめぐる争いが

世俗権力との間でたびたび起こります



皇帝としては、司教たちの任命権を握ることで

教皇の選挙においても

さらに教会支配においても影響力を持つことになります



そのような情勢なか

有名な「カノッサの屈辱」という事件がおきます



教皇 グレゴリウス7世は

教皇権が皇帝権に対し優位にあることを主張し

1076年に、ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を破門します


それを受け、王権・帝権の強化が進んだことに懸念をもつ

ドイツ諸侯たちは、インリヒの帝位を否定する動きをみせます


翌1077年、政治的地位が危うくなることを恐れた

ハインリヒ4世は、グレゴリウス7世に贖罪します


ハインリヒ4世が、1/25日から3日間

雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け

教皇から破門を解いでもらっています


これが「カノッサの屈辱」です



その後、ハインリヒ4世は、反対派の諸侯を制圧し王権を確立

再び叙任権をめぐって、教皇と争い

1081年にはローマを囲み、教皇を幽閉します


84年、教皇は、ノルマン公ギスカールによって救出され

ローマを逃亡、85年イタリア南部のサレルノで客死しています




皇帝と教皇の争いは続き

1122年に結ばれたヴォルムス協約において


教会が有している権力・権威は「宗教的なもの」と

「世俗的なもの」(土地とか財産など)の

2つに分けられるという考え方から


聖職叙任権は教皇が有するが

教会の土地、財産などの世俗的な権利は王が受け持つ

という妥協が成立し、一応の解決へと至ったとされます








カトリック教会の大分裂



テンプル騎士団を壊滅させたフランス王 フィリップ4世は

1303年に、財政上の必要から法王領に課税しますが


法王 ボニファティウス8世はこれに抗議し

国王をローマに召喚しました


しかし王は拒否し

国内の高位聖職者や貴族を集め、法王の廃位を宣言します



これに対して法王が破門にしようとしたため

フィリップ4世は、アナーニ(ローマの南にある山間都市)の別荘を襲撃し

法王を捕らえました


アナーニ住民の抵抗で法王は救出され

ローマに帰還しますが

68歳の法王は、衝撃のあまり3週間後に死亡します


これがアナーニ事件です




次の次ぎの法王が、クレメンス5世で

09年に、フィリップ4世の要請で

法王庁とともにアビニョン(フランス南東部の都市)に移っています



法王庁がアビニョンにおかれた時代

法王は全てフランス人で


多くのフランス人枢機卿(すうききょう・

法王を補佐して法王庁の運営に携わる。法王の選挙権をもつ)

が任命され


しばしばフランス国王の意思によって動かされたため

前6世紀、ユダヤ人がバビロニアの捕虜となった故事になぞらえて


これを「アビニョンの捕囚」と呼びます



1377年、法王 グレゴリウス11世が法王庁をローマにもどし

アビニョンの捕囚は終わりますが


翌年、法王が死去し、新たにイタリア人の法王が選出されると

フランス人枢機卿らは選挙を無効とし

対立法王をたてアビニョンに戻ってしまいます



以来、「教会の大分裂」がはじまり

2人の法王が存在することとなり、これは1417年までつづきました



事態を収拾するために開かれた

09年のピサ公会議(イタリア)では

ローマの法王 グレゴリウス12世と

アビニョンの法王 ベネディクトゥス13世を廃し


新たな法王 アレクサンデル5世を選出しまたが

2人は納得せず3人の法王が存在することとなりました



神聖ローマ皇帝の圧力によって

ドイツのコンスタンツで行われた公会議(1414~18)で


15年に、アレクサンデル5世の後継者

ヨハネス23世が逃亡し廃位


同年、ローマの グレゴリウス12世が退位に同意

17年に、アビニョンの ベネディクトゥス13世が廃位となり


新たに マルティヌス5世が選出されてようやく終結しています








レコンキスタと
スペイン・ポルトガル




スペインやポルトガルも、比較的新しい国です


スペインやポルトガルのあるイベリア半島は

イスラム教徒が支配していた時代があります



8世紀初頭から1492年まで

イベリア半島で、北のキリスト教スペインと

南のイスラム教スペイン

〔イスラム教徒の半島征服部分をアル・アダスと呼ぶ〕

との間に行われた

約800年間という恐ろしく長きに渡る戦争を

「レコンキスタ」(国土回復戦争)といいます



6世紀後半にイベリア半島を統一した

ゴート族(ゲルマン民族の1つ)による

西ゴート王国が711年にイスラム教徒の攻撃により崩壊します


イスラム教徒はイベリア半島全域を支配するも

内部抗争が続いきました


756年には、後ウマイヤ朝が成立するも

抗争は収まらなかったといいます



このような情勢から、アストゥリアス

(のちに首都をレオンに移し、レオン王国となっている)

ナバラ、カタルニャなどのキリスト教の王国が誕生したそうです



1031年に、後ウマイヤ朝が崩壊し

イスラム教スペインは政治的統一を失い


キリスト教スペインには

カスティリヤとアルゴンという国が成立しています



その後、キリスト教諸国の南進により

各地がキリスト教徒に奪還されていきます


13世紀中頃には、西のポルトガルと東のアラゴンが

国土を回復し、レコンキスタを完了します



中央のカスティリヤは

イスラム教徒をグラナダに追い詰め

これを属国としています



ムハンマド1世は、カスティリヤ王への貢納に同意しつつ

グラナダ王国(1238~1492・ナスル朝)を建国したとされます


そして1492年にグラナダを奪回し、レコンキスタは終了します





ポルトガルの建国は

フランスのブルゴーニュ地方の貴族らが

西方十字軍を組織して、レコンキスタに参加


その1人とレオン・カスティリヤ〔レオンとカステイリヤの同君連合

1230年にはカステイリヤがレオンを併合〕の王女が結婚


その子エンリケスがローマ教皇の仲介で

1143年にレオン・カスティリヤから独立し

ポルトガル王国を建国したことにはじまります


1910年からは共和制になっています





スペインは、まず1469年に、カスティリヤのイザベル女王と

アルゴンのフェルナンド王子が結婚し

両者がカスティリヤの共同統治者となります


79年には、フェルナンドは父王の死去に伴いアラゴン王位を継承し

カスティリヤとアラゴンは

内政面ではそれぞれ独立しているものの対外的には一体となりました


これにより、カスティリヤ=アラゴン連合王国

つまりスペイン王国が誕生しています



1931年に共和制になるも

共和国政府(人民戦線政府)と


ドイツとイタリアの支援をうけた

フランコ将軍との間で内戦が起こります


フランコ将軍が勝利し、独裁体制を確立しました


75年にフランコが死ぬと王制が復活し

現在は立憲君主国となっています








日本のカトリックの歴史



カトリックとは「一般的」「普遍的」を意味する

ギリシア語の「カトリコス」に由来するといいます


ローマ・カトリック教会を

神の真理の保持者であり、解説者であるとし

神の恵みを、信徒は、教会を通してのみ授かれるとします


また、神の救いの過程における

人間の努力=功績(キリスト教では善行のことを功績という

)を認め


人間は「自由な意志」によって

自ら、神の救済に近づけるとします


なお、免罪符を買うことも「功績」とされるに至り

ルターなど宗教改革者によって

批判されることになったわけです



他の教会や宗派に対し

長きにわたって排他主義をとってきましたが


第二バチカン公会議(1962~65)以降は、軟化して

プロテスタント諸教会や諸宗教との対話をはじめています


具体的には

前ローマ法王 ヨハネパウロ2世(在位1978~2005)が

プロテスタント諸派や、東方正教会との和解へ努力し


ルーテル教会やへの訪問


イギリスへ訪問し、英国国教会のランシー大主教と会見


東西教会の分裂以来、教皇として初めてギリシャを訪問


さらには、イスラム教のモスク(教会堂)や

ユダヤ教のシナゴーク(教会堂)をも訪問しています

〔1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグを訪ている〕



また、法王は、ローマ・カトリック教会過去の罪をみとめ

歴史的謝罪を活発に行っています


キリスト教の歴史における

ユダヤ人への行為

十字軍の正教会やムスリムへの行為

などへの反省と謝罪


さらに

ガリレオ・ガリレイの地動説裁判における名誉回復などを

公式に発表しています






日本では、古くは

イエスの漢訳が「耶蘇」(やそ)であることから

イエズス会を「耶蘇会」

キリスト教=カトリックは「耶蘇教」と呼ばれたそうです


また、カトリックは「天主教」や

「キリシタン」(切支丹・信徒もいう)とも呼ばれ


キリシタン宣教師はバテレン

〔伴天連・ポルトガル語のパードレ(神父)から〕と呼ばれました



なお南蛮とは、本来、中国による南方民族に対する別称で

古くは、治世の及ばない地域を、東夷(とうい)、南蛮

西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)と呼んだといいます


日本では、南蛮は、南ヨーロッパのカトリック国である

スペインとポルトガルをさしました






日本へは1549年、イエズス会士の

フランシスコ・ザビエル(スペインのナバラ王国の貴族)によって

始めてキリスト教が伝道されています


このイエズス会は、ポルトガル国王の植民地政策を

宗教的側面から支援する役割を担っていて


おりから生まれたアメリカや

アジアの植民地で改宗をすすめる運動をなしたとされます



ザビエルの滞在は、2年余りでしたが

およそ1000人の信徒を得ています


彼は、天皇から布教の許可を得ようとしましたがかなわず

山口で、大名の大内義隆の許可を得ています



当時は、仏教用語を使い布教しようと考え

仏教の一派と誤解されることもあったといいます


例えば、ギリシア神話の最高神ゼウスを、大日と訳したといいます



キリスト教は、ザビエルの後、来日した宣教師たちによって

西南九州を中心に布教されていきます


南蛮貿易の魅力から、大名たちが歓迎したことによるとされます


またすすんで入信する大名も現れます


1563年に洗礼をうけ

最初のキリシタン大名となった 大村純忠(肥前)は

イエズス会に、長崎の地を寄進しています


大友宗麟(豊後)や、有馬晴信(肥前)も、洗礼をうけます

〔肥前は長崎と佐賀の両県。豊後は大分県にあたる〕



1568年、信長が、保護政策を打ち出したことて

信徒は大幅に増大します




「南蛮寺」は、室町末期から安土桃山時代にかけて建てられた

キリスト教の教会堂で

山口(1551)が最初で、豊後、平戸、有馬、長崎、京都、堺、安土

大坂、金沢、駿府、江戸などに建設されたといいます

とくに京都のものが有名です




1582年には、有馬、大友、大村 のキリシタン大名が共同で

ローマ教皇(法王)に、使節を派遣します


これが「天正遣欧使節」です



信徒数は15万人となり、キリシタンの最盛期むをむかえ

南蛮文化は、安土、桃山文化に、彩りをそえたとされます



秀吉も、当初、好意をもち、土地を与えています


しかし、やがて西欧の植民地政策に、不信感をもつに至り

1587年に、バテレン追放令を出します


1597年には、京都周辺の信徒たちをとらえ

長崎の西坂で処刑します


「二十六聖人の殉教」です





●  二十六聖人の殉教


秀吉は、イエズス会の後に来日した

フランシスコ会の活発な宣教活動を

禁教令に対して挑発的であると考え


京都奉行の石田三成に

京都に住むフランシスコ会員と

キリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じます


これにより京都・大坂などで捕らえた

フランシスコ会の外国人宣教師6人・日本人会士17人

日本人のイエズス会士3人の計26人 


年齢は12歳から64歳に及ぶ(年齢不詳の者もいる)

者が磔(はりつけ)に処されました




京都・大阪で引き回しとなり

京都では左の耳たぶを切り落とされ

厳冬時期に、歩いて長崎へ向かったといいます


また一行は、西坂の丘が

イエスが処刑されたゴルゴタの丘に似ている

ということから処刑の場として望んだといいます


4000人を超える群衆がみつめるなか

槍で両脇を刺し貫かれて絶命しています




なお、イエズス会士のパウロ三木は、死を前にして群衆に向い

「わたしは何の罪も犯していない

キリシタンの教えを広めただけで処刑されまする」と

自らの信仰の正しさを語ったという



これが、日本最初のキリスト教殉教者たちで


1862年に彼らは

カトリックにおいて列聖 聖人に列せられること)されています





家康も、当初、貿易促進のため、布教を黙認していましたが

ポルトガル貿易が低下したこと


また列強の侵略的意図を知って

1612年に最初の禁教令を出します


これによって、宣教師の国外追放

教会の破壊、信徒の配流がなされたといいます



また、家康は、キリシタンに寛容であった秀頼が

無敵の艦隊で知られるスペインと結ばれることを恐れた

という説もあります




一方で、スペインの無敵艦隊は

1588年、イギリス・オランダ連合軍によって壊滅しています


この歴史的敗北は

プロテスタント諸国勃興を強く印象づけるものであり


以後、海上権はイギリス、オランダ両国に移行しています


そのような中で、スペインが

極東の国に軍事力を派遣できたとは思えない


宣教師の活動を「日本を植民地支配するための尖兵だった」

とする説は


スペインやカトリック勢力を過大評価したものである

という意見もあります




いずれにせよ

幕藩体制を確立するのに統制を乱す恐れがある


一向宗門徒のようになりかねない

ということから、禁教政策はさらにすすんでいったようです



島原の乱(1637~38)以後


三代家光による「鎖国令」

〔 1639年・但し、中国、オランダ、朝鮮のみ貿易が認められていた

オランダは、プロテスタントの国で、布教はしないという約束のもとに

貿易を許されたといいます 〕が出されます


なお当時、ヨーロッパでは、宗教改革が起こって

カトリック教会は大変な状況にあり


それが、修道会(イエズス会・フランシスコ会・ドミニコ会)

をもって、海外布教へと向かわせていたわけです


さらに42年のキリスト教全面禁止というように

キリシタンの弾圧が激化します



幕府は、「踏み絵」や

「宗門改め」

〔庄屋や各戸家頭から所属の住民の住民の宗旨を報告させる〕


「檀家制度」〔全ての国民は、寺院との結びつきを余儀なくされ

寺院は戸籍に匹敵する宗旨人別帳を作成する行政の一機関

住職は戸籍吏と化した〕

などによって、キリシタンの根絶をはかりました



明治政府も、弾圧政策を受け継ぎますが

欧米諸国からの非難をあび


1873年(明治6)、およそ280年におよんだ禁制が解かれ

キリスト教弾圧の歴史に終止符がうたれました






●  天正遣欧使節


九州のキリシタン大名が

イエズス会の宣教師 バリニャーノの勧めにより

派遣したおよそ12~14歳の4人の少年使節です


4人は、伊東マンショ(主席正使)、千々石(ちぢわ)ミゲル(正使)

中浦ジュョリアン(副使)、原マルチノ(副使)



1582年2月に長崎を出航

マカオ・マラッカ・ゴアを経て、喜望峰(アフリカの先端)を回り


長崎を出て2年6か月後の

84年8月、ようやくポルトガルのリスボンに到着

〔マカオでは季節風を待つため10ヶ月ほど滞在を余儀なくされている〕


イタリア、スペイン、ポルトガルの諸都市を訪問


ポルトガル王をかねるスペイン王 フェリペ2世や

イタリアのトスカナ公国(フィレンツェ)のフランチェスコ1世

ローマ教皇 グレゴリウス13世、また次の教皇 シスト5世に謁見し

日本を出て8年後の90年に帰国しています



帰国後、彼らはイエズス会に入会し

千々石は、藩主のキリシタン追放の際に脱会し、棄教しています


他は司祭になりますが、伊東は病没

原は禁教令によりマカオに追放されています



中浦は、二十数年にわたって地下活動を続けましたが

1632年に小倉で捕縛され、長崎へ送られ


翌年、イエズス会司祭の外国人2人

ドミニコ会司祭の外国人1人とともに

穴吊るしの刑に処せら、4日目に殉教しています



なお、穴吊るしの刑では全身の血が頭にたまり

こめかみから数滴ずつ出血するため

すぐに死ねずに苦しみもがくという惨刑らしいですが

棄教の意思を示すことが容易に出来たといいます



このときイエズス会司祭の一人は棄教し、他の3人は殉教しています


最初に死んだのは中浦ジュリアンで、65歳あったといいます


殉教から374年後の2007年に

カトリックの「福者」(聖人に次ぐ地位)に列せられています






●  バリニャーノ (1539~1606)


ナポリ王国の貴族に生まれ

インド、マカオの布教に従事。79年に初来日


信長の晩年に3度来日(79年から98年にかけて3度)しました


イエズス会の日本巡察使で

セミナリオやコレジヨを設立したことで知られます



バリニャーノは、日本の若者を

キリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することで


キリスト教世界がいかに偉大であり壮麗であるかを悟らせ

帰国後、彼らから直接、同胞に語らせ

布教を進めようとしたとされます


同時に、ローマ教皇や、ヨーロッパの王侯貴族に、使節を送ることで

日本での布教の理解を深めさせ、援助を求めたといいます






●  セミナリオとコレジオ


セミナリオは、聖職者を志す少年たちの神学校で

バリニャーノにより、有馬(長崎)と安土(滋賀)に開設


安土の学校は本能寺の変で、京、大坂と移り有馬の学校と併合

1614年の禁教令まで存続し、九州各地を転じたとされます


3~4年の修学期間で、ラテン語、日本語、キリスト教の教義

音楽、美術工芸を学んだそうです


伊東マンショら天正遣欧使節は

80年の第一期生として有馬のセミナリオで学んでいます





コレジヨは、1580年に、バリニャーノにより豊後の府内(大分市)に

設立された布教と、聖職者育成のための神学校で

ヨーロッパ人修道士と


臼杵(大分県臼杵市)の

ノビシアド〔バリニャーノによって設立された修練院。修道生活2年〕

を終了した者が入学したそうです


哲学、神学、自然科学、ラテン語

日本語、日本文学、仏教などを学んだといいます



大友氏の没落と、秀吉のキリシタン弾圧により

島原半島(加津佐)、天草(熊本県)、長崎と転じ

1614年まで続いたようです


印刷所を持ち、辞書や物語などの刊行を行い

西洋文化の紹介に貢献しました



キリシタン版は、バリニャーノが

印刷機と技術者を携えて再来日したことにより刊行された版本で

「伊曾保物語」(イソップ物語)

「日葡辞書」〔にっぽじしょ・日本語を葡萄牙語(ポルトガル語)で説明〕

などがあります


〔なおキリシタン版は、出版された時期によって分類され

出版地の名を採って

「加津佐版」「天草版」「長崎版」などと呼ばれている〕







潜伏キリシタン



長崎県の外海、浦上、平戸、五島列島、生月島

熊本県の天草 などの信徒たちは

ごく小さな集落単位の秘密組織をつくり

表面的には仏教徒として生活し

内面的にキリスト教を信仰する

「潜伏キリシタン」(隠れキリシタン)として

キリスト教の信仰を守ったとされます



慈母観音像を、聖母マリアに見立てたり=「マリア観音」

「納戸神」を祀るなど

地域それぞれに独自の信仰の形式を発展させたようです


また儀礼は、地下に潜んで営まれたりしたといいます




●  納戸神


納戸とは、普段使用しない衣類や家具・

調度品などを収納するための空間をいいますが


「納戸神信仰」というのは

座敷に神棚や仏壇を備え

普通の家と変わりないように装いながら


家の奥の納戸に、キリシタン祭具を飾り

ひそかに信仰するという工夫だといいます


デウス(ヤーウェ)のやキリストやマリアの

聖像画を大和絵風に描いた掛け軸


あるいは、聖像、クルス(十字架)


ロザリオ〔カトリックでマリアへの祈りを唱える時に使う

数珠状のネックレスのような形をした道具

小さい十字架が付いている〕


メダイ〔マリアを彫刻したメダル

ロザリオに連結されていることも多い〕

などが納戸神として祀られそうです





また、キリシタン信仰では

オラショが生まれています


オラショは、ラテン語のオラシオ(祈祷文の意)に由来


一種の呪文で

天国や地獄の教えが口伝えに伝承されたものといいますが

日本語とポルトガル語が交ざって意味不明になっているそうです


生月島(いきつきしま)には、節をつけて唱える

歌オラショが伝わるそうです





幕末、黒船来航と前後して

日本は、多くの国から開国を迫られます


そして日仏修好条約が結ばれると

長崎の居留地にはフランス人が居住するようになり


1864年、長崎に大浦天主堂

(おおうらてんしゅどう・

正式名は日本二十六聖殉教者天守堂。国宝)

が建てられました



1865年3月、浦上(長崎市)の住民十数名が天主堂を訪れ

そのうちの40~50歳くらいのひとりの女性が

神父のプティジャン(パリ外国宣教会会員)に

「私どもは神父様と同じ心であります」と囁き

自分たちがカトリック教徒であることを告白したといいます



プティジャン神父は、彼らがマリア像を信仰していること

また彼らの神父が独身であることから

間違いなくカトリック教会であると確信し

隠れた信者の発見に努めたそうです


その結果、浦上だけでなく長崎周辺の各地に

秘密裏に信仰を守り続けてきた信徒集団が存在することを知り

この事実は、教皇ピオ9世のもとにもたらされました


教皇は感激して

禁教から250年以上後の

「信徒の発見」という事件を

「東洋の奇跡」と称したといいます




こうしてキリスト教信仰を表明した浦上の村民たちですが

1867年、仏式の葬儀を拒否したことで存在が明るみに出て

江戸幕府の命により、68人が一斉に捕縛されたそうです


翌年、江戸幕府は瓦解しますが

明治政府でもキリスト教の禁止が確認され


浦上の信徒たちを呼び出して説得しましたが

改宗の意思がないことから、信仰の中心者114名が

津和野、萩、福山に移されます


以降、1870年(明治3年)まで続々と

長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処され

水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問

箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど

旧幕時代以上の弾圧を受けたといいます



欧米各国では、新聞がこぞってこの弾圧を糾弾し

諸外国は明治政府へ

「信仰の自由がない国は野蛮なである」と抗議します



1873年(明治6)、明治政府は、ようやく

信教の自由がないのは、近代国家にふさわしくないと悟り

キリシタン教禁制を撤去し、信徒を釈放したとされます



この一連の弾圧を「浦上四番崩れ」といい

配流された者の数3394名で、うち662名が命を落としたといいます


1879年(明治12年)、各地に配流されていた信徒たちによって

浦上に小聖堂が建設されます


これが、浦上天主堂

〔昭和20年原爆投下によって破壊。昭和34年に再建〕

の起源です






なお、隠れキリシタンの信仰は

200年以上も、司祭などの指導を受けることがなかったこと

また日本では仏壇や神棚を拝むこと

などから

仏教や神道、先祖崇拝らど結びついて

純粋なカトリックから変化していました



このため

明治時代以降、キリスト教の信仰が解禁されても

カトリックに復帰せず

そうした独自の信仰様式を継承している人たちの集落が

現在も、長崎、生月、外海、五島列島

平戸などにそれぞれ数集落が残るといいます



明治初期には、福岡県の一部

熊本県天草などにも存在したとされます



これらの人たちを、現地では

「旧キリシタン」 「古(ふる)ギリシタン」 

「納戸神」「カクレキリシタン」

「かくれ」 「昔キリシタン」 「しのび宗」 「元帳」 「古帳」

などと呼びそうです



学術的にも「潜伏キリシタン」(カトリックに復帰した人たち)

とは区別されるようです








主の祈り



イエスが弟子たちに模範として教えた祈祷(きとう)です


新約聖書のマタイ伝福音書と、ルカ伝福音書に記されています

但し、マタイ伝の方が長く、表現も多少異なります


今日、実際に行われているのは以下の形です



天にまします我らの父よ

願わくは御名(みな)をあがめさせ給え

御国(みくに)を来たらせ給え

御心(みこころ)の天になるごとく

地にもなさせ給え

我らの日用(にちよう)の糧(かて)を

今日も与え給え

我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく

我らの罪をも赦し給え

我らを試(こころ)みに会わせず

悪より救いいだし給え

国と力と栄えとは

限りなく汝(なんじ)のものなればなり

アーメン



御心の天になるごとく地にもなさせ給え

とは

神の御心は、天で行われるように

この地においても行われるように

恩恵をお授けください、与えてくださいの意



「アーメン」(ヘブライ語)は

ユダヤ教やキリスト教で

祈りや賛美のあと、最後に唱える言葉で


「まことに確かにそうなりますように」の意味

≪そのとおりです≫と≪そうなります≫

の2つの意味を含む言葉だそうです



ちなみに「ハレルヤ」(ヘブライ語)は

「主をほめたたえよ」の意味です


古代ヘブライ人が、神ヤーウェを讃えた歌150編を集めた

旧約聖書の詩編にある言葉です


一種の歓呼とされていて、喜びや感謝を表す

言葉になっています








日本の東方正教会



日本の日本ハリストス正教会

(ハリストスはギリシア語でキリストの意)は

ロシア正教会(モスクワ総主教庁ともいう)の管轄の自治教会です



正教会の教えは、日本には江戸末期の1861年に

函館在駐のロシア領事館付き司祭として来日した

ニコライ・カサートキン(1836~1912)により伝えられています



このときは、禁教時代だった為、少数の日本人信徒を得ただけでした


ニコライは3年で帰国


71年(明治4)に再来日し

神田に、神学校や

ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)を建設しています



函館のハリストス正教会は

我が国最古の正教会の教会で


1859年にロシア領事が領事館内に

聖堂を建てたことにはじまるといいます



ニコライ堂、函館のハリストス正教会

ともに日本ハリストス正教会に所属で

建物は、どちらも国の重要文化財に指定されています






15世紀にギリシア正教会が

オスマントルコの支配をうけるようになると

正教会の中心は、ロシア正教会に移りました



しかし、1917年、共産革命によりソビエト政権が樹立すると

ロシア正教会は財産の没収

聖職者の投獄や処刑など10年にわたる弾圧をうけ


その後もソビエト崩壊まで活動が制限されて衰退します



ギリシアが1829年、オスマントルコから独立すると

ギリシア正教会は

コンスタンティノープル教会の管轄下に置かれ

1850年に独立教会として承認されています



現在、ギリシアは正教会の教えを国教とする唯一の国で

国民の95%が信徒です





日本ハリストス正教会は

ロシア革命によってロシア正教会との関係がとだえ

自立体制を余儀なくされましたが


第二次世界大戦後の1970年(昭和45)

ロシア正教会と和解し

以来、ロシア正教会の庇護の下、自治正教会として続いています



なお、ロシア正教会と和解のときに一部が分離し

こちらは、在米ロシア正教会と姉妹関係を結ばれ


ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウオリエ

(ポドウオリエは、独立正教会・自治正教会・修道院の出張所として機能し

大使館的な役割を与えられている正教会の教会組織)となり


現在は、主にロシア人信徒のために

儀礼の大半を、教会スラヴ語で行っているといいます




なお、イエス・キリストを

カトリックでは「イエズス・キリスト」

プロテスタント諸派では「イエス・キリスト」

日本の正教会では「イイスス・ハリストス」と表記しますが

一般的には「イエス・キリスト」が多く用いられています








拝上帝教



拝上帝教(はいじょうていきょう)は

ヤーウェの次男を主張した教祖によって誕生し

国家まで樹立した中国の一神教です


1843年に、洪秀全(こうしゅうぜん・1814~64)によって創始されました


洪は、上帝(ヤーウェ)の長男がイエスで

自分は次男であると主張したといいます


彼の教団は、中国の清王朝

〔1613年に満州族が建てた王朝。はじめ後金と称し

36年より清となった。44年、明に代わり天下統一

1912年に滅亡〕末期に


「清を打倒し、地上に天国を建設する」として

実際に「太平天国」という国家を樹立することに成功しています



洪秀全は、中農の家に生まれ

23歳のとき3度目の科挙(役人登用試験)に落ちて熱病にかかります


そのとき、夢に天使があらわれ、天上界につれられて

そこで金髪の老人から


「下界の人間を堕落させている妖魔を退治して、人々を救済しなさい」

という使命を与えられたといいます



洪は「金髪の老人とは、天父上帝(中国古来の最高神)であり

上帝はキリスト教の絶対神 ヤーウェである

妖魔とは儒教、仏教、道教などであり

この夢は神の啓示である」と唱えたそうです




キリスト教の一派のようですが?


上帝以外の神を認めず偶像崇拝が禁止されていたところは

キリスト教と一緒ですが

しだいに病気治しや除災などの現世利益的要素が加わり

キリスト教とは異質のものになっていったそうです



他にはどのような教えがあったの?


万人は上帝から命を与えられた上帝の子である

万人が兄弟姉妹として助け合う大同世界に生きるべきである


上帝から授かった禁欲的戒律を守れば

理想は実現されるなどと教えたようです




洪は、当初は革命を起こす気などなかったそうですが

拝上帝教は、中国南部の広西省(現在のチワン族自治区)

の山間農民に受け入れられ


この地でおきた神像や神棚などの偶像破壊運動

をきっかけに支配階級と対立


やがては清王朝を最大の妖魔とし

これを打倒し地上に天国を建設するという革命へと至ったといいます



洪は自らを天王と称すようになり

51年には、広西省を占領し、太平天国という国家を樹立します


さらに、東・西・南・北・翼の五王を定めるなどし

広西各地で清と戦ったそうです



しかし苦戦をしいられ、翌年には湖南南部に入ります


ここでまた貧農、鉱山労働者、失業流民などの支持を得て

数万の兵力となり


翌年には20~25万の大軍となって南京を占領し

ここを首都とし、天京(てんきん)と称しました



54年には、清の都である北京攻略を目指すも敗北


56年には、内部抗争が勃発

洪は、東王の権力を排除するため

北王を用いて東王とその部下2万を殺害

さらに北王を処刑


また翼王が20万人の信徒を率いて離脱

これにより教団は弱体化していきます

(なお、南王と西王は、南京占領までに戦死している)




また、地主階級の農民は、太平天国政府が主張する

天朝田畝(てんちょうでんぽ)制度に恐怖していたといいます



天朝田畝制度とは


土地の私有を認めず

全ての田を上々から下々に至る9等級に分かち

男女の別なく年齢に応じた広さの田を耕作す


25戸を一集団として国庫と礼拝堂をおき

一家に必要なものを除いて生産物は国庫に納め

飢饉にそなえたり

身よりのないものや身体の不自由なものに与える


といった土地均分による平等社会を目指したものですが

どこまで行われたかは不明の点が多いといいます




教団の弱体化を機に

政治家の曾国藩(そうこくはん)が

儒教と伝統的秩序を守ることをかかげ


故郷の湖南省に、儒者と地主を中心とした

義勇軍(正規軍の不足を補うために

志願により結成された軍隊)の

湘軍(しょうぐん)を結成


次いで、政治家の李鴻章(りこうしょう)が

故郷の安徽(あんき)省に、義勇軍の准軍(わいぐん)を組織


太平天国は58年までに

湖南、湖北、江西などの領土を清に奪還されてしまいます



さらに、それまで中立不干渉であった

イギリス、フランスが、清と条約を結びます

これにより、両国の干渉軍とも戦うことになりました



とくに、常勝軍〔イギリス将校ゴードンが率いた

外国人と中国人により組織された義勇軍〕

湘軍、准軍により追い詰められ


64年に湘軍が南京を占領し、太平天国は滅亡します



洪は、南京陥落の20日前に病死したといいます


彼は服毒自殺をすすめられたとき

宗教的信念によりこれを拒否したそうです




ちなみに、湘軍は南京占領後まもなく解散しましたが

准軍はその後、清の最強軍隊となります


しかし、清仏戦争(1884~85)

日清戦争(1894~95)に敗れ、崩壊しています





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