緋山酔恭「B級哲学仙境録」 神とはなにか? イスラム教編



B級哲学仙境論


神とはなにか?編


 




神とはなにか?

イスラム教編




イスラム教の根拠



イスラム教とは、7世紀初めに、

ムハンマドによって創始された比較的新しい宗教です


イスラム教の唯一神は アラーです



「旧約聖書」によると

アブラハム〔前18世紀頃の人という。アダムから20代目

ノアから10代目。ユダヤ民族とアラブ民族の祖〕は


85歳を超えても子供がなく妻のサラも高齢であったため

サラの女奴隷の若いエジプト人 ハガルとの間に

長子 イシュマエルをもうけました



99歳のアブラハムもとに、神の使者がやってきて

「サラを祝福して男子を与える」という啓示を伝えます



こうして、次男のイサクが生まれます

ときにアブラハム100歳、サラ90歳です




優秀なイシュマエルが成長するにつれ、サラの不安がつのります

ついにサラは、アブラハムに訴えて

イシュマエルとその母ハガルを荒野に放り出させます



このときアブラハムは神から

「全てサラが言うことに従いなさい

あなたの子孫はイサクによって伝えられる」


「心配しなくてよい。ハガルの息子からも偉大な民族が生まれよう

なぜならイシュマエルもあなたの子であるからだ」

との啓示(おつげ)を受けます




イスラム教の創始者 ムハンマドは

イシュマエルが神から祝福され

その子孫が偉大な民族になると約束されていることを根拠として

イスラム教を開いたわけです



つまり、イサクの子孫がユダヤ民族(イスラエル人)となり

イシュマエルの子孫がアラブ人となったというのが

ムハンマドの主張なのです



また、ユダヤ教やキリスト教の唯一神 ヤーウェと

イスラム教の唯一神の アラーとは、同じ神なのです


ユダヤ(イスラエル)とアラブは、毎日同じ神を祈りつつ

殺し合いをしているということなのです





イスラムってどういう意味?


服従です

唯一絶対・全知全能の神 アラーへ服従すること

絶対帰依することです




ちなみに、イスラム教を「回教」と言います


これは、中国に、西域の回紇族(ウイグル族)を

通じて伝わり(16世紀後半)

回回教(フイフイ教)と称したことに由来するといいます







アラー



アラーの名称は、シリア語で「神」を表す

アラーハーがなまったものという説や


アラブ語で「崇められる者」「神」を意味するイラーフに

定冠詞アルを付したアル・イラーフが短くなったもの

という説などがあります



このアラーは、イスラム教で ジャーヒリア〔無知の時代〕

と呼ばれる多神教の時代に

メッカのカーバ神殿に祀られていた最高神です



また、イスラム発祥当時

アラビアにいたユダヤ教徒やキリスト教徒は

聖書の神をアラーと呼んでいたといいます


そういったことから

ムハンマドは唯一神の名をアラーとしたようです



唯一絶対、全知全能、永遠にして

姿はなく、意思のみの存在だとされます




ちなみに

旧約聖書の「神の名をみだりに口にしていはいけない」

という戒めは

神に敬意を示すためと

不完全な人間が恐れ多いということからできたと考えられています



ユダヤ教を母体として生まれたキリスト教でも

子なるイエスに対して、父なる神の名はほとんど出てきません



これに対して、イスラム教では

毎日5回の礼拝〔メッカのカーバ神殿の方角に向かい

立つ、坐る、ひれ伏すの姿勢を次々にとり

「神は偉大なり」「アラーの他に神はない」

「人に平和を」を繰り返し唱える〕で

アラーの名を唱えることが、神を讃える行為とされています







イスラム教の平和観



イスラム教は、宗教共同体(ウンマ)を拡大し

世界を1つのイスラム帝国にするという理念で出発した宗教です


宗教の目的って世界平和だとか人類愛ですよね


ということは

世界を1つのイスラム帝国にするというのが

イスラム教の目指す究極の平和と言えます



なお、神の使者であるムハンマドの代理者であり

ウンマ(全イスラム教徒の宗教共同体)の宗教的指導者でもあり

イスラム帝国の政治的指導者でもあったのが

「カリフ」です 


〔カリフは、のちにイスラム帝国が分裂し

複数のカリフが並び立つ時代となり、実質的に消滅する〕





一般の人は宗教に無知なので

「イエスも釈迦もムハンマドも

人を殺してはいけないと教えていたはずだ

人類の平和を願っていたはずだ

後に弟子たちによって、宗派間の争いが起り

殺し合いまでするようになった」などと勝手なことを言っています



ところが事実はそうではありません


ムハンマド自身が3度の戦争をしているし

ユダヤ教の部族を虐殺もしています




それに、イスラム法(シャリーア)では

世界はイスラム法の支配する

ダール・アル=イスラーム(イスラムの家)と


異教徒の法の支配する

ダール・アル=ハルブル(戦いの家)に分かれ

ジハード(聖戦)の目的は、後者の征服にあるとされています





イスラム法によると

「ジンミー」は条件付きで生存が許されていす


ジンミーとは

ジンマ(イスラム教徒以外に対する生命と財産の保障)

を与えられた人たちを意味し

このジンミーは「啓典の民」に限られるとされています



「啓典の民」とは、啓典を信じる民族をします

啓典とは、神の啓示を記した聖典で

イスラム教ではふつうコーランをさしますが

ここでは旧約聖書のことです


つまり啓典の民とは

旧約聖書を信じるユダヤ教徒とキリスト教徒をいいます。



彼らがジンミーとして許される条件とは

イスラム教徒に政治的に服従すること

人頭税(納税能力に関係なく一律同額に課せられた租税)と

土地税を納めること

戦争へのに協力

イスラム教徒の旅人を3年間歓待すること

教会を新たに建築することの禁止

イスラム教徒の女性との結婚の禁止 などです



このように条件付きとはいえ

ユダヤ教徒とキリスト教徒は

ダール・アル=イスラーム(イスラムの家)

の住民として認められています




しかし、多神教徒や仏教徒のように

偶像崇拝をしている者の生存は認められていません

この世から抹殺してゆく対象なのです




こういうことを知らないで

我々の平和観で、世界の平和を語ったとしても

無意味ということがわかります






「キリスト教ほど人間を殺してきた宗教はない」

と言われていますが


キリスト教の場合、民主主義が成熟し

人権や尊厳といったものが確立してくると


「魔女狩り」「異端審問」「宗教弾圧」「宗教戦争」などによって

多くの人を殺してきた歴史を


≪それは聖書が間違えて解釈されたため≫

の一言で葬り去ることができます



これに対して、イスラム教は

ムハンマド自身が戦争をし虐殺をしている上

イスラム教のそもそもの目的が世界を

1つのイスラム帝国にすることなのだからそうはいきません


ここに気づかないとお話になりません








ムハンマドの生涯



ムハンマド(571?~632)は

メッカ〔サウジアラビアにあるイスラム教の聖地〕で

クライシュ族ハーシム家の商人の子として生まれます


クライシュ族は、5~7世紀前半にかけてメッカを支配した住民で

ムハンマドの11代前の先祖 クライシュの名に由来し


5代前の クサイイが、カーバ神殿の管理権を手にし

クライシュ族をメッカに定着させたそうです



クライシュ族の有力な氏族は12家に分かれていて

ムハンマドのハーシム家や


ムアーウイヤ1世(5人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ)

ウマイヤ家はその1つです



ムハンマドの青年期、ハーシム家は名門でしたが

政治的に抜きに出た権力は有していなかったとされます


またムハンマドが預言者として活動したことで

他のクライシュ族から迫害を受けています




父はムハンマドが生まれたときすでに没していて

6歳の頃に母とも死別し、さらに祖父も2年後に没したので

叔父に養育され成長します


成長後、叔父のシリアへの隊商

〔隊を組んで砂漠を往来する商人の集団〕の交易に従事します


25歳の頃、叔父の紹介で、裕福な女商人(未亡人)の

ハディーシャの仕事を手伝い、人柄が認められ、彼女と結婚します


3男4女をもうけますが、男子はみな夭折

今日まで子孫を残したのは末娘の ファーティマ1人だそうです



ムハンマドは生涯10人を超える(22人いたとも)妻を持ちましたが

その最初の妻がハディーシャで

ムハンマドとの結婚当時40歳を超えていたといいます


2人の夫と生別、死別し、何人かの子供がいる裕福な商人で

ムハンマドは貧しい青年でした


ムハンマドの教えを受け、最初のムスリム(イスラム教徒)となり

ムハンマドのよき理解者であったそうです


但し、ムハンマドに他に妻を持つことは許さなかったそうです




そのうち、ムハンマドは世俗的な生活に疑問をいだくようになります


当時の宗教修行者たちは、山での瞑想を行っていたので

彼もこれにならい、メッカ郊外のヒラー山(メッカの北東約5キロ。岩山)

の岩窟でしばしば瞑想にふけったそうです



610年、40歳の頃のある夜、ヒラー山の岩窟で瞑想していると

突然、大天使ジブリール(ガブリエル)が現れ

身体を締めつけてきて「読め」と命じます


ムハンマドは「読めない」と答えますが

そのたびに天使が覆いかぶさってきて

息苦しくなると放し、また「読め」と命じます


(ムハンマドは3度「読めない」と答えたそうてす)



これは、アラーがジブリールを介し

自分の啓示(おつげ)を「読め」と命じたもので

アラーからの最初の啓示です




ムハンマドは、何かに取り憑かれたのではないか

と飛んで帰り

ハディージャに抱かれて恐怖が鎮まると

洞窟でのできごとを彼女に話したそうです



ハディージャは、従兄弟で

ネストリウス派のキリスト教修道僧だった

ナウファル(盲目者)に相談したところ


ナウファルは

「過去にもこのような経験をした者がいます

アブラハム、ノア、モーセ、イエスなどの預言者は同じ経験をしています」


「こような体験をした者はみな周囲から敵視されました」

と告げたといいます




その後、預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは

ハディージャや、父方の従弟の アリー(第4代カリフ)

友人の アブー・バクル(初代カリフ)などに

神の啓示を聞かせていったといいます


これがイスラム教の始まりだとされます



ムハンマドは最初にお告げが下った日から

なんと死ぬまでの23年間、次々と神から啓示を受けたそうです


聖典「コーラン」はこれらの啓示を記したものとされています




ムハンマドは、多神教のメッカの人々に対し

「俗信である」とか「呪術的信仰に陥っている」と批判し

唯一神アラーに帰依し、最後の審判の日にそなえるよう警告して回り


若者たちを主体とした教団を確立するも

人々の嘲笑や反発を受け、やがて迫害を受けるようになります



615年には、メッカでの布教をあきらめ、また迫害から逃れるため

教団は一時、キリスト教徒の王の治める

アクスム王国(エチオピア北部と対岸のイエメン)へ逃れます



619年には、ハーシム一族の長として

ムハンマドを庇護してきた叔父と

妻のハディーシャが没し

ムハンマドの宣教も終わったかにみえたそうです



ところが翌年、カーバ神殿に巡礼に訪れた

ヤスリブ〔のちのメディナ(メッカに次ぐ聖地)。メッカの北340キロ〕

の人たちが

ムハンマドの説教を聴いて感銘を受け


ムハンマドを「部族争いの調停者として迎えたい」と

申し入れてきました



当時、メディナには

ユダヤ教を奉じる部族集団(クライザ族やカイヌカー族)と

部族集団に属さないユダヤ教徒

そして、多神教を奉じるアウス族とバズラジュ族という部族集団

が存在し


アウス族とバズラジュ族はいくつもの集団に分かれて

長年にわたり抗争を続けていたそうです




622年、ムハンマドと彼の信徒約70人は、メッカからメディナに移住します

この移住者70人と、メディナの支援者80人によって

はじめてウンマ(イスラム共同体)が成立したことになっています



ただ、ムハンマドは、調停が失敗に終われば

預言者(神のおつげを聞いて人々に伝える者)としての

地位が消滅するというあやうい立場にあったようです


メディナには、ユダヤ教徒をはじめ

彼の指導に批判的な者も多かったといいます




このような情勢のなか、624年、ムハンマドは

シリアからメッカへ帰る隊商を襲撃すべく300名を率いて出撃します


これを知ったメッカ側も軍隊を出撃させ

メッカとメディナの中間のバドルで衝突します


これが、バドルの戦いです



ムハンマドの軍は3倍以上の兵を相手にしましたが

「一神教と多神教の戦いである」との大義から

戦意は高く、圧倒的な勝利を得ます


あまりの圧勝に天使が味方についたとも言われた

といいます



この勝利により、ムハンマドと

ムスリム(イスラム教徒)の名声は高まり


ムスリムの信仰心は一層高揚し

ムハンマドはメディナでの政治的権力を強めます



その後、ウフドの戦い(625)では敗北するものの


ハンダクの戦い(627)では

戦力的に圧倒するメッカ軍のメディナ包囲を失敗に終わらせ


フダイビーヤの和議(628)によって

メッカの平和的征服の準備を整えていったといいます



さらに、ムハンマドは

カイヌカー族(ユダヤ教徒の部族集団)を追放し

周辺の遊牧民(ベドウィン)を切り従え

また周辺諸部族と同盟・外交を結ぶなどし

日増しに勢力を拡大していったそうです


一方、メッカのクライシュ族は

内紛などで弱体化していったと考えられています




630年には、条約違反をたてに、メッカの無血征服に成功します


カーバ神殿に祀られていた多数の偶像を破壊し、神殿を清め

アラーのみの館とし、メッカをイスラムの第1の聖地と定めます



なお、メッカ征服以前は、対等な相互安全保障の関係として

結ばれていたムハンマドとアラブ諸部族との同盟が


征服後には、ムハンマドが

諸部族にイスラム教への改宗と

サダカ〔ムスリムの義務としての喜捨(ザカート)に対して

自発的な喜捨〕を要求し


代わりに安全保障を与えるものへと変化したといいます



ムハンマドが没した頃には

ウンマ(イスラム共同体)がアラビア全土に拡大していたそうです







●   天 使


神と人間の仲介者

イスラム教では、ジブリール(キリスト教のガブリエルにあたる)

ミカール(キリスト教のミカエルにあたる)

イズラーイール(閻魔大王のような役割をする天使)

イスラーフィール〔音楽を司る天使で、最後の審判を知らせるラッパを吹く

それまでは地獄の見守り役をしているという〕を四大天使とし

他にも多くの天使がみられる


ムハンマドはジブリールを通じて神の啓示を受けている

ジブリールは、23年の間たびたびムハンマドのもとを訪れ

神の啓示を授けている


また、624年のバドルの戦では

ムハンマド率いるイスラム教徒軍とともに戦い勝利に導いたとされる







コーラン



ムハンマドは40歳のときに

唯一神アラーから最初の啓示を受け

以後 死ぬまでの23年間にわたって啓示を受けています


「コーラン」〔原音どおり表記すれば

アル=クルアーン。読まれるものの意〕は

これらの啓示を記したものです



「コーラン」は、あくまで神の言葉であり

決してムハンマドによって創造されたものでない

とされています



内容は、アラーについて、神の天地創造

人間の誕生、サタンの誘惑

ノアの洪水、その他のイスラエルの歴史伝説

イエス・キリストの働き、聖母マリアの価値

世界の終末、最後の審判 ・・・・・


つまり当時アラビアで盛んであった

ユダヤ教とキリスト教の思想全てが取り入れられています



さらに、アラーから受けた教え、戒律、祭儀に関する規定

六信五行(6つの信仰対象と、5つの義務)などが記されているそうです




それから、コーランは、神の言葉そのものなので

アラビア語からほかの言葉に移すこと=翻訳すること

は出来ないとされています


実際には、布教やアラビア語を母語としないムスリムのため

翻訳され出版されていますが

これはあくまで注釈書と位置付けられているようです




また、ムハンマド自身は文盲であったため

彼によって啓示が文字にされることはなく

当初啓示は、ムハンマドや信徒の口承により伝えらていたそうです



ムハンマドが死に、ムハンマドより直接啓示を記憶した教友たちも

老いて死に絶えはじめたので

啓示が書物の形にまとめられたといいます




しかし、イスラム共同体全体としての

統一した文字化ではなかったので


伝承の過程で内容が変更されたりするなどして

内容に違い生じ、混乱が生じたといいます



そこで、第3代正統カリフのウスマーンのときに

正典化がはかられ、それ以外のコーランは焼却されたそうです


このため、このウスマーン版以外のコーランは存在せず

コーランに偽典や外典のはないとされています



また、新約聖書のように棒読みするものではなく

朗唱〔節をつけ、歌うように朗読する〕するもの

とされているのも特徴です




なお、イスラム教では

宗教音楽は官能的快楽をもたらすものとして認めていません


但し、スーフィズム(イスラム神秘主義)では

音楽と舞踏を認めエクスタシーに達する儀式を発展させたといいます




また、イスラム美術では、偶像が禁止されているため

画や彫刻は発達せず

モスクの壁面装飾に見られる「アラベスク」と呼ばれる幾何学的な図案と

もっぱらコーランを美しい書体で書き表すことが発達したとされます








イスラム法 (シャリーア)



イスラム法(シャリーア)とは?


イスラム法には、シャリーア法典というような

法律を集大成したものはありません


第1の法源は、神の言葉であるコーランです



第2は、ハディースなどに伝承されている

ムハンマドのスンナ(言行)です



【 ハディース・・・・

イスラム伝承。コーランに次ぐ聖典

ムハンマドと同時代に生きた教友たち(サハーバ)により

語り伝えられてきたムハンマドの言行をまとめたもの

9世紀末頃までには膨大な伝承が集められ

たくさんの伝承集(ハディース)が作られたが

スンニ(スンナ)派ではとくに6つの伝承集にのみ権威を認めている 】




さらに第3として、共同体の合意であるイジュマーがあります


共同体の合意とは具体的には

過去のイスラム法学者(ウラマー)たちの間での大方の合意です



第4として、キヤース(類推)とされています



つまり、まずはコーランをたよりとし

コーランに規定がないまたはっきりしないときには

ハディースが伝える範例(スンナ)をよりどころとし

ハディースにもないときはイジュマーをたよりとする


イジュマーにも答えとする規範がない場合には

キヤースによりなさいということです


キヤースは、コーランやスンナのなかに

当面の事件と類似する事件をさがし出し

そこに示されている判断をもとに推し量ることです



なお、以上のようにイスラム法として体系化されたのは

9~10世紀の法学者たちによるとされます





但し、トルコやアルバニアなど政教分離が確立した国では

シャーリアは廃止されていますし

レバノンやシリアなどでは、家族法などの一部に残るだけだといいます



一方、サウジアラビア、イラン、アフガニスタンなどは

シャーリアそのもの、あるいは、シャリーアの影響下にある

世俗法・憲法によって統治がなされてるそうです



サウジアラビアでは「コーランおよびスンナが憲法である」

と明文化されているといいます


また、エジプトのようにある程度世俗化が進んでいるものの

シャリーアを憲法で主要法源と定めている国家も多いといいます



つまり、イスラム教国といっても

現在では国によって、シャーリアの権威に

大きな違いがあるということです








四人妻



イスラム教では結婚は、神の命令であるとしているそうです

結婚しない者は同朋ではないとされるといいます



それからイスラム教では「4人妻」を認めています


これは、コーランに

「もしお前たちが孤児を公平に扱うことが難しいというなら

孤児の母のうち気に入った女を2人なり3人なり

あるいは4人なりめとりなさい

もし妻を公平に扱えないのなら、1人だけ

あるいは妻の他は奴隷の女で我慢しておきなさい」

という神の言葉に基づくそうです



イスラム教国は、武力によって布教をすすめていく

政策がとられたことから

多数の未亡人と孤児が生まれ

そこでコーランにはこんな話がみられるわけです



さらに4人を超えて妻を持っても罰せられることはなく

ムハンマド自身、正妻だけでも少なくとも14人はいたようで

多数の妻をもっていたそうです



ただ後の時代になると、現実に複数の妻をもつ者は限られ

もつ場合でも一部の例外を除き2人までであったようです




女性の権利はどうなの?


男性が啓典の民であるユダヤ教徒やキリスト教徒となら

結婚できるのに対して

女性はムスリムの男性以外との結婚は認められていません



またイスラム世界では、女性は基本的に

手や顔以外の部分を布で覆って隠さなければならなりません


これは、体の線などを夫以外の男性に見せてはいけない

夫以外の男性に魅力的であってはいけないと教えるからです








信 仰



イスラム教では


毎日5回の礼拝

〔メッカのカーバ神殿の方角に向かい、立つ、坐る

ひれ伏すの姿勢を次々にとり

「神は偉大なり」(アッラーフ・アクバル)

「アラーの他に神はない」 「人に平和を」を繰り返し唱える〕



信仰告白

〔「アラー他に神はなく、ムハンマドはアラーの使徒である」

という言葉を繰り返し唱えること〕



この2つに

断食、巡礼、喜捨(きしゃ・布施のこと)を加えて

「五柱」(五行)といい

イスラム教徒の義務としています



但し、巡礼は、実行出来る体力や財力がある場合に限り

行えばよいとされています





●  断食 (サウム)


ムハンマドが最初に啓示をうけた

イスラム暦第9月(ラマダーン月)の1ヶ月間

日の出から日没までの間、飲食を断って身を慎む


つばを飲み込むことも許されず

喫煙、性交、射精も禁じられている


なお、子供、病人、妊婦、授乳中の婦人

戦場の戦士は除かれているが

子供、病人、身体虚弱者以外の者は、後日、うめあわせをする


この断食によって、イスラム教徒の連帯意識が高まるとされる

また、断食のときの祈りは、必ず神が聞き入れてくれるという



27日の夜が、ムハンマドに初めて啓示が下った

「ライラ・アルカドル」(力の夜)


ラマダーン終了を祝う第10月の1~3日までの

3日間祝日を「イド・アル=フィトル」といい

日本の正月のようなときである





なお、ムハンマドが、イスラム教を創祀した当初は

エルサレム拝礼や、断食といったユダヤ教の教え

を実行していたことから


はじめはユダヤ教の一派を形成しようと考えていた

のではないかという説もあります


イスラム教徒は、1日に5回、カーバ神殿の方角に向かって

拝礼を行ないますが

このときのカーバの方角を「キブラ」といいます


実はキブラは、最初エルサレムの方向へ定められていて

624年に、カーバの方向へ変更されているそうです




古代のユダヤ人は「贖罪(しょくざい)の日」

〔ユダヤ暦のティシュレ月 (かつての春年では第7月。現在の秋年では1月

西暦の9月末か10月半ばにあたる)の9日〕に


牛、山羊、羊といった動物に、人間の罪を背負わせて

犠牲にする贖罪の儀式を行っていました


ローマ帝国との戦いに敗れ、神殿を失ってからは

断食によって神の赦しを祈る「贖罪の祈り」に変わり

現在までこの「贖罪の日」を継承しています


この日は、労働はもちろん、飲食、入浴、化粧なども禁じられいて


敬虔なユダヤ教徒は

唾液も飲み込むことなく吐き出しているといいます



この「贖罪の日」の断食が、ラマダンとして

イスラム教に取り込まれたと考えられるわけです






また、「五柱」に

六信 〔 第1に唯一神アラー。第2に天使の存在

第3に啓典コーラン。第四に預言者ムハンマド

第5に世界の終末と新たな世界のはじまること

第6に神の予定(神の定めた運命。とくに最後の審判)

の6つを信じること 〕

をあわせて「六信五行」とし

信仰の根本としています







巡 礼



メッカ巡礼には

イスラム暦の第12月(ズール・ヒッジャ)8~10日を中心に

全世界から信徒が集まる大巡礼(ハッジ)と


それ以外の期間いつでも自由に行なうことができる

小巡礼(ウムラ)があります



世界の信徒は、ハッジを一生の願いとし

かつては一族を率い職業を営みつつ

何年また何十年とかけて

メッカ巡礼を成し遂げる者もいたといいます



また、体力と資金力があるものは

一生に一度はなすべき義務とされていて


ハッジには国外から100万人

サウジアラビア国内からの巡礼者を合わせると

約200万人が訪れるそうです





大巡礼(ハッジ)では

まず「タワーフ」と「サーイ」を行ないます


タワーフは、カーバ神殿の周りを急ぎ足で4回

続いて3回ゆったりとしたペースで

反時計回りに回ることだそうです



カーバ神殿  ウィキペディアより



カーバ神殿で祈るムスリム  転写




サーイは、メッカの中心近くにある

サファーとマルワのという2つの丘

(ともにモスクの中にある)の間を

駆け足で7往復することだといいます



ウィキペディアより



サファの丘  ウィキペディアより



≪ 母のハガルと息子のイシュマエルは、アブラハムに

わずかな水と食料を与えられただけで荒野(砂漠)に放り出され

やがて母子は耐え難い喉の乾きにさいなまれる


ハガルは苦しむ息子のために

サファとマルワの丘を登りおりして水を探し求めた


イシュマエルも自分のかかとで砂を掘った

母が戻ったとき、イシュマエルの足元から水が湧き出した ≫


この神話は、神によって

彼らに「ザムザムの泉」〔アル=ハラーム・モスクの中庭に存在〕

が送られたことを意味しますが


サーイは、ハガルが、イシュマエルために

サファとマルワの丘を登りおりたことを追体験するものだといいます



なお、いつでも行なうことのできる小巡礼(ウムラ)は

このタワーフとサーイで終わるらしいです



ザムザムの泉   転写


電動式のポンプで汲み上げられ

アル=ハラーム・モスク(カーバ神殿のあるモスク)

の噴水に利用されるほか


巡礼者の代表的な土産物になっていて

メッカ周辺には、ザムザムの水を売る店が多数あるそうです



メッカは古くからこの泉を中心とする

オアシスであり交易地であったといいます




9日から10日は決められた方式に従って巡礼を行なうといいます


9日は、夜明けとともに徒歩や車で出発

メッカから21キロ離れたアラファト山(高さ約70メートル)を目指し

この山で日没まで過ごすそうです


この山では、宗教的儀式や祈りは要求されていないそうです


但し、多くの巡礼者が祈り、神との対話

自らの人生について思索する時間に費やすそうです



アラファト山   転写




10日は、メッカ近くのミナという町(谷)で

ジャマラートの投石という儀式を行うとされます


7つの小石を、悪魔を象徴する

3本の石柱(ジャムラ・ジャムラの複数形がジャマラート)

に向かって投げます


悪魔を追い払う儀式だといいます



この儀式は

一度に100万人以上の巡礼者が集中するので

大巡礼の中で最も危険でたびたび事故が発生し

2006年には将棋倒しになった362人が死亡しています


そのためなのか以下の写真のように

ジャムラは、様々形を変えてきています



1953年当時のジャムラー  ウィキペディアより



転 写



転 写



転 写




このあと

動物(羊、山羊、ラクダなどを)を犠牲にして

神に生贄としてささげるそうですが


今日では多くの巡礼者が、巡礼の前にメッカで

サウジアラビアの当局から

「犠牲になった証明書」を買い求めるそうです



当局は、これらのお金で肉を購入し

貧者への施しを行うことになっているといいます




ジャマラートの投石と、犠牲祭は

以下の神話がもとになっているようです


≪ 神は、アブラハムに最後の試練を与えるため、彼の息子

イシュマエルを生け贄にささげるよう命じる


人々は、神のこの命令を無視するよう言う


しかし、アブラハムは、それ(悪魔の誘惑)をしりぞけ

イシュマエルを犠牲にする


最後の瞬間、神はアブラハムを止める

アブラハムは、息子の変わりに雄の小羊をささげた ≫



この神話は、旧約聖書の創世記に

「イシュマエル」でなく「イサク」の話としてあります


イスラム教徒は聖書の「イサク」という息子の名前は

改ざんされたものであると主張します



この犠牲は、犯した罪を贖(あがな)うとか

神の怒りを静めるといった意味ではなく


自分の命さえもアッラーにささげる用意のあることを表現するもので

アラーへの帰依を意味するといいます




またこの日、2度目のカーバ神殿の周回(神殿を7度回る)を行います


これを終え、巡礼者は、イフラーム(巡礼服)を着替えること

また髭を剃ったり髪や爪を切ることが許され

これでほぼ大巡礼は終了となりますが


少なくとも2日はミナに残らなくてはならないことになっていて

2、3日ミナで、アラーへの祈りをささげ

さらに悪魔追放のための投石を行ない

13日頃に大巡礼を完全に終えるようです




このあとほとんどの巡礼者がメディナへ

一部がエルサレムへ巡礼に向かうといいます



エルサレムはイスラム教徒にとっては第3の聖地です

アラブ民族の起源となったアブラハムとイシュマエルの故郷です




メディナは第2の聖地です

ムハンマドの墓廟をもつ「預言者のモスク」があります


預言者のモスク  ウィキペディアより



預言者のモスク   転写





イスラム教徒にとって

メッカの「アル=ハラーム(聖)・モスク」

(マスジド・ハラーム。カーバ聖殿を取り囲み

包含する形で成立しているモスク)に次いで重要なモスクです



マスジド・ハラーム  転写



マスジド・ハラーム  転写

マジストは礼拝堂(モスク)

ハラームは聖地を意味する




ムハンマドは

俗信や呪術的信仰におちいっていたメッカの人々

また豪奢な生活をする富豪たち

を批判したことで迫害され


信徒とともに622年の7/16日に

メディナに移住(ヒジュラ・遷座)しています


「イスラム暦」(ヒジュラ暦)は

この日を起源とする純粋な太陰暦です



それから、第4代カリフ アリーが首都を

イラクのクーファに移すまで

メディナは、イスラム共同体・イスラム帝国の首都でもありました







ジャーヒリアとカーバ神殿



イスラム教が成立する以前の1世紀余りを

ジャーヒリア(無知の時代・無明時代)といいます


部族同士が闘争した時代です

また多神教の時代でもあります


この時代の信仰は

シャーマンが神がかりしておつげを伝えたり


ジンと呼ばれる精霊が

人間に害をなすとして恐れられたりしていて


太陽崇拝をはじめとする天体に対しての崇拝も

さかんだったといいます




●  ジン


アラブ世界の精霊や魔人など

イスラム以前から、俗信としてアラブ人に信じられてきた


イスラム教でも、ジンの存在を完全には無視できなかったようで

コーランでその存在が認められている


コーランによると、人間と天使の中間を占める存在で

アラーが土からアダムを作る2千年も前に

煙の出ない火から、またサハラ砂漠を越えて吹く熱風

から創造したとある



また、アラブ世界では

ジンも人間と同じく、ムスリム(善人)と非ムスリム(悪人)がいて

救いを受けるものと地獄に落ちるものがいる


人間は、善きジンに取り憑かれると聖者に

悪しきジンに取り憑かれると狂人となる


悪しきジンにも悪戯好きから命を奪うものまでいる

などと考えられていたようである



なお「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)に登場する

魔法のランプのジンは有名





● アルフ・ライラ・ワ・ライラ


「千夜一夜物語」

通称「アラビアンナイト」

アラビア語の説話集


妻の不貞を見て女性不信となった王は

若い女性と一夜を過ごしては、彼女たちを殺していた


これを止めさせる為、大臣の娘シャハラザードは

自ら王の元に嫁ぎ、千夜に亘り、毎夜、王に物語を聞かせる


話が佳境に入ると「続きはまた明日」と

シャハラザードが物語を打ち切るので

次の話が聞きたい王は、別の女性に伽(とぎ)をさせることなく

それが千夜続き、最後には改心した


という語を主軸に

73の物語が語られている



このうち「アラジンと魔法のランプ」

「アリババと40人の盗賊」

「船乗りシンドバード(シンドバッド)の物語」はよく知られている



ササン朝ペルシア(266~651)時代に

中世ペルシア語で書かれた

「ハザール・アフサーナ」(千物語)が起源とされ


アラビア語に翻訳されたのは

イスラム帝国のアッバース朝(750~1258)時代という


その後、いくつかの発展段階を経て19世紀に

現在の1001夜分を含む形となったとされる



「アラジンと魔法のランプ」と

「アリババと40人の盗賊」は

本来は別系統の物語であったとする説が有力






また、各部族はそれぞれ崇拝する神々を持っていて

神々は自然石、刻んだ石、樹などで象徴されていたといいます


とくに神々の多くが石によって象徴されていたようです



カーバ神殿には「聖なる黒石」と呼ばれる石が置かれていて

その周りには多数の偶像を祀っていたといいます


ムハンマドは神殿の偶像を破壊しましたが、唯一この黒石だけを残し

この石は現在、カーバ神殿東隅の壁に

銀の枠で囲まれる形で埋め込まれています


黒石の直径はおよそ30センチだといいます

隕石であるという説と、黒曜石という説とがあるようです



黒石   転写



巡礼者は、ムハンマドにならい

カーバ神殿を7周しますが

〔急ぎ足で4度、続いてゆっくりとしたペースで3度

反時計回りに回る〕

できれば、そのたびごと(計7度)

この石に接吻、あるいは手で触れることが望ましい

とされています


巡礼には大群衆が訪れるので

接吻するのが不可能の場合

黒石の方角を指差すだけでいいことになっているそうです



イスラム教では偶像崇拝を禁じるため

巡礼者は、ムハンマドを信じる精神で

石に敬意を払うために接吻するのであり

石そのものを信仰するのではないとしています



イスラム教の伝承によると

黒石は、アダムとイブに

神に供物をささげる祭壇をどこに築くか示すため

天から降ってきたものとされます



石は大洪水のため一時忘れられましたが

天使のジブリールが

アブラハムにその在りかを伝え

その子 イシュマエル(アラブ民族の祖)が、石を祀る神殿を築いた

これがカーバ神殿だとされます




カーバ神殿ってどんなものなの?


立方体(カーバとは立方体の意味)の石造りの建物です


アル=ハラーム・モスク(マスジド・ハラーム)に囲まれています


モスク全体は、六角形で、中の広場に、カーバ神殿と

ザムザムの泉があるそうです



カーバの大きさは、幅10m・奥行き12m・高さ15m

大理石の基盤の上に建つモルタル(砂とセメントと水)造りだそうでます


黒い布〔キスワ・金色の糸でコーランの言葉が刺繍されている

毎年一度交換される。巡礼の期間だけ下部を巻き上げる〕で

すっぽりと覆われ、内部は空洞だといいます




ムハンマドの青年期は、 カーバ神殿の壁は

泥で出来ていて人の背丈ほどで、天井もなかったそうです


その後、クライシュ族の全てが協力して神殿を再建したといいます


カーバはクライシュ族だけでなく、周辺全域の信仰を集め

神聖月には、戦いを中断して巡礼がなされていたといいます



また、360もの神々が祭祀されていたとされ

その主神が、アラーだったわけです


マナート(運命の女神)  アッラート(月と母性の女神)

アル・ウッザー(美と愛の女神)の3女神が

アラーの娘として特に崇拝されていたといいます





それから、現在でもメッカとメディナは

イスラーム教徒でなければ入れません


だからカーバ神殿を実際に見るには

イスラム教に入信する必要があるのです



「アル=ハラム・モスク占拠事件」のときに

要請を受け、作戦計画の指導にあたった

フランス国家憲兵隊治安介入部隊の隊員は

このときだけイスラム教に改宗したそうです

〔このことは当時極秘とされた〕




●  アル=ハラム・モスク占拠事件


1979年に、マフディ(救世主)を自称する教祖に率いられた

過激派武装集団によってモスクが占拠された事件


11/20に占拠され、1000人もの巡礼者が人質となった

鎮圧には、陸軍、国家警備隊、治安警察あわせて5万人が動員

装甲車、ヘリコプター、戦車も用意


24日には地上部を制圧したが

モスクの地下には200を越す部屋があるので

パキスタンとフランスに応援を要請


一部屋一部屋徐々に制圧していき12/4に完全制圧が発表

武装集団の死者は75人、逮捕者は170人

鎮圧側の死者は60人、負傷200人






ムハンマドは、メッカを制圧したとき

「異教徒時代は終わりを告げた」


「異教徒時代の一切の血の負目も貸借関係も

その他諸般の権利義務も今や全く精算された


同様に一切の階級的特権も消滅した

地位と血筋を誇ることはもはや何人にも許されない


諸君は全てアダムの子孫として平等であり

もし諸君の中に優劣の差があるとすれば

それは神への信仰の深さによってのみ決まる」

と高らかに宣言したそうです



イスラム教では、全て人間は神によって創造された

アダムとイブの子孫であるという立場から

同胞主義(同胞とは同じ腹から生まれた者の意)を唱え

階級や人種差別を認めません







シーア派



ムハンマドは

「モーゼやキリストも預言者の一人ではあるが

彼らは神の言葉を誤って解釈した

このため慈悲深い神が

最終的な啓示(おつげ)を自分に与えた」

と主張し


自らを"最後の預言者"と位置づけています



ムハンマドの死後、コーランの教えに従い

協議によって初代カリフが選出されます



カリフの原義は「代理人」であり

神の使者であるムハンマドの代理者とされ

ウンマ(全イスラム教徒の宗教共同体)の宗教的指導者でもあり

イスラム帝国の政治的指導者でもあります




第3代カリフのウスマーンは、一族を重用した政治を行い

654年にエジプトのアリー派によって暗殺されました


ウスマーンが死ぬと、ムハンマドの従弟であり娘婿のアリーが

血縁の重要性を主張し、第4代カリフにおさまります


アリー支持者は、協議制によってカリフを選ぶことを否定

アリーこそが初代カリフであると主張します



657年 アリーは、ウスマーンの復讐をかかげる

ムアーウィヤ1世〔大商人ウマイヤ家の統領で

シリア総督としてダマスクスを治めていた〕と

イラクのシッフィーンで戦います



戦いは決着がつかず、アリーは

ムアーウィヤ側からの調停を受け入れましたが


これに反対し離反した者たちが

カリフ軍から離脱し、ハワーリジュ派を形成します





● ハワーリジュ派


ハワーリジュは離反した者たちの意

イスラム教で最初の政治的、宗教的分派

道徳的に欠点がなくカリフとしての能力を有すれば

血脈や身分に関係なく誰でもカリフになれると主張

たとえ奴隷であっても、黒人であっても

全てのイスラム教徒がカリフになる資格を持つとする




658年、アリーはハワーリジュ派討伐を行い

400~500人を除いて壊滅させたといいます


このようなことからアリーは

661年にハワーリジュ派の一員によって暗殺(毒殺)されます




一方、ムアーウィヤ1世は、 660年にエルサレムでカリフを宣言し

翌年、アリーが死ぬとダマスクス(シリアの首都)に

ウマイヤ朝(611~750)を開いています




こうしてアリーを初代カリフとする少数派のシーア派

(シーアとは党派の意味で、アリーを支持する党派のこと)と


ウマイヤ族が擁立したムアーウィヤ1世を

カリフの継承者と認めるスンニ派(全イスラム教徒の9割)

に分裂したのです




結局、ムアーウィヤ1世もカリフを世襲制とし

息子にカリフを継承させますが、これによって

スンニ派とシーア派の対立は取り返しのつかないものとなったそうです



ちなみにムアーウィヤ1世が建設したウマイヤ朝は

西はイベリア半島、東はインダス川流域を征服して

大帝国となっていきます






シーア派は

ムハンマドの従弟で4代カリフのアリーとその子孫だけが

イスラム共同体の指導者としてふさわしい

資格をもつ者(イマーム)と考える宗派ですが

アリーの子孫のうち誰をイマームとするかによって分派しています



シーア派最大の宗派が「十二イマーム派」です


アリーからムハンマド・アルムンタザルに至る12人を

イマームとしてを認めていることからの名称です



また、最後12代目のムハンマド・アルムンタザルが

874年に人々から姿を隠して(彼は死んだのではないという)以来


この隠れイマームであるムハンマド・アルムンタザルが

世界の終末に、マフディー(救世主)として再臨し

最後の審判により正義と公正を実現するというメシア思想を信じます



また、マフディーが再臨するまでの期間は、国の指導権は

最も優れた法学者にゆだねるべきであるというのが

十二イマーム派の伝統的政治理論だそうです



この十二イマーム派は、サファビー朝(1501~1736)以来

イランの国教になっています




イランでは1979年

ホメイニ(1900~89)らによるイスラム革命が起こり

パーレビ朝が崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立します


このとき、本来「マフディーの隠れ期間は

公正な法学者が君主を後見、監督する」という

十二イマーム派の理念を


ホメイニは「マフディーの隠れ期間は

公正な法学者が統治する」に置き換え

自らが政治と宗教の最高指導者(元首)に就任したといいます






十二イマーム派から、いくつかの分派ができましたが

「イスマーイール派」は、その1つです




6代目イマームのジャーファル=サーディクは

長子 イスマイール(?~760)を後継に指名しますが

イスマイールが飲酒などイスラムの戒律にそむいたため

指名を取り消し

代わりに女奴隷との間に設けた弟を7代目に指名します



イスマーイールは父の存命中に没しましたが

一部の者が指名の取り消しを認めず

6代目ジャーファルは、息子イスマーイールを迫害から守るため

一時的に隠しているに過ぎず


イスマーイールは実は生きているのだとして

イスマーイールを第7代イマームに推し

さらにイスマーイールこそ最後のイマームであると主張します




結局、十二イマーム派から決別し

イスマイール派=七(しち)イマーム派が成立しています




さらにその後

イスマーイール派の多くは

イスマイールの息子 ムハンマド・イブン・イスマーイールを

マフディー(救世主)と崇めるようになります



エジプトを支配したファーティマ朝 (909~1171)の

初代カリフは、ムハンマド・イブン・イスマーイール

の子孫を称しました



イスマーイール派は

シーア派の中でも最も過激な一派として知られ

ファーティマ朝の他にも、各地に独立政権をつくったといいます


現在は、インド、パキスタンに多いといいます





イスマーイール派からはさらに

暗殺教団として有名なニザール派や

アラウィー派やドゥルーズ派などといった

変わった教義の宗派が誕生しています





● ニザール派


ヨーロッパでは アサシン派

〔イスラム教徒の蔑称であった

ルシーシー(大麻野郎の意)から〕と呼ばれた


イスマーイール派第18代

イマーム=ファーティマ朝第8代カリフの没し(1095)

カリフ=イマーム座を巡って二派に分裂


当初は兄ニザールが継承することとなっていたが

全権を握る宰相は、妹婿をイマームとした

ニザールはこれに反乱を起こした


このときニザールを支持した人びとが

後代にニザール派と呼ばれる


なお反乱自体は早期に鎮圧され

ニザールもカイロに幽閉された後、没したという




二ザール派は、イラン北部 エルブース山脈

(最高峰はダマバンド山5671m)の中の

アラムートに拠点を置き

一時は、イラン各地やシリアに勢力を拡げ


イランを支配していたスンニ派のセルジョーク朝と抗争

セルジョーク朝の宰相を暗殺している


敵対する宗派に対しては暗殺という手段をとることで

十字軍に暗殺者教団として恐れられ

ヨーロッパではアサシンの語が暗殺者を意味する言葉となった


1256年に、モンゴルの

フラグ・ハン(チンギス・ハンの孫)の総攻撃をうけ

アラムートが攻略され、政治活動は消滅している


現在は、少数派としてインド、パキスタン、シリア、イランなどに存続







● アラウィー派


アラウィーはアラビア語で「アリーに従う者」を意味

「アラウィー派」は20世紀になってからで

それ以前は創始者ヌサイルにちなんでヌサイリー派と呼ばれていた


イスマーイール派に、キリスト教や

シリア地方の土着宗教の要素が加わったものと考えらている



男性による神秘主義的教団。教義は秘伝。女性に魂はないと説く

奥義を体得・体現したサーミト(沈黙者)を

ナーティク(預言者)をしのぐ地位に置く

これにより、アリーをムハンマドより上位に置く



また、アラーが人間の姿をとることは正統派では認められないが

この派では、アリーは、神アラーが地上に現れた最後の姿であるとし

アリーがムハンマドをしのいで神格化されている



また、神の本質(アリー)、名(宣教師であるムハンマド)

門(解釈者であるサルマーン)の三位一体説を唱え

それぞれを月・太陽・天空になぞらえて信仰するという



【 サルマーンは、ムハンマドの教友(サハーバ)の一人で

土木技術者。ペルシア人

627年のハンダクの戦い(塹壕の戦い)において

サルマーンの提案で、塹壕を掘って防衛に成功

これが戦史上で世界最初の塹壕戦とされる

サルマーンはムハンマドから身内扱いされていたようで

正統カリフ時代にはアリーを推していた 】




善行を積めば人間に

罪を犯した者は犬や豚

〔ともにイスラム教では不浄とされる動物〕

に生まれるといった輪廻を説く


シリア(人口の10%強)、トルコ南東部、レバノン北部に少数派として存在







● ドゥルーズ派



11世紀前半に教師ドラジーが

創唱した教理(ドゥルーズ)を信仰する


エジプトを支配したファーティマ朝の

6代カリフ ハーキム(在位996~1021)は死んだのではなく

冥界にお隠れ(ガイバ)したであり


「復活の日」に

ハーキムが救世主(マフディー)として再臨すると信じる


イスマイール派より、エジプトを追われ、シリアで教団を形成



なお、ハーキムは、奇怪な王として知られる


イスラム教の教えを厳格に適用し、飲酒と歌舞音曲を禁止


ワインをナイル川に流し、ブドウ園を破壊


この他、舟遊びや公衆浴場の禁止


スンニ派が信奉するカリフたちがモロヘイヤを好んだと聞き

その食用を禁止するなどしている


多くの市民を禁令を破った罪で処刑

また、宰相をはじめとする多くの高官や側近、召使を処刑


キリスト教とユダヤ教を迫害

全ての教会を廃止し、財産を没収


エルサレムの聖墳墓教会

〔せいふんぼきょうかい・

キリストの墓とされる場所に建つ教会〕をも破壊


毎日、夜間には、みすぼらしい服を着て、わずかな供だけをつれ

カイロ市中やその郊外を徘徊したとされる


最後、従者も連れずに出かけ

郊外の砂漠を散歩していてそのまま行方不明となっている



輪廻を信じるが、アラウィー派とは異なり

あくまで人間に転生し、動物には生まれないとする


他の宗派より異端視されたことから

迫害に対して自己の信仰を隠す「タキーヤ」(信仰隠匿)

を認めるのも特徴とされるが

但し、これは当派に限らないようである


今日では、20~30万が、レバノン山岳地方

イスラエル北部、シリア南部に存続するという






シーア派は

「ウンマを、政治的・宗教的に指導する者は

アラーの言葉であるコーランを

正しく解釈できる者でなければならない


それは、アラーにより地上に使わされた

最後の預言者ムハンマドと

ムハンマド以降は、ムハンマドの家族であるアリーと

その子孫だけである」

とし、ウンマの正統な長となるべき者をイマームと呼びます


つまり、カリフ=イマームです



イマームは、アラビア語で「指導者」、「模範となるべきもの」

を意味するそうです



イスラム教では、ムハンマドを最後の預言者としているため

イマームが神の啓示をうけることはありません


また、イマームが、啓示にもとづく

シャリーア(イスラム法)をもたらすこともありませんが


イマームは、無謬(むびゅう・あやまりがない)であり

イマームなしには人は神の意志を知り

それに従って生きることもできないとされています



なお、スンニ派にもイマームはいるそうです

但し、スンニ派のイマームは、礼拝の指導者にすぎず

常任の役てもないといいます








スンニ派



スンニ派〔スンナ派・全イスラム教徒の9割〕とは

ムハンマドのスンナ(慣行・範例)に従う人々の意味で

慣行派と訳されます



スンニ派では、カリフのような個人的な権威の上に

イジュマー(共同体の合意)を置いてきました


コーランを解釈する最終的な権威は

共同体全体(具体的には過去の法学者たちの合意)

にあるということです


また、イジュマーを優先させることから

共同体の伝統的な慣行や範例を破ることは異端とされるそうです







カリフ



10世紀から11世紀にかけては

アッバース朝(現在の主にイラク)の君主の他

ファーティマ朝(主にエジプト)と

後ウマイヤ朝(イベリア半島における最大最長のイスラム王朝)

の君主もカリフを名のり


イスラム世界に3人のカリフが誕生し

イスラム帝国(ウンマ)は崩壊しました


また、北アフリカやイランにも小国家が誕生し

さらに分裂がすすんでいったようです



このようにウンマは、政治的にも宗教的にも分裂し

多くの民族国家に分かれていったわけですが

現在のイスラム諸国会議機構の基礎をなしたとも言われています





カリフ制は、アッバース朝(750~1258)の滅亡とともに

実質的な役割を終えていましたが


19世紀末から第一次世界大戦(1914~18)時代に

オスマン帝国のスルタン(皇帝)が、カリフを名のり

全イスラム勢力の集結をうながしています



トルコの帝政は、第一次大戦の敗北で崩壊します

オスマン帝国皇帝であるスルタンは国外へ亡命


オスマン王家の一人がカリフに選出されますが

23年、アンカラを首都として、トルコ共和国が誕生します


イスラム圈初の政教分離国家です


翌年には、カリフ制が廃止

オスマン王家の全員が国外へ追放され

名称としてのカリフも消滅しました







●  正統カリフ時代 (632~661年)



イスラム教では、ムハンマドの時代を「預言者の時代」といい

ムハンマド以後、4代のカリフまでの時代を

「正統カリフ時代」といいます


「正統カリフ時代」は、イスラムの理念が

政治に反映された理想的な時代とされます


これ以後、ウンマ(イスラム共同体=イスラム帝国)が分裂し

カリフが並び立つ時代となるわけです



4人は


第1代 アブー・バルク【 クライシュ族 タイム家出身

ムハンマドの右腕として活躍。ムハンマドの死の翌日、カリフに選出

ムハンマドの妻の1人 アーイシャは彼の娘

アーイシャは10人を超えるムハンマドの妻のうち最愛の地位にあり

ムハンマドは彼女の膝で息をひきとったという。2人の間に子はなかった

彼女はのちに4代目カリフ アリーと対立

ラクダの戦いに敗れ、政治的立場を失う 】



第2代 ウマル1世【 クライシュ族 アディー家出身

はじめムハンマドを迫害

のちに悔い改め教団の重鎮となる

シリア、イラク、エジプトなどに遠征軍を送り出して大征服を指導

軍事・行政の諸制度を定めイスラム帝国の基礎を確立

またイスラム暦を制定

モスク礼拝中に、ペルシア人あるいはユダヤ人の奴隷

により刺され3日後に死去 】



第3代 ウスマーン【 クライシュ族 ウマイヤ家出身

最初の妻はムハンマドとハディーシャ(ムハンマドの最初の妻)との娘

2代目 ウマル1世の遺言によって成立した6人の長老会議でカリフに選出

ウマイヤ家の一族を重用する一族中心の政治を行なったため

周囲からの不満が高まり、エジプトのアリー派によって暗殺 】



第4代 アリー【 ムハンマドと同じハーシム家出身

ムハンマドの従弟でムハンマドと

ハディーシャの末娘 ファーティマと結婚

エジプトのアリー派に推されてカリフを宣言

初代カリフ アブー・バルクの娘で

ムハンマド最愛の妻であったアーイシャと

クライシュ族の有力者 ズバイル、タルハの連合軍を撃破

〔ラクダの戦い・アーイシャが戦場をよく見渡せるよう

ラクダに乗って指揮したことから〕

クーファ(イラク カルバーラ州にある町)を首都とする 】








スーフィズム



スーフィズムは、イスラム教神秘主義です


「神秘主義」とは

広義には、広くオカルト的な要素をいいますが

狭義の神秘主義は、神や宇宙の原理といった

究極的、絶対的な存在と、合一しする立場をさします



原始的な神秘主義は、シャーマニズム

つまり神がかり〔憑依(ひょうい)〕です


日本のいたこ(東北)やゆた(沖縄)はシャーマンにあたります




教義がととのった宗教のものとしては


バラモン教の「梵我一如」

〔 自己の本質であるアートマン(我)が、宇宙の根本原理

つまり全てを成り立たせている原理のブラフマン(梵)と

同一であると悟れば、我と梵が合一して、輪廻転生から解脱できる〕



密教の大日如来との合一による「即身成仏」

〔 手に印を結び(身)、口に真言を唱え(口)、心に本尊を観じる(意)

という「三密加持」により

仏の身口意(しんくい)の働きが

修行者の身に入り、行者がそのまま仏となる〕



日蓮の南無妙法蓮華経による仏性の顕現

〔 自己に内在する仏界の生命が

宇宙の仏界であり、究極的な原理あり、幸福のリズムである

「南無妙法蓮華経」と

日蓮の曼荼羅を介して合致し、自己の仏界が顕現する〕


というものがあります




一神教の世界にも神秘主義は存在し


ユダヤ教のカバラ(カッパーラー)


イスラム教のスーフィズム


東方正教会のへシュカスモス


カルメル会(カトリック修道会)の十字架のヨハネの神秘主義


などがあります




シャーマニズムの神がかりが

意識の明確さに欠けるのに対し

こちらは比較的、知覚や認識能力を失わないことから

宗教体験として重視する立場もあるようです




スーフィズムが自力による神秘主義であるのに対して

キリスト教の神秘主義は、むしろ絶対他力

つまり自力を完全に捨て去り

神の力を受け入れることで実現されるというものが多いようです




スーフィズムは、アラビア語のスーフ(羊毛)に由来し

本来、迫り来る終末と地獄におびえ、世間の虚飾を捨て

ざんげのしるしとして羊毛の粗衣をまとい

禁欲と苦行の生活をなす者をさしたといいます


スーフィズムは、現世や自己への執着を断ち

絶え間なき修行により、神の恩寵を待ち

神に支配されることを目指す神秘主義らしいです



すぐれたスーフィー(スーフィズムの実践者)は

人々の願望をかなえるバラカという特別な呪力を得ていて

聖者として崇拝の対象となるといいます



バラカは死後も存続し、ムハンマドや聖者たちの遺体

遺品、墓石などにバラカがあり

これらを拝んだりすると様々な功徳があるとされているそうです






神とはなにか?
ゾロアスター教・マニ教・シク教編





Top page


神とはなにか? ユダヤ教編 ②





 自己紹介
運営者情報




 時間論




 幸福論




 価値論




 心と
存在




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





Suiseki
山水石美術館