緋山「B級哲学仙境録」 古代史の嘘 Ⅰ 縄文人と弥生人 ハプログループDとО



B級哲学仙境論


古代史の嘘


 




古代史の嘘 Ⅰ




縄文時代(約1万2千年前~前3世紀)は

狩猟採集経済で、定住化した社会であった

と考えられています


狩猟民っていうと矢や槍で動物を捕らえて

残酷なイメージですが、実は戦争がなかったとされています



縄文人の人骨を調べると

やじりによる損傷が見られない

これに対して、水田稲作経済の弥生人には、多くの傷が残っている


このようなことから弥生時代(前3世紀中頃~3世紀)に入り

水田稲作経済となって、土地争いや水争いが頻発化したのが

戦争の起源であるという話もあるのです



弥生時代は縄文時代とうってかわって

戦闘が頻発した時代だとされてきました


ただその後、弥生人の人骨に残されたやじりについて

異論も唱えられるようになっています


人骨の胸から腰にかけて15本のやじりが出土した例もあり

以前は、このような例は、戦闘で矢を何本も射込まれて

やっと倒れた人物と解釈されて「英雄」などとも呼ばれていたそうです


しかし、矢が特定の部位に集中して射込まれている不自然さから

埋葬の際に副葬品としてやじりを胸のあたりに置いたものであるとか


何らかの儀礼的行為のさいのいけにえとして

矢を射込まれたものであるなどという見解も出てきているといいます



それから、集落の周りに濠(ほり)をめぐらせた

環濠集落も戦闘の証拠とされてきましたが

環濠集落の出現が、戦闘の証拠がほとんどない

弥生時代早期にさかのぼることや


受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる時期に

むしろ環濠集落の事例が少ないことなどから


環濠集落を防衛集落と考える研究者は

最近では少なくなってきているそうです



大規模な土木を行うことで

共同体の結束を高めることを目的したものだったとか

環濠で集落を囲い込むことにより

集団意識を高めることを目的としたものだった

とかいう見解もあるようです


ただ防御的な機能を持つ環濠も存在することも確かなようです


なので環濠の性格については

地域・時期によって異なる意味づけをすべきである

という意見もあるといいます



一方、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷は

縄文時代の人骨にも見られますが

弥生時代には明らかに増加していて

縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こっていたことは

確かであるというのが考古学一般の立場なようです






【 縄文時代 】


縄文時代(1万2千年前~前3世紀頃)の特徴は

定住化(竪穴式住居の普及)、狩猟・植物採取・漁労の3つの生業体系

縄文土器の使用、弓矢の使用などがあげられる



● 竪穴式住居…

地面を数10センチ掘り下げたところを

床とする半地下構造の家

後期旧石器時代から造られ始め

縄文時代には盛んに造られるようになった

古墳時代以降しだいに消滅し

近畿では平安時代にはほぼ平地居住に移行

東北では室町時代まで造られていたという




● 石鏃(せきぞく)… 石を材料として作られた鏃

(やじり・矢の先端に取り付ける石器)

日本においては、縄文時代に弓矢の使用とともに現れている

縄文・弥生時代において主に狩猟具として使われた

鉄鏃(てつぞく)は、弥生時代後期に登場し

狩猟具ではなく、武器として用いられた




● 貝塚… 日本のものは主に縄文時代の人々の住居跡近くに見られる

弥生時代以後は数が少ない

ごみすて場で、貝殻、魚や鳥獣類の骨、骨や角で作った道具

こわれた土器など、様々な物が出土する






【 縄文時代 】


弥生時代〔前3世紀頃から紀元3世紀頃まで〕の特徴は

水稲耕作、弥生式土器の使用

青銅器・鉄器の使用などがあげられる

集落・地域間の戦争が頻発化した時代でもある


石器といっしょに金属器(青銅器や鉄器)が用いられた

金石併用時代である


また、弥生時代は、貧富や身分の差が生まれ

「むら」に支配者が現れ

有力な「むら」が弱い「むら」を服属させて

紀元前後には多くの小国家が成立した



● 水田稲作… 前3世紀頃に大陸から伝わった

北九州で始まり、西日本から東日本へと広まっていった

人々は稲作に適したな低地に定住

モミなどをたくわえる高床倉庫(たかゆかそうこ)なども造られた

但し、陸稲による稲作は、少なくとも3500年前から行われていたらしい

また水稲についても縄文晩期には導入されていたという説もある




● 青銅器と鉄器… 青銅器と鉄器、またその技術は

大陸よりほぼ同時期(前3世紀頃)に流入し

日本は、石器時代から青銅器時代を飛び越え

鉄器時代に突入したと言われている


青銅器は、銅剣、銅矛、銅鏡、銅鐸(どうたく)など主に祭祀道具として

鉄器は、武器、農具、木製品(田下駄や機織り具など)

を作る工具など実用品として使用された







以上のことを書き

知り合いの大学教授に送ったところ

以下のようなメッセージをいただきました



教授: いわゆる「典型的な教科書」の歴史ですね


ところが

縄文時代にすでに水田跡が発掘されていて

さらに鉄器も出土している


さらに、縄文時代に高床倉庫も作られていたことが判明しています


というわけで、教科書による縄文・弥生時代の記述は

ほぼ完全に否定されざるを得ないわけです




教授: 弥生時代がなぜ始まったか?

歴史の教科書では

弥生時代は、大陸からの渡来人が

稲作、鉄器、青銅器を伝えて始まった とされていますよね


要するに、渡来人が縄文文化に革命を起こしたと



しかし、青銅器については確認が取れていないですが

稲作と鉄に関してはすでに縄文時代にはあるのです


ここにすでに嘘があります


青銅器もおそらくあったのではないかと推測しています

(当時の縄文技術的に可能)


ちなみに、日本には

縄文時代からヒスイが装飾品として存在するのですが


これって周辺諸国では

弥生時代になってさえ加工技術がなかったため

漢への朝貢の際にたった3つを献上して喜ばれております


そのくらい、縄文文化の技術って最先端だったのです




【 翡翠は、モース硬度(ひっかき硬度)は

ダイヤモンドに劣りますが

劈開(へきかい・決まった面で割れる性質)をもたないので

ハンマーを跳ね返すほど硬いといいます


ちなみにダイヤモンドは、劈開性をもつので

ハンマーで叩くとこなごなに砕けてしまうのです



そんな翡翠に

縄文人は、どうやって穴を開けたのでしょうか?


火起こし器と同様の器具で開けたようです


1. 翡翠の原石を高温で熱して叩き割る


2. 砂岩(石英入り)でできた石鋸でさらに割る


3. 小さくなった翡翠を砂岩でできた砥石で磨く


4. 器具で竹管(先端に硬い石をつけた)

を回転させ、研磨剤として硬い石の粉を用い穴を開ける

(1時間で1.5mmほど) 】




教授: ちなみに、工程に莫大な時間が必要なので

縄文時代に既に翡翠職人がいたことになります


さらには、翡翠を交易に使用していたかは

わかりませんが

船で交易していた証拠も出ています


学校で習っているより

遥かに文化的な生活を営んでいます




考えてみてください

周辺諸国と比較して

これだけ高い技術を要していた文化が

渡来人によって革命を起こすと思います?


そもそも、縄文時代に既に交易が行われています

朝鮮半島にも日本人が住んでいたと考えられています


そんな状態で大陸の文化がまだ入っていなかった

という理屈は成り立たない




教授: 確かに、弥生時代の初めに渡来人が来ました

そして彼らはあるものを持ち込みました

それは何でしょう?


ちなみにこの頃

中国は春秋戦国時代です


渡来人というのは亡命してきた難民です

彼らはもちろん土地を求めています

そうなると起こるのは戦争です

それが答え



前に話したかもしれませんが

元々日本は平和だったのです

そこに(おそらく武器を持った)難民が押し寄せて来て

戦が始まったのです



その証拠は服装の画像と土器の違い

どちらも縄文の方が華やかで

弥生の方がシンプルでしょ?
 (画像は転写)


     



いつ襲われるか分からないのに

着飾ったり土器を派手にするなんて余裕はないのです

逃げることを前提に

生活をしなければならないのですから


女性が着飾ったり

器を派手に出来るのは平和だからです

いつの時代のどの場所でもそれが真理


そして、戦が始まったこの時代から小国が誕生するのです


土地を守るためにグループができるのも必然

これも戦が持ち込まれた証拠



では何故未だに

「紀元前400年ころ稲作、鉄器、青銅器が伝来された」

というウソが教えられているか?


これもGHQ以降に植え付けられた

日本を貶めるための歴史教育の一環です


そもそも教育関係は戦前を否定しているので

日本は周辺諸国より劣っていると教育しようとしています



よく、世界四大文明とか言ってますが

実はこれも既に破綻している説なのに

日本では未だに使われています


しかも、黄河文明やそれより古い中国の文明よりも

日本の縄文時代は古くて

縄文文明と呼ぶべき豊かさだと思います



日本の古代が平安時代までなのもそうです


そもそも、古代・中世・(近世)・近代

という時代区分はヨーロッパのもので

他の地域に当てはめるのは無理があるのですが…



奈良時代は中世と呼んでいいだろうと思います

個人的には飛鳥時代でさえ中世だと思います




【 古代、中世、近世、近代、現代は

相対的な時代区分で明確な定義はない


西洋史における区分は


ゲルマン民族の大移動、ローマ帝国分裂の4世紀末から

15世紀の東ローマ帝国の滅亡あたりまでが中世


ルネサンス、大航海時代、宗教改革あたりから近世


市民革命(フランスならフランス革命)

産業革命あたりから近代


第一次世界大戦終結後から現代



日本史では、鎌倉時代から中世

安土桃山と江戸時代が近世

明治時代から近代

第二次世界大戦終結後から現代 】





教授: 戦後の教育は、戦前までの日本の解体の元に

行われているので、試験勉強として覚えておく必要はありますが

本当の歴史は違うことも知らないといけないと思います



1、古代史に対する違和感

2、日韓併合から太平洋戦争の歴史に対する違和感


明らかに残っている(実態ある)証拠と

歴史の記述が乖離(かいり)しすぎているのです


他分野から見て

歴史家の手法が非科学的で

ファンタジー(=創作)にしか見えないのですよ


だから、典型的な歴史家ではない

他分野の研究者が歴史教科書を批判しています


そんなことから

最近、異端(教科書の歴史との対比において)

の歴史書が出てきているのです



私も(他分野の)研究家の端くれなので

歴史教科書には違和感しかないです


私の目から見ても

歴史家には明らかな悪意を感じます







緋山: 弥生時代の渡来人が

ハプログループOをもつ人なのですか?




教授: はい、渡来人はハプログループOです

もちろん、違うグループも少しはいますが


問題は、それより以前に

ハプログループOが日本にいたか?

これについては正直分からないです


今のところはいなかった方を支持していますが

説明のつかない点もいくつかあるので






緋山: 弥生時代にきた ハプログループOは 

東南アジア → 沖縄 → 九州 ではなく

大陸からきたということでしょうか?



教授: おそらく、朝鮮半島経由で間違いなく入ってきています

それは、日本では小国が九州から誕生しているからです








東南アジア → 沖縄 → 九州については

沖縄は、本土ほどグループOの比率が高くないので

沖縄から本土に入るルートがあったとしても主流ではなさそうです



また、東南アジアについては、現在の説では

むしろ中国から流れていったと考えられています





緋山: 説明のつかない点も知りたいです



教授: グループOが生まれた当時

日本はまだ大陸と陸続きと思われるのです

(これについては調べている最中です)


もし、弥生時代に初めて

グループOがやってきたとするならば


陸続きのときに日本に入って来られなかった理由が必要になります

(Oが生まれてからしばらくして中国・朝鮮半島にやってきたとか)



あともう一つ

日本にもグループOは50%ほどいるので

弥生時代だけでそれだけの割合の渡来人が来たとしたら

グループDはいなくなるのではないかという疑問です



この2点が説明できません



ちなみに

アイヌ民族は、面白いくらいにグループOがいません

D以外は少しCがいるだけです  Oは皆無


ですので、北からOが来た可能性は否定されると思います

(やってきたOを力で阻んだという可能性はありますが)



大陸にグループDが殆どいない状況を考えると

グループOはかなり戦闘的と言わざるを得ません



私の支持する説を説明するには


1. グループOが中国・朝鮮半島にやってきた時期に

日本列島が大陸から離れていた
 
(そうでなければ一気にやってきてDが激減していたはず)


2. グループOが、弥生時代に長い時間をかけて少しずつ移り住んできた

(短い期間に一気にやってきたら間違いなくDは殺されていた)

の2点を示す必要があると思います





緋山: グループDで、平和であるはずのアイヌにも

和人との戦闘や部族間の抗争があったようですが

そこはどうなのですか?



アイヌと和人との戦いとしては

1457年(室町時代)の「コシャマインの戦い」と

1669年(江戸時代前期)の「シャクシャインの戦い」

が、よく知られていますよね




【 「コシャマインの戦い」は

アイヌの少年が、志濃里(しのり・現 函館市)の鍛冶屋と

注文した小刀の品質と価格をめぐって口論となり

怒った鍛冶屋にその小刀で刺殺されたのが戦いのきっかけ

アイヌは製鉄技術を持たなかった


渡島半島東部のアイヌの首領 コシャマインのもと

アイヌが団結し蜂起


道南十二館〔じゅうにだて・渡島半島南端の海岸線に分布

陸奥、出羽、蝦夷地の豪族 安東氏配下の武将たちの館〕

のうち10を陥落させたが

鎮圧軍によりコシャマインは射殺 】




【 「シャクシャインの戦い」は

松前藩の不公正な貿易などに対しておこした

アイヌ民族最大の蜂起である


アイヌは、かつて津軽や南部まで交易舟を出し

獣皮・鮭・鷹羽・昆布などを、和人の鉄製品・漆器・

米・木綿などと交換する交易していた


しかし、江戸時代に入ると、幕府により

対アイヌ交易権を松前藩が独占したため

アイヌにとって自由な交易ができなくなったなったという


この頃、松前藩は財政危機に陥っていて

そのためアイヌと公平な交易を行っておらず

干鮭100本と米2斗(30kg)の交換が

一方的に米七升(10.5kg)に変更されたそうである


さらに、和人が勝手に狩猟や漁業をするようになり

大網で鮭をどんどん獲り始めたこと


この頃、日高地方の静内川(シべチャリ川)の奥で砂金が発見され

和人の金掘り人足たちが、シべチャリの奥地に入り込んで

川底を掘って川を濁らすため、川に魚が登らなくなったこと


などによってアイヌの生活基盤が破壊されつつあったという



戦闘は、はじめはシャクシャイン勢が優勢だったが

松前軍が鉄砲を使用したのに対し

アイヌ軍は弓矢を用いていたことや

軍を分断させられたことにより、アイヌ軍は後退


松前軍はシャクシャインに和睦を申し出

シャクシャインは応じるが

和睦の酒宴で多くの仲間とともに謀殺されている


他の蜂起アイヌの指導者も

それぞれ別の場所に和睦に訪れ、そのさい謀殺されている 】





緋山: また、シャクシャインの部族と別の部族とは

静内川の漁猟権をめぐる争いを続けていて

シャクシャインは、対立部族の首長を殺害しています


つまり、アイヌに部族間抗争があったということです





教授: 縄文時代にあまり戦いがなかったのは

生活に困らなかったからです


日本は災害が多いですが

食糧・食料的には

非常に恵まれた土地でもあります

水も豊富。こんな場所も稀です



だから、日本は、災害を考慮しても

住む価値の高い場所だったのかもしれません



日本人に、古代からの遺伝子(ハプログループ)が

残っているのは

争いがなかったためだと言われています


争いがなかった理由は

食糧事情が良かったからに他なりません




よく読んでみてください!


この時のアイヌの人々の生活基盤は

和人によって破壊されていたとありますよね


なので戦いを起こさない前提が崩れています

やはり、生活の安定は、戦いを起こさないために必要だと思います




私はむしろそこよりもアイヌの人々が

何故この時代に、鉄を持たなかったのかが気になります



逆に、縄文時代の日本人はどうして製鉄技術を持てたのでしょうね?


この辺りは、不勉強でちゃんと分かっていません







緋山: ところで、ハプログループの理論からすると

アフリカ人は、アルファベットの小さいグループ

Y染色体アダムに近いグループ

ということになると思いますが


アフリカでいつまでも部族抗争みたいなことがなされている

という事実からすると


Y染色体アダムに近い グループが

必ずしも平和なグループとは言えないということですか?




教授: それでいうと

グループO=戦闘的 という言い方は語弊がありますね


戦闘的かどうかは環境次第なんだと思います

安定した生活ができたかどうか


グループが移動しているのは

安定した生活を出来る場所を求めているから

と考えるといいのかもしれません


安定して生活できるなら移動する理由はないですよね


そうなると当然、移動してきたグループは

先住グループに対して戦闘的になる

というのが正しいのかもしれません



だから、過半数いるグループOが

一度に日本にやって来た場合


それは土地・食料を求めて

戦闘的な状態でいるはずなので

安定した生活を送っている

戦いを知らないグループDはいなくなる

という結論になるのは

大陸の状況の通りだと思っています



だから、少しずつやって来て生活が安定して

という過程を何度も重ねてゆっくり

人種が交わったと考える方が自然な気がします




あ、そうそう

説明できないという話でもう一つ


実は言語学的にも説明がつかないのです

日本語と中国語

日本語と朝鮮語(韓国語)では単語が全然違うのです


もちろん、中国から入ってきている単語はありますが

そうではない元々使っている基本的な単語が全く違うのです


ちなみに、イングランド人とドイツ人が

共通の祖先から分かれたのが2000年ほど前で

英語とドイツ語は似た単語が多い


garden = Garten (ガーテン) = 庭

good morning =

guten Morgen (グーテン・モルゲン) = おはよう(良い朝)


fire = Feuer (フォイアー) = 火

water = Wasser (ヴァッサー) = 水

weather = Wetter (ヴェッター) = 天気  など



2000年前というとちょうど弥生時代なので

この事実からも日本人の祖先が

弥生時代の渡来人ではないことは明らかなのですが


もしグループOの人たちが

全て(少しずつだとしても)

弥生時代にやって来たとなると

日本語に対しての影響が少なすぎる気がします






言語学の話が入るとまた悩ましくなります


日本語(琉球語も含む)、朝鮮語、アイヌ語は

それぞれ系統不明の独立した言語とされています


Y染色体ハプログループってあくまで男性の流れで

言語については

女性の影響が大きく出ているかもしれないですね


直感ですが、言語って女性の影響の方が

大きいような気がするのですよ



それと、よくある話ですが

戦で勝った側は

女子供を殺すこともありますが

略奪することもよくあります



そうしたことから考えると


陸続きの頃に、日本に

グループDがやってきたわけですが

このうち


① 南(朝鮮半島を含む)からは

本土、沖縄へとやってきたD

→ のちに日本語(琉球語も含む)を誕生させた


② 北海道辺りは、北からやってきたD

→ のちにアイヌ語を誕生させた



そして、日本が、大陸から離れたのちに

朝鮮半島の辺りまでは

Oによって男性が消されて

女性だけが残った

→ のちに朝鮮語が誕生した


これだと言語的には

つじつまは合うのですが・・・・





日本人とアイヌ人のルーツは

おそらくさほど間違っていないだろうと思いますが

朝鮮半島についてはホントによく分からないのですよ


今から紀元前10000~5000年までの5000年間

朝鮮半島から人がいなくなっているのです


その後、朝鮮半島の南部に日本人が渡っているらしいのですが…


朝鮮語がいつどこで誕生したのか

ホントによくわからないのです





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