「B級哲学仙境録」 古代史の嘘 Ⅱ 大和朝廷はD、邪馬台国はОの亡命中国人国家?



B級哲学仙境論


古代史の嘘


 




古代史の嘘 Ⅱ




以下も知り合いの大学教授

とのやりとりになります

〔読者が読んで判るように

一部、表現を書き直したり

説明を書き加えたりしてあります〕





緋山: 現在、主流になりつつある説は


1、弥生時代に渡来人がやってきて

日本列島を征服し、支配したわけではなく


先住民(縄文人)の中に

渡来人の血が少しずつ受け入れられ

彼らの子孫が、弥生人となった

=弥生人も、基本的には縄文人に由来する



つまり、渡来人は

縄文時代から続く日本の風習や伝統を破壊したわけでなく

同化していって、弥生人が誕生したという話です




2、先住民は率先して

渡来人のもたらした稲作を選択したことで

人口爆発をおこした



という2つのようですが


縄文時代に水稲経済に移行していたとすると

なぜ、縄文期に、人口爆発がおこらなかったのですか?




教授: まず1については同じ考えです


なぜ、縄文期に、人口爆発がおこらなかった?



私が習った頃は

弥生時代の始まりは紀元前400~300年だったのですが

現在の主流は紀元前1000年だったりします



主流の考えは、何としてでも

「弥生人が渡来して稲作を広めた」

という歴史にしたいという

ハッキリ言って結論ありきの主張です


典型的な歴史学者は

日本人は朝鮮人より劣っていた

としなければ気が済まない

と言ってもいいです




ちなみに、ナショナルジオグラフィック

日本版↓によると

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20110907/283253/?P=2


紀元前2300年のころ

日本には26万人が住んでいて

狩猟採集経済を営んでいた


しかし、縄文時代も晩期に入ると

気候変動で気温が下がり

食料供給量が激減した


クルミ、ナラ、トチの実……

貴重な食料であったナッツ類が

気温低下の影響を受けて激減した


食料の供給量に合わせるように

人口はみるみる減っていった


26万人あった人口が

8万人まで落ち込んだ


紀元前2300~1000年の間に

8万人に落ち込んだ人口が

60万人になった と書いています



そしてこの方は

この時代を「弥生時代」としています

(そんなアホな!)


どう考えても(土器の特徴的に)

縄文時代後期~晩期です


要するに

縄文時代にすでに人口爆発が始まっています




これ↓を事実と主張する

主流派の歴史学者ってどう思います?



≪ 弥生時代に渡来人がやってきて

日本列島を征服し、支配したわけではなく

渡来人の血が少しずつ

先住民(縄文人)の中に受け入れられ・・・ ≫



常識的に考えてみてくださいね


住む場所を求めて亡命してきた人たちが

知らない土地にやって来て

現地の人間と仲良くできると思います?


普通、知らない集団がいたら

先住民は警戒するし

亡命した人たちだって警戒するでしょう


これで、先住民が丸腰で

亡命した人たちが武器を所有してたら

先住民が皆殺しに遭っても不思議ではない


それが全てとは言わないまでも

十分に想定できる未来です



渡来人が稲作文化を持っていたこと

そのものは否定しないし

おそらく持っていただろうと思いますが


生きるか死ぬかでやってきた渡来人が

先住民とすぐに仲良くなって

縄文の人々に稲作を伝えたという考えは

いくらなんでも無理があるように思います





主流派の考えだと

いかにも平和的に同化していったことになりますが

これでは、九州に小国ができて

のち大和朝廷が誕生したことの

説明がつきませんよね




緋山: では、渡来人の血(グループО)が

縄文人に混ざって

弥生人となることで、戦闘的になったのでしょうか?


それとも

渡来人が「戦争」という

物理的なものを持ち込んだことで

縄文人自体も、防衛の必要性から

戦闘的になり


そうした延長線の上に

弥生時代があったため

弥生時代は、戦争が多い時代となった

ということでしょうか?




教授: 私は後者、縄文人自体が戦闘的になった

と思います


戦闘的な移民と原住民が

いきなり混ざり合うのはあり得ません


南米なんか典型ですよね

戦闘集団に対峙するためには

縄文人も戦闘的になる必要があったはずです



そのためにはどうしてもリーダーが必要になります


小国が生まれたり、権力者が生まれる背景はそこにあると思います

それが転換点で弥生時代に入ったと思います




ただし、当時の状況を考えてみると

もしかしたら

最初に渡来した人達とは平和的だった可能性はあります


どういうことかと言うと

この当時、朝鮮半島南部には日本人が住んでいるのですよ

後の任那(伽耶)を建国してる人達です



【 日本書紀によると、大和朝廷は

朝鮮南部の任那(みまな)を支配下に置いたとされる


応神天皇の時代(4世紀末から5世紀はじめ?)に

朝鮮半島まで勢力を拡大し

南部の伽耶(かや)を支配下に入れ

日本府という軍政府

〔統治機関。伽耶諸国と同盟を結んだ大和朝廷の使節機関とも〕

を置いている


なお、伽耶は諸小国全体の呼び名で

日本では「任那」(みまな)と呼んだらしい

562年に新羅に併合 】




教授: 任那(伽耶)の前身?にあたる弁韓が

既にあったかどうかは不明ですが


当時から九州と朝鮮半島は行き来があった訳です


そのような状況で

朝鮮半島に、亡命中国人が入り

朝鮮半島の人達が

日本に逃げてきた可能性があります


その中にグループOがいた可能性は十分にあり

その人たちは、すでにグループD(日本人)

と既に共存しているので

平和的に同化した可能性も十分ある


また、縄文時代から入ってきている可能性すらあります



その後はもちろん

亡命中国人も入ってきたでしょうから

彼らとは、簡単ではなかったでしょうね


局所的にはグループDの人達が

全滅したかもしれません






教授: 古事記・日本書紀は

もちろん、国(この場合は天皇)の正当性を訴えるために

大和朝廷が書かせたものです


その古事記・日本書紀に

邪馬台国および卑弥呼の記述がないのです


魏志倭人伝にある邪馬台国や卑弥呼が

古事記・日本書紀には書かれていないのです


ということは、邪馬台国は大和朝廷とは

無関係で、敵対してた可能性さえある

の一択しかないと思います



場所も、近畿説は有り得ないです

もし近畿にあれば常に対立を生んでいたと思います


常識的に考えて九州でしょうね


大和朝廷により中国地方までは

比較的早い段階で統治されているため




あ、ここからは根拠が薄いですが

邪馬台国って大陸由来の国に見えます

要するに、亡命中国人が関係している国


というのは

邪馬台国は中国に奴隷を朝貢してるのです


日本に奴隷制度がなかったわけではないですが

国同士で奴隷のやり取りを行ったことってないのです

(ただし、個人レベルでの売買は行われていた)


奴隷を中国に贈るって

朝鮮が2000年にわたって行ってきたことですが

そういうことを彷彿とさせます




【 魏〔ぎ・中国の三国時代の一国〕の

「魏志倭人伝」〔魏志の東夷(とうい)の条に

収められている日本古代史最古の史料〕などに

邪(耶)馬台国と卑弥呼の記述がある



それによると

邪馬台国は3世紀頃の国で

女王 卑弥呼(175頃?~248頃)が統治していたこと


2世紀後半に「倭」に大乱があり

諸国は卑弥呼を倭王として立てることでまとまったこと


かつては男王が治めていたが

神に仕える卑弥呼が王になったこと


邪馬台国が30余国

〔対馬、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)など〕を

統治していたこと


人民は顔と身体にイレズミをしていること


卑弥呼は生涯独身で

神の妻として「鬼道」(シャーマニズム)に通じていたこと


男弟が卑弥呼による神託に従って政治や軍事を担当していたこと


魏の明帝(めいてい)に、使者を送り

斑布〔はんふ・斑(まだら)模様の布〕2匹2丈と

男女の生口(せいこう・奴隷)10人(男4人・女6人)を献上したこと


これに対し親魏倭王の称号と金印

多くの絹織物や毛織物、金8両、五尺の刀2ふり

銅鏡100枚、真珠と鉛丹(えんたん・赤色の顔料)各50斤が

魏の使者によってもたらされたこと




その後も、卑弥呼は使者を派遣し貢物を贈っていること


さらに、南の男王 卑弥弓呼(ひみきゅうこ)の

狗奴(くぬ・くな)国と対立、戦争となり

この戦乱の状況を魏に伝え、援軍を要請していること


この直後、戦乱のさなかに卑弥呼は死んだらしく大墳墓がつくられ

奴婢(ぬひ・男と女の奴隷)100余人が殉葬されたこと


卑弥呼の死後、男王が即位するも国中が従わず

結局、卑弥呼の一族でシャーマン的性格の強い

13歳の壱与〔いよ・台与(とよ)ともいう〕が倭王となり内乱が治まったこと


などが書かれているとう 】






邪馬台国、私は、福岡と熊本の県境という気がしますが

(おそらく最後に筑後川を下る)



緋山: なにか根拠あるのですか?


大した根拠はないですが、魏志倭人伝の行程から

水行○日というのは川の可能性が高いかなと

海の場合は距離で書いているので


それで、移動できそうな河川となると限られるので

これまでの九州説と当てはめると筑後川が本命かなと

ただし、伊都国の位置に疑問があったり、問題点はあります






緋山: 古事記や日本書紀は

史実を反映しているという話もありますが

「神武東征」から考えると


亡命中国人により建国された国家の1つが

のちに

東に進出して、大和朝廷を築いた

ということはありませんか?




【 日本という国は、九州王朝の支配者 神倭伊波礼毘古命

(かむやまといわれびこのみこと)が東征を果たし

神武天皇に即位し、大和朝廷を開いたことに始まる

〔神武が即位した=大和朝廷を開いたとされる2/11日が建国記念の日〕 】






教授: 何とも言えないです


初代 神武天皇の即位年は

紀元前660年

(皇紀元年。日本書紀の記述から、明治政府が定めたもの)

なので

亡命中国人が来るよりも前に東征していることになりますが


邪馬台国が3世紀頃の国ということからしても

大和朝廷の誕生は、実際にはもっとずっと後だと考えられています


そうすると否定できません


ただし、神武天皇の東征の際にはかなり戦をしているのですが

その後の支配はいわゆる政略結婚で影響力を拡大しています


自分の身内を諸国に嫁がせていて、あまり戦をしていない

戦国時代でよく用いられていた手法です


その点は、中国での相手を叩き潰して

支配するやり方とは一線を画すので

あまり高くないかなという気はします




ちなみに、神武天皇の出身地は宮崎と考えられていて

その点で亡命人の国家が、東征したことも考えられますが


逆に、亡命人の国家(邪馬台国も含まれる)を目の前にして

日本人の力を結集するために

東征したのではないかと考えています



そう考えるといろいろなことが繋がります。


例えば、先ほどの勢力拡大の際に政略結婚を用いている

という話は

共通の敵がいれば相手も応じやすいし

神武天皇にしても、日本人の数を減らしたくはなかったはずです


邪馬台国の記述が日本書紀にないことの強い動機にもなります


またどうも、大和朝廷は

九州北部だけは力で制圧しているっぽいのですよ





緋山: ヤマトタケルが制圧した

熊襲〔くまそ・隼人(はやと)ともいう

肥後国球磨郡(現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から

大隅国曽於郡(そおぐん・現鹿児島県霧島市周辺)〕

なんかどうなのですか?



教授: それより前の話です


邪馬台国は、大和朝廷の統一よりも前に

なくなっていると考えられています


それなりに大きな国のはずなのに

出雲や吉備とは違い

友好関係を築いた形跡が全くないのです




なお、統一の際にはかなり武力を使っています

熊襲や隼人もそのときに武力制圧しています






緋山: 実際に大和大権が、西日本を統一したのは

4世紀中頃また後半とされていて

4世紀末までに朝鮮に進出し

〔日本書紀によると朝鮮南部の任那(みまな)を支配下に置いたとされる〕


4~5世紀までに東北以北を除く

日本の大半を統一したとされていますが・・・




教授: はい、統一王朝という意味ではその通りです

その際には武力を使っています

ですが

それ以前も連合国家としての体裁は整っていました

(大和、出雲、吉備の連合)


そのために政略結婚を利用していた


まあ、神武天皇の頃は本当に小国で

戦を極力しないようにして

周辺諸国に認めさせるために

政略結婚を利用したんでしょうね


西から突然やってきた訳ですから


そうやって少しずつ影響力を広げていった

というのは想像しやすい





教授: 亡命中国人により建国された国家の1つが

大和朝廷を築いたのか?

という話にもどします



大和朝廷の考え方では

国民は、天皇の大御宝(おおみたから)であり

権力者は国民を支配はするけれども

天皇のお宝を預かっている身でもある

だから、搾取するとかは言語道断というわけです


ところが、邪馬台国も倭の奴国(ぬこく)も

中国に奴隷を送っている


それは大和朝廷の考え方とは完全に相容れない

その点でも、亡命人の国家が東征して

大和朝廷になったとは考えにくいです





権力(政治家)と権威(天皇)の分離

大和朝廷はそういう支配構造になっていますが

この考え方が100%

実行できてきたかどうかはともかく

日本はこれまで一貫して

この支配構造を死守してきています



現代でさえ、三権の長のうち

国会の議長はただの進行役なので

天皇は関わっていませんが

他二つ(内閣総理大臣と最高裁判所の裁判長)は

天皇の任命です


内閣総理大臣に関して国会が行うのは

あくまで「指名」です


この考え方はあまりに特殊すぎて

とても輸入されたものとは考えられないです


一般に国の指導者の正統性は

独立運動の功績や(宗教上の)神によって与えられています

人間(現人神)が与える国なんて相当に特殊です






緋山: 天皇陛下とかのDNAの鑑定はむりとしても

神武天皇のY遺伝子を受け継ぐ

旧皇族、竹田恒泰さんあたりの鑑定をして

グループDなのかОなのか判ると

そのあたりもはっきりするのでしょうけど


旧皇族の人たちが、事実であっても

皇室に不利のことを言う

というのはないでしょうし・・・・




教授: 面白いこと言うね

知りたくもあり、怖くもあり 笑






緋山: それから

「日ユ同祖論」なんてオカルトじみた話がありますが

ユダヤ人はハプログループJ です



日本人に対するY染色体の調査で

Jグループに属する人は見つかっていないといいます





日本人の起源 ハプログループ




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