緋山酔恭「B級哲学仙境録」 仏教編 密教とはなにか? まるわかり 密教 Ⅳ



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




密教 Ⅳ




理趣経



理趣経(りしゅきょう)は

金剛頂経の十八会の内の第六会にあたる

「理趣広経」の略本に相当する密教経典だといいます


真言宗で用いるものは、不空が、漢訳したものです


主に真言宗各派で読誦される常用経典といいます



空海と最澄は、当初は互いに助けあって

密教を弘めようと誓った仲だったとされます


ところが、最澄が弟子を通じて

不空の「理趣経」の注釈書である

「理趣釈経」の借覧(しゃくらん)を申し入れたところ

空海がそれを断り、2人は決別したという話があります



真言宗のいい分ですと

空海は「理趣経」の内容が

男女の性愛を悟りの境地と肯定するものと

曲解されないとは限らない


文を読むだけで解釈してもらっては困る

と考えたといいます



理趣経は、左道の立川流も曲解して用いたとされます





「十七清浄句」では男女の性行為や人間の行為を大胆に肯定しています


1、男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である


2、欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である


3、男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である


4、異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である


5、男女が抱き合って満足し、すべてに自由すべてに主となり

天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である


6、欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である


7、男女交合して、悦なる快感を味わうことも

清浄なる菩薩の境地である


8、男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である


9、自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である


10、ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である


11、思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である


12、満(み)ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である


13、身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である


14、目の当たりにする色(物質)も、清浄なる菩薩の境地である


15、耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である


16、この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である


17、 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である




真言宗の主張では

「十七清浄句」は、真言密教の「自性清浄」を端的に表したものだといいます




最後の部分は「百字の偈(げ)」と呼ばれ

人間の行動や考えや営みは本来は不浄なものではない

しかし、欲望を誤った方向に向けたり、自我にとらわれる場合が問題である

そういう小欲ではなく、慈悲の大欲を持ち

衆生救済の為に生きることが大切である

と説かれているといいます



最後の部分は

≪小乗教の小我に執着する態度に対し

大衆を我がコトとする「大我」を確立せよ≫ といったような話と一緒です





我(アートマン・霊魂)が

常住(不変・永遠)であり、楽であり、浄であるという

「常楽我浄」(じょうらくがじょう)

のバラモン教の思想を


釈迦は、四顛倒(してんどう)と批判し


無我(霊魂のような固定的不変的な自己の本質は存在しない)

無常(全ては空であり、一瞬一瞬変化してやまず常なるものはない)

苦(欲望を満たしてもさらなるd執着を生み苦を生む)

不浄(欲望にとらわれた自己は不浄である)

としました



なお、のちに釈迦の無我説が

我は存在しないと曲解されますが

「変わらない我はない=我に実体が無い」ということです




後世、大乗涅槃経において、釈迦の説をふまえた

仏の涅槃の(ねはん・悟りの穏やかな)境地としての

「常楽我浄」が説かれています


バラモン教の「常楽我浄」

を四顛倒というのに対して「四徳」と呼ばれます



小乗教の小我に執着する態度に対し

大衆を我がこととする「大我」を確立せよという立場から


「我」を、縁にふりまわされることのない主体的な自己

自由な境涯



「常」を、自己が永遠で行き詰まることがないこと

また断見(死ねば無という考え)

常見(霊魂のような不変的実体が永遠であるという考え)

の固定的な見方を超越した生死観



「浄」を、欲望、煩悩に汚されないこと



「楽」を、徳を具えて皆を安心させる境涯

としています







「十七清浄句」についてはどうでしょう?


直接的な意味は

人間はそもそも汚れたものでない

自性は清浄であって

仏や菩薩の境地に至ったならば

人間の営みは性行為を含めてすべて

本来は清浄なものであるなんて話です





大乗教の基本理念を表わす言葉に

「生死即涅槃」(しょうじそくねはん)と

「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)があります


「涅槃」も「菩提」も、≪悟り≫の境涯を意味し

「即」は、≪そのまま≫の意味で


「生死即涅槃」「煩悩即菩提」ともに、世俗を離れるのではなく

生死の苦しみの世俗の中にとどまって

人々を救済しつつ悟りの境涯を開くこと

をいいます


さらには、悟りの境涯は、生死の苦しみの世界

煩悩の欲望の世界を離れては存在しないことを意味します




天台教学的な立場では

生死の苦しみの境涯(九界)を断じて仏になるという

小乗、華厳や禅に対し

九界(煩悩)を断ずるのではなく

九界の身のまま(九界を開いて)仏界を顕現すること

をいいます



華厳宗や禅宗では「仏性」を全く清浄なものとし

煩悩は一時的に付着した塵(ちり)のようなもの

「客塵煩悩」(きゃくじんぼんのう)であると説きます


なので、煩悩を完全に滅して、はじめて仏になるという立場をとるのです


しかしこれでは人間は永遠に仏などなれないですよね(笑)

おとぎ話の世界です




さらに、「煩悩即菩提」は

地獄(怒り・苦しみ)、餓鬼(むさぼり)・修羅(慢・嫉)

といったエネルギーを

活動力、創造力、向上や発展のエネルギー

さらには利他のエネルギーに転換させる

といった意味にも解釈されたりします




「自性清浄」という表現では

「客塵煩悩」の「自性清浄」

と誤解を受けますが

十界互具の「自性清浄」

十界互具の「仏界」ということだと思います






しかし

そもそも釈迦の説というのは

執着が苦を生む→

全てが「空」(変化してやまない存在)→

「空」ゆえに実体がない→

実体のないものに執着しても意味がない→

これを悟れは苦が消滅し

涅槃(穏やかな悟りの境地)

に至れるというものでした




人間はそもそも汚れたものでない

自性は清浄であって

仏や菩薩の境地に至ったならば

人間の営みは性行為を含めてすべて

本来は清浄なものであるなんて聞くと

「人間的でいい教えだ」なんて思っちゃいますけど


要するに「利他」さえをしていれば

なにやっても身は清浄だって話です(笑)


仏教における利他とは、仏教に縁をさせること

つまり布教

日蓮系でいうところの「折伏」(しゃくぶく)

なわけです(笑)







聖天(歓喜天)



仏教、とくに真言密教、天台密教では

聖天(しょうてん)また、歓喜天(かんぎてん・大聖歓喜大自在天)

とよぶ双身像を祀ります


2体ともに象頭人身、1つの蓮華座の上に

2体が立って抱き合う形で表現されています

互いに相手の右肩に顔をのせています



2体は男女で、一方が魔王の化身

他方が十一面観音の化身

(観音が魔王の働きを封じるため女身に転じたもの)とされます

夫婦和合を象徴する性神や財神として信仰されています


密(真言密教)・台密(天台密教)には

歓喜天を本尊とした修法として、歓喜天法(聖天法)があります









聖天(歓喜天)は


ヒンズー教の最高神 シヴァと

妃の パールバディー(山の娘の意・ヒマラヤ山脈の神 ヒマバットの娘)

との長男 ガネーシャが、仏教に取り入れられたとされます


もともとは、ガネーシャは、障害神であったのが

あらゆる障害を除く善神へと変化したとされます

現在のヒンズー教では、富や愛の神として信仰されています




象頭の理由を説く神話は複数あり


パールバディーが身体を洗い、汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで

ガネーシャを生んだ


ガネーシャは、パールバディーの命令で、浴室の見張りをしていた

そこにシヴァが帰ってきたが、ガネーシャは父とは知らず入室を拒んだ

シヴァはガネーシャの首を切り落として遠くへ投げた


それが自分の子供だと知ったシヴァは、頭を探しに出かけたが

見つけることができなかったので、象の首を切り落として持ち帰り

ガネーシャの頭として取り付け復活させた




パールバディーとシヴァは、ヴィシュヌに祈りを捧げて

ガネーシャを得る


それを祝いに来たが神々の一人 シャニは

見た物を破壊する呪いをかけられていたため下を向いていた


パールバディーは、彼に遠慮せずに息子を見るよう言い

シャニが顔を上げると、ガネーシャの頭が破壊された


ヴィシュヌは、悲しむパールバディーのために

ガルダ(怪鳥)に乗って飛び立ち、川で寝ている象を見つけ

その首をガネーシャに取り付けた


といった話などです





片方の牙が折れている理由についても


シヴァが斧を投げたとき

反撃しては不敬であると思い、あえて一本の牙で受け止めたために折れた


籠で運ばれているとき、振り落とされて頭から落ちて折れた


夜道で転んだときに、お腹の中の菓子が飛びし

これを月に笑われたために、自らの牙を折って月に投げつけた


など複数の神話がみられるといいます





なお次男の スカンダは、韋駄天になっています


韋駄天は、四天王の1人で南方の守護神 増長天(ぞうじょうてん)

の8将の1人とされます


捷疾鬼(しょうしつそく)という夜叉が、仏舎利を奪って逃げ去った時

これを追って取り戻したという俗説から、足の速い神とされ

修行僧が魔に悩まされると、走ってきて魔を追い払うとされ

これを「韋駄天走り」と呼ぶようになったとされます



また、「御馳走」(ごちそう)という言葉は

韋駄天が釈迦のために、方々を駆け巡って

食物を集めたとの俗信に由来するといいます







東密の歴史



天台密教を「台密」というのに対し


真言宗=真言密教は

京都の東寺を拠点としたことから「東密」といいます



●  東寺

正式には、教王護国寺という

東寺真言宗の総本山

平安京遷都後まもない796年に

造寺長官の藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が建立。20数年後

嵯峨天皇より空海に下賜。空海は嵯峨天皇より、高野山の地も賜っている




空海入滅後、金剛峯寺(こんごうぶじ・高野山)や

東寺、高雄山寺(神護寺)

などの真言宗諸寺はそれぞれ独立した寺院としての

道を歩み始めましたといいます


その後、金剛峯寺と東寺のどちらを本寺とするか

という論争(本末争い)が起きます



観賢(かんげん・854~925年)が

東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、東寺を本寺とし

金剛峯寺を末寺とことが決まり

東寺長者が真言宗を統括することになったそうです



994年には、高野山は落雷による火災で、伽藍を焼失し

衰微し、無人の状態になるまでに至ったいいます


この状態が平安時代中期まで続きますが

藤原道長・頼通(よりみち)という藤原氏全盛期の2人が

高野山の寺社に参詣するしたことにより復興に助力



またこの頃から空海の入定(にゅうじょう)信仰が生じ

貴族の間に参詣が広まったとされ

平安後期には白河上皇が4度、鳥羽上皇が5度行幸しています


鎌倉期には多くの堂塔や塔頭(たっちゅう・子院)が建立されたそうです





鎌倉時代には、半僧半俗の高野聖(こうやひじり)の集団が発達します


高野聖とは、諸国をめぐり、念仏を唱え

空海と高野山の霊験を説いてまわった僧たちで

高野山の復興資金を勧進

〔かんじん・寺院や仏像を建立また修繕するのための寄付を募ること

またこれにより善を積ませ仏縁を結ばせる〕したのにはじまるといいます



蓮華谷聖、五室聖、萱堂聖(かやどうひじり)

千手院聖などの集団が誕生しています


但し、これらの集団の教義は、真言宗よりは浄土教に近く

念仏を中心とした独特のものであったといいます



萱堂聖は、普化宗〔ふけしゅう・禅宗の一派〕の祖とされる

心地覚心(しんじかくしん)を祖と仰いでいました


千手院聖は、時宗〔じしゅう・念仏宗の一派〕の祖

一遍により成立したとされ、勧進にすぐれていたため

経済力を得、室町期には高野聖のほとんどが、時宗化したそうです



高野聖は、高野山への参詣ととともに、納骨をすすめたので

高野山は「日本総菩提所」と呼ばれるようになったといいます

今でも高野山を訪れる年間数10万の参詣者の多くは

納骨か塔婆供養を目的にしているといいます







空海の入定信仰



空海が、現在も生きていると考える信仰です


入定(にゅうじょう)とは、本来は禅定(瞑想)に入ることをさします


これによって無念無想の境地に至ることです

それがいつからか空海の死をも意味するようになったといいます



空海は死んだのではない

空海は62歳のとき、手に大日如来の印を結んで

高野山の奥の院の石室中に入定したのであり今も生き続けている


入定留身(にゅうじょうるしん)して

生き続け人々の願いをかなえている

という話です



入定留身というのは

よくいう肉体は滅んでも霊魂は不滅というのではなく

肉体も不滅ということです


921年に、時の東寺長者 観賢が

弘法大師の号(醍醐天皇より贈られた諡号)をもって

空海の眠る石室を開くと

髪(30cmほど)と爪が伸びていたので髪を剃り爪を切って

朝廷より賜った法衣を着せたそうです



真言宗では、空海の入定伝説から高僧を生きているように埋葬する

ことも行われたといいます


石室に棺(ひつぎ)をおさめたあと小石を積んで石室を閉じることで

小石の隙間を通して空気を吸えるようにしたそうです


さらには、空海にならって即身仏(ミイラ)になることを

目指す者もあらわれたといいます




なお、水がなくて村人が苦しんでいたのを知った空海が

持っていた錫杖を岩に突き立るとこんこんと清水が湧いた

といった由来をもつ泉など


法大師の伝説をもつ名所旧跡も全国あちこちにみられます

弘法伝説については、北海道から鹿児島、さらには中国大陸にまで分布し

その数は3300前後もあるそうです





それから四国八十八ヶ所は


四国にある88ヶ所の弘法大師 空海ゆかりの霊場ですが

多くは平安中期以降、弘法大師への信仰が盛んになってから

霊場となったものだといいます


遍路(巡礼)は平安時代末には成立していたようです


また、ほとんどが真言宗系の寺院ですがが

天台宗系(4)、臨済宗系(2)、曹洞宗(1)

時宗(1)というように、別の宗派の寺院もみられます


88の数は?

煩悩の数で、これを滅して88の功徳を得るそうです



空海の言葉に

"私に会いたくば遍照金剛(へんじょうこんごう・空海の密号)

と呼ぶがよい。必ずその人とともにあり、その人とともに生きよう"とあり


御遍路さんと呼ばれる巡礼者は

「同行二人」〔どうぎょうににん・空海が同行する意〕

と書かれた笠をかぶります

また金剛杖は空海そのものとも言います



札所では、御詠歌〔ごえいか・

五七五七七の詩形式で、仏や祖師の徳

また教えの書かれた和文。巡礼や講で節をつれて唱える〕

を唱え、鈴を鳴らし、南無遍照金剛(空海の密号)

と書かれた札を納めるます



それから、巡礼者に対するお接待〔食物や金銭を巡礼者へ喜捨すること〕や

善根宿〔ぜんこんやど・宿を無償あるいは安い料金で提供する〕

の風習も残っています







満濃池と綜芸種智院



空海が、満濃池(まんのういけ)の修築をしたことや

綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という

庶民の教育機関を設立したこともよく知られています


満濃池は、香川県満濃町、丸亀平野を灌漑する

日本最大(周囲約2キロ)の溜池(ためいけ)です


8世紀に構築されましたが、何度が破損しています


3年以上かけても修築が完成せず、郡司が朝廷に願い出て

空海を築満濃池別当にむかえたそうです


空海の名声で人夫が集まり短期間で終了したそうです



なおその後も破堤を繰り返し

鎌倉から江戸初期までは放置され、なかに町ができていたそうです

1628年に再築されたといいます






綜芸種智院は、京都の東寺のとなりの

藤原三守(みつもり)の九条邸をゆずり受けて創設した

僧俗共学の私立学校て


当時、官立の大学・国学

および有力氏族のための私立学校は存在しましたが

入学には身分の制限がありました


これらで学ぶことが許されない人たちのために創設されたといいます



綜芸とはあらゆる学問、種智とは仏の智慧の意で

綜芸種智は、あらゆる学問を教えて

大日如来の智慧を広めるという意味だそうです


僧や俗人の教師が、顕教、密教、儒教を教授したといいます

また教師や生徒に衣食の支給も行ったとされます


空海、三守が没し、経営が困難となったため

創立から20年で廃校になっています







空海の「十住心」



空海は

法身(ほっしん)の大日如来が説いた教えを「密教」


応身(おうじん)や他受用身(たじゅゆうしん)の釈迦が

衆生の性質や能力に応じて説いた仮の教えを「顕教」

(密教以外の全ての経典)とし


大日経第一、華厳経第一、法華経第三というの教判を立てています


釈迦など大日如来の草履とりにすぎないというわけです





●  空海の「十住心」


低い方から


① 雄牛のように善悪や因果の法則を知らず、本能のままに生きる位


② 愚童のように人の道を守り、善をなしている位


③ 現世をいとい天界に生まれる楽しみを求めて修行している位


④ 五陰(ごおん・衆生を構成する要素)のみが実在であとは空である

と悟った声聞の位


⑤ 十二因縁を悟り、無明を断じた縁覚の位


⑥ 一切衆生を救済しようとする大乗の位


⑦ 全てが空ゆえ無自性であり不生不滅であると悟る三論宗の位


⑧ 一乗を説く天台宗の位


⑨ 究極的な無自性(一元論)を説く華厳宗の位


⑩ 秘密の真理を悟った真言宗の位







新義真言宗



真言宗(真言密教)は


事相〔じそう・教相が教学の分野であるのに対して

曼荼羅の建立法

壇 (だん・本尊を安置する大壇、護摩を焚くための護摩壇など)

の作り方、真言、印の結び方、護摩の作法など実践にかかわる分野〕

の面ばかりがもっぱら発展し

たくさんの事相の流派が生じました



これに対し教相面では、空海以来ほとんど発展をみせていません



教相の宗派の成立は、頼瑜(らいゆ・1226~1304)の立てた

「加持身(かじしん)説法説」による≪新義真言宗≫だけです


この流れを汲むのが、現在の智山派と豊山(ぶざん)派です




真言宗では、法身仏(ほっしんぶつ・真理の仏)である

宇宙の根本仏の大日如来が、衆生に直接、説法すると説きます


真理そのものの法身仏が説法するというのは、真言宗独自の教義です


この法身の大日如来を本地身(ほんじしん)また本地法身といいます



これに対し頼瑜は

「本地身は説法しない。真言の行者が三密加持により

大日如来と一体となったとき

行者に現れた大日如来(加持身)が説法する」

と主張したのです


これが加持身説法説です


これにより激しい論争が繰り広げられたといいます

バカバカしい(笑)



真理の仏が直接説法するなんていう発想はどこからきたのか?


大日経は、執金剛秘密主(しつこんごうひみつぬし)の質問に対して

金剛頂経は、一切義成就菩薩(いっさいぎじょうじゅぼさつ・釈迦)

の質問に対して

大日如来が直接答える形をとっていることからのようです




頼瑜は、根来寺〔ねごろじ・和歌山県。新義真言宗総本山〕を

本格的寺院にしています



根来寺は、戦国期には、2700余の子院・堂塔と

72万石という大大名なみの寺領と

さらに根来衆という鉄砲隊をもって知られる強力な僧兵集団を擁し

信長・秀吉に抵抗しましたが

秀吉の紀州攻め(1585年)により全山焼失しています



このとき、学頭であった 玄宥(げんゆう)と専誉(せんよ)は

高野山に逃れ、その後、それぞれ

智積院〔ちしゃくいん・京都市東山区。智山派総本山〕

長谷寺〔はせでら・奈良県。豊山派総本山〕を拠点に置きました


これにより新義真言宗は、智山派と豊山派に分裂しました



また、根来寺は、徳川家の庇護をうけて復興し

明治に至るまで、智山・豊山が住職を交代で座主(ざす)出したそうです


根来寺は、大戦後は両派から独立して、新義真言宗を称しています





なお、新義真言宗に対して

それまでの真言宗を古義真言宗といいます


こっちの方は、戦後、各派に分裂し

高野山真言宗、東寺真言宗、醍醐派

御室派〔おむろは・総本山は仁和寺〕、大覚寺派

泉涌寺(せんにゅうじ)派、善通寺派

山科派〔やましなは。総本山は京都山科の観修寺(かじゅうじ)〕

などに分かれています


〔 善通寺のある香川県善通寺市は空海の生誕の地

善通寺は唐より帰国した空海が

父母と先祖の供養のために建立。善通は父の名 〕







山門派と寺門派



天台宗では、円仁(3代座主。慈覚大師。山門派の祖)の系列と

円珍(5代座主。智証大師。寺門派の祖。空海の甥、または姪の子)の系列の

座主争いがおきます



なお、円仁は東北布教にも力を入れたようで

立石寺〔りっしゃくじ・山形県。通称 山寺(やまでら)

芭蕉が訪れ"閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声"の名句を詠んでいる〕


下北半島の恐山〔比叡山、高野山と並ぶ日本三大霊場。イタコのメッカ〕


金色堂で有名な中尊寺(岩手県平泉町)や毛越寺

日本三景松島の瑞巌寺(伊達政宗の再興)なども円仁の開祖とされます


円仁を開祖とする寺院は東北地方では93寺

関東地方で209寺も存在するという研究もあるようです





989年に、智証派(円珍派)の余慶(よけい)が

朝廷より20代天台座主に任じられると

慈覚派(円仁派)は勅使の登山を阻止し、宣命(せんみょう)を奪ったそうです


朝廷は再び勅使を遣わし宣命を下しますが

余慶は3ヶ月で座主を退いき京都の岩倉の寺院に移ったといいます


また、慈覚派は智証派の坊舎を破壊


ついに智証派千人(3千人とも)が比叡山を追われ

園城寺(おんじょうじ)に移ります


これにより山門と寺門に分裂したわけです




●  園城寺

滋賀県大津市。天台寺門宗総本山

通称 三井寺(みいでら)

三井寺の名は、天智(38代)、天武(40代)

持統(41代・女帝)の3帝が、産湯に用いたという泉が

境内にあることからの名だという

はじめ御井寺で、のちに三井寺に変化したとも




奈良時代から戦国時代にかけては、大寺が僧兵集団をかかえ

利権をめぐって互いに闘争をくりひろげたり

朝廷に強訴(ごうそ)したり、また、戦国大名と戦ったりしましたが

特に天台宗の山門派と寺門派の抗争は、よく知られています


互いに焼き討ちしあい、寺門派総本山の園城寺(おんじょうじ)は

山門派総本山の延暦寺によって

平安時代に4度、鎌倉時代に3度も焼かれています





天台宗は大戦中、山門派、寺門派、真盛派

〔しんせいは・本山は、滋賀県大津市の西教寺。室町時代の真盛が祖〕

が合同させられましたが


戦後、諸派や大寺が独立し

20余の宗派に分かれていきました


天台宗(延暦寺)、天台寺門宗(園城寺・おんじょうじ)

天台真盛宗(西教寺)の他

和宗(四天王寺)、聖徳観音宗(浅草の浅草寺・せんそうじ)

鞍馬弘教(京都の鞍馬寺)、本山修験宗(京都の聖護院)

金峰山修験本宗(きんぷせんしゅげんほんそう・吉野の金峰山寺)

などがこれにあたります







僧兵(そうへい)


僧兵は、寺社間の抗争や

朝廷への強訴(ごうそ)に従事した僧たちをいいます


とりわけ強大な僧兵勢力を誇ったのが

延暦寺(天台宗総本山・かつての山門派)

園城寺(天台寺門宗総本山・かつての寺門派)

興福寺(法相宗大本山)

東大寺(華厳宗総本山)で


比叡山延暦寺の僧兵は「山法師」(やまほうし)

園城寺の僧兵は「寺法師」(てらほうし)

興福寺と東大寺のそれは「奈良法師」

と呼ばれ、畏れられたといいます



平安末の白河法皇が

「朕(ちん)の心に従わぬのは、賀茂川の水

双六(すごろく)の賽(さい)、山法師」であると言ったのは有名です


賀茂川の水とは水害および天災

双六の賽とは博打(ばくち)の害です



興福寺にしても10世紀には、大和国を春日大社の神田だと主張し

在地領主を従わせ大和一国を寺領としていたといいます





四大寺の他にも

吉野や熊野、加賀の白山、

英彦山(ひこさん・福岡と大分にまたがる)

大山(だいせん・鳥取県)などの修験道で知られる諸山の寺社や


多武峰(とうのみね・奈良県桜井市・

明治の神仏分離で仏教色は除かれ談山神社)

醍醐寺(京都市・真言宗醍醐派本山)


鞍馬寺(京都市・もと天台宗で戦後独立し鞍馬弘教本山)

根来寺(ねごろじ・和歌山。新義真言宗総本山)

などの僧兵が知られています


清水寺(北法相宗大本山)は、京都の南都(奈良)勢力の拠点として

比叡山としばしば抗争し、兵火にかけられています




朝廷への強訴(ごうそ)ってどのようになされたの?


平安から室町期にかけて、意に満たないことがあると

延暦寺は、比叡山の守護神である日吉(ひえ)大社の神輿を

興福寺は、春日大社〔興福寺は藤原氏の氏寺。春日大社は藤原氏の氏神〕

の神木(祭神の御神体)を奉じて京都に入り、強訴したといいます




多武峰(とうのみね)は、大化の改新で有名な藤原鎌足の長男で

僧侶の定恵(じょうえ)が

鎌足を弔うため十三重塔を建てたことにはじまるようです

また鎌足の次子の不比等(ふひと・右大臣。光明皇后の父)は

多武峰に鎌足を祀る談山(だんざん)神社を建立したそうです


平安期には天台宗に属し

興福寺(法相宗)と争いしばしば焼失したといいます


多武峰も興福寺も

ともに藤原氏の先祖を祀る寺なのにおかしな話なのですが(笑)



多武峰のおもしろいのは

山が鳴動(めいどう)して

鎌足の像にひびが入ったといっては

鎌足の像を奉じて、朝廷に強訴したという話です


ヤクザ屋さんですよ(笑)




朝廷は要求を受け入れるとともに

しばしば武力鎮圧も行いましたが成功しなかったそうです


有名なものとしては1180年に、平重衡(しげひら・清盛の五男)が

清盛に対抗した興福寺や東大寺を焼き討ちにした

「南都焼き討ち」がありますが

その後も僧兵勢力は、巨大なまま存続したのです



南都焼き討ちは、奈良の寺院勢力(主に東大寺・興福寺)と

平家軍による戦いであり

戦火が拡大し興福寺・東大寺の建築物や仏像を焼き尽くしたといいます



そして信長、秀吉、家康に至ってようやく成功し

兵器を没収し、寺領を削減することができたそうです




比叡山の焼き討ちは

1517年、信長により全山焼かれ、数千人が殺害されたといいます


1585年には、秀吉による紀州攻めが行われ

根来寺全山が焼き討ちされたのも有名です



また、信長や家康といった戦国大名は

浄土真宗(本願寺)の門徒による一向一揆にもなやまされました







薬師如来



薬師如来は、瑠璃光を以て衆生の病苦を救う仏

無明の病を直す仏です


「薬師瑠璃光如来本願功徳経」(薬師経)と

「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」(七仏薬師経)に説かれている

以外には2、3の経典に散説されるだけであるそうですが


日本では医薬の仏として

如来には珍しく現世利益的な信仰を集め

薬師寺など薬師如来を主尊とする古寺も多いです


薬師瑠璃光如来、大医王如来、医王善逝(いおうぜんぜい)とも称します


東方浄瑠璃浄土を住処とし

東方の如来という事から、阿閦(あしゅく)如来とも同一視されます


形像は、左手には薬壺(鉢という説も)を持つ像と、持たない像とがあります

日光・月光菩薩を脇侍とし、眷属(けんぞく)には十二神将がいます




「薬師経」には、薬師如来が、菩薩であったときに誓った

≪十二の大願≫が説かれています


全ての人を仏にする

全ての人を明るく照らし、善行ができるようにする

全ての人が悟りを得るために必要なものを手に入れられるようにする

全ての人を大乗仏教の教えに導く


全ての人に戒律を守れるように援ける

全ての人の生まれつきの身体上の障害や苦痛、病気を無くす

全ての人の病を除き窮乏から救う

女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く


全ての精神的な苦痛や煩悩から解かれるように援ける

国法による災いなどの災難や苦痛から解放する

全ての人が飢えや渇きに苦しむことがないようにする

全ての人に衣服を与え、寒さや困窮から救済する





「七仏薬師経」には、薬師如来が

衆生を救うために

姿を変えて現れるという七つの姿が説かれています


善名称吉祥王如来  宝月智厳光音自在王如来

金色宝光妙行成就王如来  無憂最勝吉祥王如来

法海雷音如来  法海勝慧遊戯神通如来

薬師瑠璃光如来





真言宗では顕教系の如来とされ、あまり重視されないそうで

両界曼荼羅にもみられません


一方、天台宗では、釈迦如来と一体とされるそうですが

久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来と一体であるとする考えと

釈迦如来の衆生救済の姿というする考えがあるようです



日本の天台宗で、薬師如来が本尊の1つにされた理由として

天台大師智顗(ちぎ・中国の天台宗の祖)が、薬師如来の再誕であることと

法華経の如来寿量品の「良医病子(りょういびょうし)の譬え」からだとされます



薬師如来7体を並べて、延命・息災・安産などを祈る

修法(しゅほう)を、七仏薬師法といいます


3代座主の円仁(794~864)から始まったとされ

良源(りょうげん・912~985.。天台宗中興の祖)が

摂関家の安産祈願をしてから広く知られるようになったといいます





 
 薬師寺 薬師三尊像  国宝

左脇侍(向かって右)に日光菩薩、右脇侍に月光(がっこう)菩薩





● 良医病子の譬え



法華経の如来寿量品においての釈迦の説法に出てくる話


良医に100人の子がいた

子供たちは、良医が他国に行っている間に

他人のすすめた毒薬を飲んで、苦しんでいた


良医が戻り、薬を調合して子供たちに与えた

本心を失わなかった子供はすぐにこれを飲んで治ったが

本心を失ってしまった子供は

疑って薬を飲もうとしない


そこで良医は「薬をここに置いとくからね。飲んでおきなさい」

と言って、他国へ行く

さらに使いを送り「おとうさんは死にましたよ」と伝えさせた


子供たちはそれを聞いて嘆き悲しみ

本心を失っていた子供も本心を取り戻し

薬を飲んで病気を治すことができた


これを聞いて良医は喜んで帰宅した


良医とは久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦で

毒薬とは外道や小乗教であり

薬とは法華経である



日蓮仏法では、良医は日蓮で、病子は末法の衆生で

毒薬は念仏や禅や真言で、薬とは、南無妙法蓮華経であり

本心を失った子供とは、間違った教えを信じて

正法を謗(そし)る者ということになる




この譬えを話した釈迦は

このように続けます


≪自分(釈迦)も良医のように、衆生を救済するために

方便により涅槃に入る(死ぬこと)が

本当は、皆さんのもとに常住しているのですよ≫


≪皆さんが心から仏を見たいと願い

身命を惜しまなくなったとき

私は多くの弟子とともに

今説法しているこの霊鷲山(りょうじゅせん)に出現します≫と



本来、仏の寿命は永遠だが

仏が常住していることを知ると、衆生は安心して努力しなくなる

だから方便によって仏は死を現ずる(方便現涅槃)

だけど本当は、あなた方と常に一緒に存在しているのです

ということです






● 金毘羅信仰



宮比羅(くびら・宮毘羅、金毘羅、金比羅とも書く)は

水運の神で、薬師如来十二神将の筆頭とされる


薬師如来十二神将の金毘羅  転写




ヒンドゥー教の神話に登場する

ガンジス川の怪魚 クンピーラが仏教に取りこまれたもの


クンピーラは、象のような鼻、とぐろ巻く尾を持つとあるので

イルカやサメ、ワニの類ともされ

漢字では「鰐魚」などと書かれる




香川県琴平町の金刀比羅宮は

全国約600社ある金刀比羅神社・琴平神社の総本宮である


金毘羅信仰は、一種の竜神信仰で

船海守護の神、海難を救う神として知られる



江戸時代中期には、信仰は全国の庶民の間へと広がり

各地で金毘羅講が組織されて

金毘羅参りが盛んに行われるようになったという





金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり

とりわけ2つが知られている


1つは、もともと象頭山(ぞうずざん)には真言宗の松尾寺あり

鎮守神として金毘羅が祀られていた


修験道開祖の役小角(えんのおづの・神変大菩薩)が

象頭山に登ったさい、金毘羅の神験にあい

この鎮守神を神仏習合させ「金毘羅大権現」としした


「権現」とは、インドの仏、菩薩が、日本の衆生を救済するため

権(か)りに、神として現れた という「神仏習合思想」による神格



もう1つは、大物主神(おおものぬしのかみ)が

象頭山に行宮をおいた跡に、琴平神社を祀ったのに始まり

中世以降に、神仏習合思想により

仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現となった



金毘羅大権現は、不動明王(毘沙門天、十一面観音の説も)

を本地仏(本来の姿)としたという



なお、社寺としての金毘羅権現では、十一面観音を本尊として

不動明王、毘沙門天の2体は脇侍仏であったようである




明治元年の神仏分離令によって

松尾寺金光院は廃寺に追い込まれ

国家神道の琴平神社(すぐに金刀比羅宮と改称)となり

主祭神は、大物主神と定められた



大物主神は、大和国一宮の

大神神社(おおみわじんじゃ・最古の神社とされる)の主祭神で

大国主命が国造りを成功させるために三輪山に祀った神






薬師如来の十二神将は


宮毘羅大、跋折羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底羅(あんてら)

末爾羅(まにら・あにら)、珊底羅(さんてら)

因陀羅(いんだら・帝釈天)、波夷羅(はいら)

摩虎羅(まごら)、真達羅(しんだら)、招住羅(しょうずら)、毘羯羅(びがら)

の各大将



なお、跋折羅は、金剛力士  末爾羅は、風天

因陀羅は、帝釈天


摩虎羅は、摩羅伽(まごらか・蛇頭人身で無足腹行の大蛇神。楽神という)

真達羅は、 緊那羅(天の伎楽神。乾闥婆とともに帝釈天の前で奏する)

のことのようです







左道(タントラ)



密教の最後期が、左道密教すなわちタントラ仏教です

雑密(ぞうみつ)、純密に性的要素が加わった修法(しょほう)の誕生です


通常の右道密教に対し、いかがわしいもの、堕落したものの評価がなされ

左道密教と呼ばれています



中国、日本の密教は、雑密、純密が基本となりましたが

チベット、ネパールでは左道密教が展開したといいます


左道密教は10世紀頃から盛んとなったようです





左道密教では、万物を発動させる

女性原理を般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)とします


般若波羅蜜とは、≪悟りを生む智慧≫で

インドの般若経系仏教では

仏を生み出すもとであることから仏母(ぶつも)とも称したといいます



密教では、仏眼仏母(ぶつげんぶつも・

仏眼は、仏眼を通して智慧を得ることから)として神格化されています



この般若波羅蜜・仏母を象徴する生身の女性(大印)と

性的に瑜伽(ゆが・ヨガ。結合)することで

自らが中性的な真理となり、悟りに到るとされたようです




日本でも、真言宗立川流(たちかわりゅう)というのが

男女交合の体験、すなわちオーガズムが即身成仏として

正統派から聖典を焚書(ふんしょ)処分にされるなど

弾圧をうけ、撲滅した歴史があります






● 真言宗立川流(たちかわりゅう)



現在の東京都立川市近郊で発生した密教の教派


タントラと、陰陽二元論を中心とした陰陽道を

合体させたたものだという


開祖は、鎌倉時代の 仁寛〔にんかん・?~1114〕とされます



仁寛は

左大臣の源俊房の子で

1113年に、輔仁親王を皇位に就けるべく

鳥羽天皇の暗殺を図るも事前に露見。伊豆に流罪


名を蓮念と改め、真言を伝道

また、武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮と知り合ったといいます


翌年、伊豆葛城山の南東の城山(じょうざん)の頂から

身投げしたとされますが

生涯について疑問点が指摘されています



その教えを、見蓮らが発展させ、立川流を確立し

さらに、南北朝時代に

文観〔もんかん・1278~1357。真言律宗の僧〕が大成したとされます



文観は、後醍醐天皇に重用されて

醍醐寺座主・天王寺別当となりますが

鎌倉幕府の調伏などを行っていたことが発覚し

硫黄島(鹿児島県)へ流罪になり

鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り、東寺長者、大僧正となっています



立川流に関わる文献は、ほとんどが後世の弾圧により失われており

詳細は明らかでないようですが「髑髏(どくろ)本尊」がよく知られています



髑髏本尊は

貴人の髑髏1000個を集める

髑髏表面には、性交のときの和合水

(精液と愛液の混ざった液)を幾千回塗って

金箔や銀箔を貼つける

髑髏内部には、曼荼羅を描き、呪符を入れる


この髑髏の前で性交し、真言を唱え続ける

こうして7年(8年とも)間かけて完成するといいます



髑髏本尊がどこまで事実なのか疑問とされています


立川流の秘儀や作法などが述べられた典籍がほとんど焚書となり

存在せず、立川流に性愛教義があったとする主要な論拠は

この流派を邪流として非難した側の文書にあるそうです




なお、表向き(髑髏本尊が事実なら)には

「如意宝珠」(意のままに願いをかなえる宝)

を中心に


左右に「不動明王」と「愛染明王」を配し

の三尊を本尊として祀ったそうで


この両明王を合一させた「両頭愛染明王」

(りょうずあいぜんみょうおう)を祀ることもあったそうです





それから、日本の天台宗には

摩多羅神〔またらじん・

阿弥陀経および念仏の守護神とされる中国由来の神

引声(いんぜい)念仏を伝授された円仁が

中国から帰国する際、船中で感得〕を本尊とし


天台宗の奥義である

「一心三観」を伝授する玄旨壇(げんしだん)という灌頂と


阿弥陀仏の像を壇場に安置し、阿弥陀の来迎往生を観じて

生死の根源を見極め


衆生の命の根源は一念三千にあると悟り

「一念三千」を自己の生命に実現させる

帰命壇(きみょうだん)という秘儀

があったといいます



この2つをあわせて「玄旨帰命壇」(げんしきみょうだん)

というそうですが

「玄旨帰命壇」はのちに、立川流や、本覚(ほんがく)思想の影響を受け


性交の儀式によって、一念三千の実現を得るものと解釈されるようになり

これをもって一派も形成されたそうです


のちに「玄旨帰命壇」は邪教とされ、典籍は焼却され

江戸時代には絶滅したとされます




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