緋山酔恭「B級哲学仙境録」 三島由紀夫と天皇の神格



B級哲学仙境論


三島由紀夫と

天皇の神格






三島由紀夫と
天皇の神格





三島の文化防衛論



三島由紀夫〔1925(大正14)~70(昭和45)〕は

ノーベル文学賞候補にも上ったほどの小説家ですが

俳優として映画にも出ています


昭和44年に公開された勝新太郎主演の映画「人斬り」では

薩摩の人斬り 田中新兵衛を演じ


新兵衛が割腹自殺する場面がありますが

三島は、この映画の公開の翌年、本当に自決したのです


ちなみにこの映画には、武市半平太訳役で仲代達矢

坂本竜馬役で石原裕次郎が出ています



三島は、剣道5段に空手初段、趣味でボクシングもやり

ボディービルで肉体を鍛え上げ

「ボディビル哲学」なんてものも執筆したらしく

ナルシストとしても知られます


この映画でも、切腹シーンでその素晴らしき肉体を披露しています




政治活動家でもあり

民兵組織(正規の軍人ではない民間人を

軍事要員として編成した武装組織)

である「盾の会」を結成し


〔 盾の会… 定員100名。左翼革命勢力に対抗することを標榜し

民族派の学生を中心として1968年に結成。71年に解散 〕



その楯の会の隊員4名と共に

自衛隊市ヶ谷駐屯地(現 防衛省本省)を訪れ、総監を監禁

部屋の前のバルコニーで檄文をまいたあと

演説しクーデターを促し、そのあと割腹自殺を遂げています



演説の大半は、旋回する警察のヘリコプターの音にかき消され

ようやく聞きとれた言葉に対しても

自衛隊の隊員は、野次とからかいで答えたといいます



「共に起ち、義のために死のう」という言葉に対しても

誰一人として三島のもとに駆け寄ろうとはしなかったわけです


結局、30分間予定されていた演説は

7分間の茶番で終わり


三島は型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し

総監室に姿を消し、割腹自殺しました



なお、このとき森田という盾の会の隊員も

三島のあとに割腹し

( 森田は、三島の介錯人として

三島の首に二太刀入れたが落ちず

彼より大柄な隊員が、三島の首は落としたという )


残った三人は総監の縄を解き

警官や警務隊におとなしく取り押えられたそうです





三島はどんなことを訴えたの?


戦力放棄をうたった憲法を否定し

クーデターを呼びかけたのです


「自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ

日本を守ること

日本を守るとはなんだ

日本を守るとは

天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである」



「いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ

自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ

諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ」



「諸君は武士だろう。諸君は武士だろう

武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ

どうして自分の否定する憲法のため

自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ

これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ」



「今の憲法は政治的謀略に

諸君が合憲だかのごとく装っているが

自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ


憲法というものは、ついに自衛隊というものは

憲法を守る軍隊になったのだということに

どうして気がつかんのだ」


というふうにです







三島由紀夫は「文化防衛論」で

こんな↓ことを主張しています


【 ただ文化を守れということでは非常にわかりにくい

文化、文化というとそれが

お前自身の金儲けにつながっているからだろう

といわれるかもしれない


文化とは特殊な才能を持った人間が

特殊な文化を作り出しているのだから

われわれには関係ない


必要があれば金で買えばいい

守る必要なんかない-と考える者もいるだろう



しかし文化とはそういうものではない

昔流に表現すれば

一人一人の心の中にある 日本人の精神を守るということだ


しかし、その純粋な日本精神は、目に見えないものであり

形として示すことができないので

これを守れと言っても非常にむずかしい


だから私は、文化というものを、そのように考えない

文化とは目に見える

形になった結果から判断していいのではないかと思う



したがって日本精神というものを知るためには

目に見えない、形のない古くさいものと考えずに

形のあるもの、目にふれるもので

日本の精神の現れであると思えるものを並べてみろ

そしてそれを端から端まで目を通してみろ

そうすれば自(おのずか)ら明らかになる


そしてそれをどうしたら守れるか

どうやって守ればいいかを考えろ、というのである



歌舞伎、文楽なら守ってもいいが

サイケデリック

(麻薬による幻覚を連想させるような音楽・サイケデリックロックなど)や


"おらは死んじまっただ"

(ザ・フォーク・クルセイダーズというグループ歌手による

ヒットソングの「帰って来たヨッパライ」のこと)などという

頽廃的な文化は弾圧しなければならない


というのは政治家の考えることだ


私はそうは考えない

古いもの必ずしも良いものではなく

新しいもの必ずしも悪いものではない


江戸末期の歌舞伎狂言などには

現代よりもっと頽廃的なものがたくさんある

それらをひっくるめたものが日本文化であり

日本人の特性がよく表れているのである


日本精神というものの基準はここにある

しかしこれから外れたものは違うんだという基準はない

良いも悪いも、あるいは古かろうが新しかろうが

そこに現れているものが日本精神なのである



したがってどんなに文化と関係ないと思っている人でも

文化と関係ない人間はいない

歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが退廃的であっても

そこに日本人の魂が入っているのである 】



このようなつかみどころのない

話のあとに




【 "何を守るか"ということを考えなければならない

私はどうしても第一に、天皇のことを考える


天皇のことを言うと、すぐに右翼だとか

何だとか言う人が多いが


憲法第1条に掲げてありながら

なぜ天皇のことを云々してはいけないのかと反論したい



天皇を政治権力とくっつけたところに弊害があったのであるが

それも形として政治権力とくっつけたことは

過去の歴史の中で何度かあった

しかし、天皇が独裁者であったことは一度もないのである



それをどうして、われわれは陛下を守ってはいけないか

天皇に忠誠を誓ってはいけないのか

私にはその点がどうしても理解できない



ところが陛下に忠誠をつくすことが、民主主義を裏切り

われわれ国民が主権もっている国家を裏切るのだ

という左翼的な考えの人が多い


しかし天皇 日本の象徴であり

われわれ日本の歴史、大古から連続してきている

文化の象徴である 】


と述べています




要するに、最初からこれが言いたかったわけです

そのために、ぐたぐたな文化論をもちだしてきたに

すぎないことが分かります





また


【 武士はふだんから武道の鍛錬をいたしますが

なかなかなまなかのことでは

戦場での華々しい死なんてものはなくなってしまった

( 中 略 )


そういうふうに武士であっでも

結局死ぬチャンスがつかめないで

死と言うものを心の中に描きながら生きていった



そういうことで仕事をやっていますときに

なんか生の倦怠と言いますか

ただ人間が自分のために生きようとするだけでは

卑しいものを感じてくるのは当然なことだと思うのであります



人間の生命というのは不思議なもので

自分のためだけに生きて

自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないんです


というのは人間はなんか理想なり

なにかのためというのを考えているんで

生きるのも自分のためだけに生きるのにはすぐ飽きてしまう



すると死ぬのもなにかのためというのが必ず出てくる

それが昔言われた「大義」というものです


そして大義のために死ぬということが

人間のもっとも華々しい

あるいは英雄的なあるいは

立派な死に方だと考えられていた


しかし今は大義がない



これは民主主義という政治形態が

「大義」なんてものがいらない政治形態ですから

当然なんですが


それでも心の中に自分を超える価値が

認められなければ

生きていることすら無意味になる

というような心理状態がないわけではない 】






明治から昭和の敗戦まで存続した国家神道は

プロパガンダ(政治による思想宣伝)として

「悠久の大義」なんて言葉を使いましたが


「大義」(自分の命を超える価値)という言葉は

いまでも、神道団体の教祖や、国粋主義者による

啓蒙(無知の人を啓発して正しい知識に導くこと)運動

の中心にあります





三島の没後40年にさいして

猪瀬直樹元東京都知事(当時副知事)は

テレビのインタビューでこのように↓語っています


≪ 三島は「無機質な 空っぽな ニュートラルな 中間色の

富裕な抜け目のない経済大国が極東の一角に残るだろう」と言った

(40年たった今)まさにその通りになった

この経済大国が、寄る辺がなく揺れている

何の価値の根拠もなく存在している

尖閣諸島だなんだかんだと言っても何の対応もできない

三島は見抜いていた ≫


≪ 価値の中心はどこにあるのか

日本国における正義というものは何なのか

そういう基本的な問いかけをしている ≫


≪ 天皇というのは

たぶん彼にとって1つのトランプのジョーカーみたいなもの

これだっていうものがない

とりあえず天皇と言っている。しかしなきゃいけない ≫


≪ 日本に価値の中心軸がない

それをどうやって作るについての答えは

彼は突きつけて自決してしまった

40年間それを考える時間があったはずだが

日本人は余り考えていなかったようだ ≫


≪ それを自分たちで作れない限りは

たぶん日本はそのまま漂流していくだけ ≫





猪瀬氏のこの話ですが

日本、あるいは日本人が

価値の根拠ひいては存在の根拠なくして存在している


幻想ですよ(笑)



東京大空襲は一般の木造家屋を狙った戦争犯罪です

原爆は言うに及ばず


こうして米国は

日本が向こう百年立ちは上がれないように焦土化し

GHQは日本が崩壊するように色々と手を尽くしました



しかし、数十年で経済大国ですよ


現在まで残っている問題(歴史改ざんなど)はあるとはいえ・・・





戦前、戦中の日本人は「万国無比の神国」とか

「悠久の大義」なんて板きれにしがみつき

精神の河を渡り

≪自分の根拠≫を得ていたわけです



戦争が終わると、日本人は

経済力という「力」に価値の根拠を求め

現実の河を渡り

≪現実的な幸福≫を目指したのです


だからこそ「経済大国」になれたわけです



それに対して

三島は「精神の河へ戻りなさい」と言ったのです




三島は「無機質な 空っぽな

ニュートラルな 中間色の 富裕な抜け目のない

経済大国が極東の一角に残るだろう」と言ったそうですが


宗教とか民族とか文化とかに対して

ニュートラルな国民だからこそ

自由に色々と考えることができるし


それが国家の発展につながった側面も

大いにあるはずです





民族の歴史や宗教の教えを価値の根拠、存在の根拠として

民族同士紛争を続けている国と、日本とどっちがいいのか?


答えはじつに簡単ですよ(笑)






また、日本人は

≪経済大国の日本≫ばかりでなく

富士山をはじめとした日本の自然

侘び寂のを基盤とした文化

そういったといったものにも

ちゃんと価値の根拠を認め

誇りと自信をもって生きてきたはずです








天皇の神格



なお、戦後、市民にはじめて

天皇の人間的な側面や文化的な側面が明らかにされましたが

三島に言わせると


≪ 今の天皇制は「やっぱり昭和天皇はとてもご立派だった

天皇のおかげで戦争がすんだ」

という考えにのっかっている


そして「やはり天皇は人格者でいらっしゃる」という考えがある


しかしそうした天皇の人気と天皇制とはなんら関係がない


天皇と言うのは、穀物神であり、個人的な人格とは二次的なもので

大嘗祭(だいじょうさい)によって

天照大神(あまてらすおおみかみ)の霊をいただき、天照と直結する


そうした非個人的な性格を天皇から失わせたということが

戦後の天皇制のつくり方における最大のあやまりだった ≫


ということです



この点についてはまるっきり賛成です

三島のいうとおりなのですから(笑)



なによりも、神的な性格を排除してしまったたから

今の天皇制が、つまらなくなっちゃったのです






≪自由の国≫を標榜する

アメリカという国ですら

国家と国民の関係は、ギブアンドテイクです


国民は、国家より権利を認められる代わりに

義務を果たす



つまり、いざ、戦争となったら

国家のため、愛する家族のために

死ぬ覚悟が、義務として要求され


それに応じることで

はじめて国民として認められるというのです




逆に言えば

これに応じれば

黒人でも国民として権利を得られるわけですから

多民族国家としては、合理的な考えと言えます




では「いざ、他国から攻められたときに、日本はどうするのか?」


アメリカのような合理的な考えのもとに

国民をまとめられるのでしょうか?


ちょっと疑問ですよね



日本人の国民性から思うと

やはり、いちばん自然なのが

天皇陛下を中心に、まとまることです


結局、国難がおきたら

そこに行きつくわけです



国粋主義者でも、神道家でもない

私ですらそう思いますよ



なぜなら

日本の歴史、文化が

天皇の上にのっかっているのですから・・・





天皇論 で このように↓書きました



我々は奈良に行ったら

ふつうに春日大社に参拝に行きますね

そのとき祭神なんて意識しません



しかし、調べてみると

天児屋命(あめのこやねのみこと)といって

中臣氏とそこから分かれた藤原氏の先祖で

藤原氏の氏神で

祝詞(のりと)の神様で

天照大神の天岩戸隠れのときに活躍し

天孫降臨のとき、邇邇芸命につきしたがい

天上界からきた神々の1人なんだ・・・

と理解するわけです



このとき「天皇」がいるといないのでは

どうですか?

感じ方が違いますよね

情緒的な話ですよ・・・



「天皇」がいれば「神話」や「歴史」

また「神社」といった文化が生きてくるわけです

「初詣」や「お祭り」といった習俗が生きてくるわけです





もちろん、天皇がいようがいまいが

我々の暮らしには

なんら問題ないでしょう



ただ、日本を楽しんで死んでいきたいですよね

せっかく日本に生まれたわけですから・・・



「天皇」という制度があるから

こうやって書いていても

「ちょっとは意味あることをしているんだろうな-」

という意識がもてるんですよ

自己満足でも(笑)




また「天皇制があーだ」

「戦争責任がこーだ」と語ったとき

意味あるモノになるわけです


神話を読むにしても

神社の歴史を調べるにしても

天皇という存在があれば、自分の意識として違ってくるのですよ



つまり天皇という存在は

日本という国に対する学術的意欲をもおこさせる存在でもあるわけです

第二次大戦を含めてね・・・



こういうことが分かっていないと

「天皇制は民主主義の理念にふさわしくない!!」

って話になっちゃうわけです





例えば、小さな丘に祀られている祠(ほこら)から

里山や田んぼといった田園をながめる自分を想像してください


日本の田園風景に溶け込んでいるんですよ

こんな小さな祠でさえ・・・・



創価学会の信者が

「日蓮以外の宗教は不幸の原因です」

「今の不幸は、過去世に間違った宗教をしていたからです」

なんていったところで


こうした情緒的なモノを撲滅することはムリなんですよ

いくら池田大作さんが立派でえらい人であっても・・・





天皇制が「正しい」とか

「間違え」とか

「近代国家にふさわしい」

「ふさわしくない」とか

また「天皇を尊敬すべきだ」とか

「すべきじゃない」とか

そんな話でなく



天皇という基礎のうえにのっかっている

あらゆる文化的な存在

また身近な自然に

我々はなんらかの情緒的な感情を感じつつ

この日本にこうしてあるということなのです






天皇がいようがいまいが

我々の暮らしには

なんら問題ない と書きましたが


いざ、他国から攻められるなんて

国難がおきたとき


国民をまとめられる

≪ジョーカー≫があるとしたら


天皇陛下しかいないはずです



そんなジョーカーのジョーカーたるべき

なによりも大切な

神的な性格を排除しちゃったわけです


三島のような国粋主義者でない

私ですら、これだけは

洒落にならない話なのですよ








菊と刀



三島は、≪文武両道≫という言葉が好きだったようです


≪文武両道≫というとは

文は学問、武とは武道、現代的に言えばスポーツで

文武両道とはこの2つの道に優れているという意味ですが


三島のいう「文」とは文化、「武」とは武士道で

そして彼は、両者が一体として

日本人の精神の中に息づいていると考えていたようです



三島は「文化防衛論」において


【 日本文化における菊と刀(かたな)は

別々の文化ではなく、一体のものであった

アメリカの占領政策は、「菊と刀」の永遠の連環を絶つことだった 】

と述べています



「菊」とは華道とか茶道を、「刀」は武士道を意味します




ちなみに「菊と刀」という言葉は

アメリカの文化人類学者

ルース・ベネディクト(1887~1948・女性)による

アメリカ文化人類学史上初の

日本文化論「菊と刀」からきています




彼女のいう「菊」というは、天皇(菊)への大義なの?

それとも、花鳥風月や雪月花という

日本人の自然に対する美意識を象徴したものなの?



天皇という意味でも、また、花鳥風月や雪月花でもなく

「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し

菊作りに秘術を尽くす」とあるから


単純に芸能や芸術的な文化のことのようです


「刀」とは「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」とあります




この本は「恩」「義理」といった日本人独特の表現を手がかりに

日本文化の分析を進めているとされ


戦後日本の思想界に「恩」「義理」「恥」といった

観念の解釈について

大きな波紋を投じたとされています



また、西洋文化と日本文化とを対極において

比較していることに対する批判もありますが


≪ 欧米の文化が、自己の内面に善悪の絶対基準をもち

内的な良心を意識する「罪の文化」であるのに対し


日本の文化は、内面に確固たる基準を欠き

他者からの評価を基準として行動が律されている「恥の文化」である ≫

という話は面白いですね



子供が悪いことをしても

日本人は「悪いことだからやめなさい」と諭すのではなく

「恥ずかしいからやめなさい」と叱る


そうなると価値判断、善悪判断の基準は

≪世間体≫(せけんてい)ということになり

絶対的な善悪の基準はないということになります




ただ、日本という国が、善悪判断の基準をもたないとなると

どうして犯罪率が少ないのか? ということになります



日本人の場合

「恥」とか「恩」とか「義理」とか「人情」

あるいは「因果応報」とか「無常」とかいった

言葉によって組立てられた世界の中に


善悪の中心軸、価値判断の中心軸

道徳や倫理の中心軸があって


それが西洋の神の教えや戒律の役割をしてきた

と言えるのではないでしょうか?




西洋の物語は、シンデレラや、白雪姫や

眠れる森の美女がそうであるように

ハッピーエンドで終わりますが


かぐや姫にしろ、つるの恩返しにしろ、浦島太郎にしろ

最後は「無常」で締めくくられます


「無常」(常なるものはない)

「空」(全てが一瞬一瞬変化している。変わらないものはない)

は、仏教の悟りの1つです


こうした物語の世界にも

日本人独特の倫理観や美意識、死生観がみられます




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