緋山「B級哲学仙境録」 仏教編 日蓮を考察する ② さまざまな法華経



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




日蓮を考察する ②




さまざまな法華経



法華経には、釈迦が説いたとされる28品の法華経の他に

日蓮の説いた七文字の法華経=南無妙法蓮華経

それに、不軽菩薩の24文字の法華経というのもあります



法華経の 常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつぼん・第20品)に

悪世に24文字の法華経を説き

人に対し礼拝することをやめなかった

不軽菩薩(常不軽菩薩)の話があります



この不軽菩薩は会う人に

「我れ深く汝等(なんじら)を敬う。敢(あ)えて軽慢(きょうまん)せず

所以(ゆえん)は何(いか)ん。汝等皆菩薩の道を行じて

当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし」

といういわゆる「24文字の法華経」を唱えて礼拝しました


〔 我深敬汝等(がじんきょうにょとう)

不敢軽慢(ふかんきょうまん)、所以者何(しょいしゃが)

汝等皆行菩薩道(にょとうかいぼさつどう)、当得作仏(とうとくさぶつ) 〕



全ての人に仏性が具わることから

彼らはいずれ菩薩の道を行じて仏になる人たちである

として礼拝したわけです


この功徳で、不軽菩薩は成仏したとありますが

この不軽の行為に対して

人々は杖で打ったり、石を投げつけて迫害を加えています




おもしろいのは、それに対する不軽の態度です


杖でたたかれ、石で追われると、少し逃げて

また振り返って「我れ深く汝等を敬う」と言っては礼拝します



不軽菩薩は、釈迦の過去世の1つだとも言われています


日蓮は"法華経の修行の肝心は不軽品にて候(そうろう)なり

不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ

教主釈尊の出世の本懐(生まれてきた本当の目的)は

人の振る舞いにて候けるぞ"

と述べていいます




また、日蓮仏法では、正法時代の釈迦の28品の法華経

像法時代の天台大師(中国天台宗の祖)の一念三千

末法時代の日蓮の南無妙法蓮華経を、三種の法華経としています




それから法華経には、釈迦以前に

日月灯明如来(にちがつとうみょうにょらい)や

大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)や

威音王仏(いおんのうぶつ)も法華経を説いたと書かれています



このようなことから日蓮において

「仏の悟りは誰が説こうが法華経である

説く真理は同じでも表現方法は時代によって異なり

末法時代には日蓮の7文字(南無妙法蓮華経)あるいは

5文字(妙法蓮華経)の法華経がかなっている」

と主張されたわけです




日月灯明如来と大通智勝仏は

どのように法華経を説いたのか?


日月灯明如来は

智慧が日月のように衆生を照らす仏の意味だとされます


法華経の序品(じょほん・第1品)に登場する仏です


過去に、妙光菩薩を対告衆(聴衆の代表)として法華経を説いたとあります



釈迦が法華経を説こうとすると、天から曼陀羅華(まんだらげ)や

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が大衆にふりそそいだり

大地が6種に揺れ動いたり


瞑想に入った釈迦の眉間の白毫(びゃくごう)から光が放たれ

東方万八千(とうほうまんはっせん)の仏国土が

照らされたりするなどの瑞兆がおこります


そこで弥勒菩薩が代表として、そのわけを文殊菩薩にたずねます


すると文殊は「自分が過去世に妙光菩薩と称していたとき

師事していた日月灯明如来が

法華経を説こうとしたときにも同じ瑞兆がおきた


これは法華経が説かれる瑞兆である」と述べます



日月灯明如来は

無量無辺不可思議の阿僧祇劫

(あそうぎこう・数えることのできない期間)

の昔に出現し


その後も同名の日月灯明如来が2万人

次々と世に出現したといいます


妙光菩薩が師事したのはこのうち最後の日月灯明仏だといいます



この日月灯明仏には800人の弟子がいて

その1人 求名(ぐみょう)菩薩こそ

過去世の弥勒菩薩の姿であると文殊はあかします



また、最後の日月灯明仏には8人の王子がいて

妙光菩薩は、日月灯明仏の滅後、法華経を説き

8人の王子をはじめ人々を悟りに導いたといいます



なお、別の仏典には、8人の王子のうち


最後に仏になったのは、法意(ほうい)で

法意の仏の名を 然灯仏(ねんとうぶつ)といい


釈迦は過去世に儒童(じゅどう)菩薩として修行していた頃

この仏につかえ、この仏を供養し


この仏より授記(じゅき・未来の成仏の約束)をうけ

釈迦仏になったとあります





大智勝仏は

法華経の化城喩品(けじょうゆほん・第7品)に登場する仏で

三千塵点劫(さんぜんじんてんこう)のはるか昔に出現して

法華経を説いたとあります


この仏は、大相(だいそう)という時代の好成(こうじょう)世界に

転輪聖王(てんりんじょうおう・理想の王)の太子として生まれ

国王となり、16人の王子をもうけたとあります


その後、出家し、修行ののち仏となったとあります


そして16王子や諸梵天王の求めに応じ

四諦や十二因縁を説きます



これを聞いた16王子は出家します


さらに2万劫という長大な期間を経た後

16王子らの求めに応じて、大智勝仏は法華経を説きます


ところが16王子と、声聞(仏弟子)のうちの少数は信受しましたが

多くの衆生は法華経を信じませんでした



16王子は諸国に赴き、法華経を説いて

それぞれが六百万億那由佗恒河沙

(ろっひゃくまんのくなゆたごうがしゃ・無数の意)の

衆生を成仏させたといいます



この16番目の王子が、過去世の釈迦であると説かれています


また、他の王子も仏となり

そのなかには、東方世界の阿閦(あしゅく)仏や

西方世界の阿弥陀仏になったものもいるとあります




日月灯明如仏の法華経の量は膨大で、説くのに60劫(こう)という

計り知れない長大な期間がかかっています



「劫」とは、時間の単位で


大きな大きな石山を

100年ごとに柔らかい衣(天衣)でふいて

石山が磨耗し尽くしても劫は尽きないとか


大城をケシの実でみたし

100年に一度、一粒ずつ取って

全てを取り尽くしても劫は尽きないとか


ガンジス河の40里を砂で埋め尽くし

100年に一度、一粒ずつ取って

これを取り尽くしたときを一劫というとか


仏典に説かれていて

なにしろ、長大な時間です



さらに大通智勝仏の法華経は

説くのに8千劫以上の時間がかかります


ガンジス河の砂の数ほどの偈(げ・詩句)からなるとあります



これに対して

日蓮の法華経は、わずか「南無妙法蓮華経」の7文字です



日蓮はこれについて

広(28品の法華経)、略(不軽菩薩の24文字の法華経)

要(南無妙法蓮華経)と区別し


末法時代には、要を修行すべきだと主張し

「五綱」(ごこう・五義)という一種の教相判釈を立ててます


「教相判釈」は、経典や教えの勝劣を述べて

自宗の優位を主張することです




五綱とは、教、機、時、国、教法流布(るふ)の先後(せんご)

のことで


教とは、末法というこの時代に

かなった教えであるかどうかということです



機とは、衆生の仏法を受け入れる能力すなわち機根のことで

衆生がいかなる教えによって成仏できるかということです



時とは、現在のことで、現在は末法時代であるということです



国とは、その国が小乗の国とか大乗の国とか

仏教に縁の薄い国かどうかなどです


日蓮は日本を、邪智謗法(じゃちほうぼう)の国としています

法華経を知りながらこれをそしる国ということです


これに対して、法華経を知らない国は、無智悪国

つまり無智だから悪がはびこるとしています



教法流布の先後とは、先に弘まった教えを知り

後に教えを弘めるということです



そしてこの五綱にかなうのは

日蓮の南無妙法蓮華経だと主張してたわけです







南無妙法蓮華経



日蓮は妙法蓮華経(題目)について


“題目とは二の意あり所謂(いわゆる)正像と末法なり

正法には天親菩薩

〔唯識派(インド大乗仏教2大教派の1つ)の祖 世親のこと〕・

竜樹菩薩

〔中観派(ちゅうがんは・インド大乗仏教2大教派の1つ)の祖 竜樹〕・

題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止(やみ)ぬ


像法には南岳〔天台大師の師〕天台等亦(また)

南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他に説かず

是れ理行の題目なり

末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り

自行化他(じぎょうけた)に亘りて南無妙法蓮華経なり”〔三大秘法抄〕


と述べています


つまり、日蓮によると

世親、竜樹、天台大師なども南無妙法蓮華経を唱えたが

それらは他に向かって説かない自行、すなわち自分ひとりの修行であった


これに対して末法の日蓮の南無妙法蓮華経は

前代とは異なり、自行化他にわたっての南無妙法蓮華経である

ということです



日蓮仏法の化他行(けたぎょう)とは

折伏〔しゃくぶく・日蓮仏法に帰依させること。入信させること〕

のことです



日蓮は「三業受持」〔三業とは身口意の三業・意は心、業は行為〕

つまり題目を口で唱えるだけでなく、曼荼羅を受持する心と

身で折伏をなすことの必要性を説いていて


法然や親鸞の念仏が他力信仰であるのに対して

日蓮仏法は自力の面も強いのです




また、“南無妙法蓮華経の南無とは

梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時(ぐし)に南無妙法蓮華経と云うなり”

〔御義口伝〕


つまり、南無妙法蓮華経は

民族を超えた普遍の真理であるとしています



それから

“無作の三身とは末法の法華経の行者なり

無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり”〔御義口伝〕


つまり、無作の三身

(真理の仏の法身、智慧の仏の報身、慈悲の仏の応身)

の仏とは

末法の法華経の行者である

その仏身の仏性を南無妙法蓮華経と言うのである

と述べています



そして、“法界〔ほっかい・宇宙の森羅万象〕は

妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり

蓮華とは八葉九尊(はちようくそん)の仏体なり”〔御義口伝〕

と述べています



【 八葉九尊・・・

真言密教の胎蔵界曼荼羅の中央の一院(中台院)が

八葉の蓮華になっていて

八葉蓮華の中央に大日如来

東西南北に、宝憧(ほうどう)・無量寿(阿弥陀のこと)・

開敷華王(かいふけおう)・天鼓雷音(てんくらいおん)の四仏

東南・東北・西南・西北に、普賢(ふげん)・

観音・文殊・弥勒の四菩薩が描かれている 】




妙法蓮華経は、鳩摩羅什(くまらじゅう・344~413)訳の

「法華経」の題名ですが、日蓮は単なる経典の題名ではなく

色々と意味をもたせています



なお、法華経の漢訳には、現存するものに

竺法護(じくほうご)訳の「正法華経」〔10巻。286年に訳出〕

鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」〔28巻。405年に訳出〕

闍那崛多(じゃなくった)と達摩笈多(だつまぎゅうた)の共訳による

添品(てんぽん)妙法蓮華経〔7巻。601年に訳出〕があります




竺法護〔239~316・敦煌出身。西域に行き、経典を持ち帰り

正法華経・唯摩(ゆいま)経・光讃般若経など150余部を漢訳〕

の正法華経は


鳩摩羅什の妙法蓮華経以前の法華経訳としては

量質ともに最も優れるとされますが

訳文が難解なためにあまり読まれなかったといいます



添品妙法蓮華経は

鳩摩羅什の妙法蓮華経とサンスクリット原典とを比べて

間違えを正したり、補ったものです


他に失われたものに

法華三昧経〔6巻。255年。正無畏(しょうむい)訳〕

薩曇分陀利経〔さつどんふんだりきょう・6巻。265年。竺法護訳〕

方等法華経〔5巻。335年。支道根(しどうこん)訳〕があり

六訳三存といいます




法華経のサンスクリット語原典は

サダルマ・プンダリーカ・ストーラといい

これを竺法護は正法華経と訳し

鳩摩羅什は妙法蓮華経と訳したわけです


ダルマは法、プンダリーカは蓮華、ストーラは経典を意味します


南無妙法蓮華経の南無は

ナマス〔帰命・命をささげて従う〕の意味です




中国天台宗の祖 天台大師 智顗〔ちぎ・538~598〕は

著書「法華玄義」において妙法蓮華経の五字について詳しく解説しています


中国天台宗中興の祖 妙楽大師 湛然〔たんねん・711~782〕は

題目と一念三千との関係を説明しています




また、日本では、日蓮以前の平安時代から法華経を受持する

山林修行者〔多くは国家の公認を受けない出家者〕により

題目が唱えていたとされます


但し、その題目は「南無一乗妙法蓮華経」などと

一定ではなかったといいます


また題目についての理論づけもされていなかったとされます




比叡山でも、日蓮以前より「法華三昧」(ほっけざんまい)における

仏・法・僧の三宝への帰依のひとこまで、題目が唱えられてきたといいます


しかし、称名念仏のような唱え方は、日蓮にはじまるとされます





●  鳩摩羅什 (くまらじゅう・344~413)


中国四大訳経僧の1人。史上最大の訳経僧とも称される

西域、シルクロードに沿った亀茲(きじ・クチャ)の貴族出身


384年、亀茲を攻略した前秦の将軍 呂光の捕虜となり

呂光が建国した後涼に18年間とどまった

軍師的位置にあって度々呂光を助けたとされる


401年に後秦の2代皇帝 姚興(ようこう)に迎えられて長安に入る

姚興の意向で女性を受け入れ、女犯(にょぼん)を犯したことから

在家者となるも


わずか10年足らずに

法華経、維摩経、大品般若経、大智度論(だいちどろん)

中論、百論、十二門論など35部294巻

(別の記録では74部384巻とある)を訳出した


臨終にあたっては

「私を火葬して舌が焼けてしまったら私の訳した経典は

正しくないので全て廃棄しなさい」と遺言し

舌だけが残ったという


鳩摩羅什訳は名文の誉れが高い






●  法華三昧 (ほっけざんまい)


三昧(さんまい・ざんまい)とは

瞑想や禅定のこと

またそれによって心が統一され安定した状態をいう


法華三昧は、天台大師の「摩訶止観」に説く

四種三昧の1つ半行半座三昧のうち


法華経と観普賢経〔天台大師は、無量義経を法華経の開経

観普賢経を結経とし、法華経三部経としている〕に基づき行うもの


三七日(21日間)を一区切りとし、仏像の周りを巡る行道と

精神を集中させ

仏の智慧(中道の理)を得ようとする座禅を交互に繰り返す


またその合間に、礼仏・懺悔・誦経(ずきょう)などを行う


懺悔を行うことから法華懺法(ほっけせんぽう)ともいう



法華懺法は、東大寺(華厳宗総本山)の修二会

〔 しゅにえ・旧暦2月の法会。現在は3/1~14日の

二七日(にしちにち・14日間)行われる

12日午前2時頃には、有名な御水取(おみずとり)がある 〕

においても修されている



仏教では、物事にとらわれて愛着したり


誰でも等しく仏性を持ち

一切が平等であるという真理に反し差別したり


憎しみを抱いたりする心を「罪」とし


法華懺法では、法華経を読誦することによって

そういった自らの罪を懺悔するという



日本天台宗では

朝の勤めに「法華懺法」を修し


夕の勤めに、阿弥陀経を読誦し

念仏を唱える「常行三昧」を修するという


これを「朝題目・夕念仏」という


なお、朝題目・夕念仏は、のちに転じ

信仰の定まらない者をも言うようにもなっている





なお

天台大師は、著書「摩訶止観」(まかしかん)において

常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・

非行非坐三昧の「四種三昧」をあげています



常坐三昧は、文殊師利所説般若経など基づき

90日間を一区切りとし

一仏に向かって、口は黙したままもっぱら座禅する



常行三昧は、般舟(はんじゅ)三昧経に基づき

阿弥陀仏を本尊として

90日間その周りを巡り歩き、もっぱら阿弥陀の名を唱え

心にはただ阿弥陀仏を観ずる



半行半坐三昧には、法華三昧と

方等陀羅尼(ほうどうだらに)経に基づく方等三昧がある


方等三昧は、7日を一区切りとし

陀羅尼を唱えながら仏像の周りを巡る行道と

座禅とを交互に繰り返す



非行非坐三昧は、日常生活を営みつつ

期日や方法も定めずに、念仏や観法を行うものという






中国天台宗の祖 天台大師 智顗(ちぎ・538~598)は

妙法蓮華経の「妙」という字について

「相待妙・絶待妙」という説明をつけています


法華経と他の諸経を比較して

他は「粗悪」であり、捨てるべき教えであるのに対して

法華経は「妙」(不可思議)であるというのが「相待妙」


法華経という立場に立てば

そこから「粗悪」な諸経をも活用していける

という「妙」が「絶待妙」です



絶待妙は、支流(諸経)も、大河(法華経)に集まり

活かされるという話です







末法のからくり



仏教には、末法(まっぽう)思想というものがあります


正法〔釈迦の教え(教)が正しく修行(行)されている時代で

悟り(証)を開く者が存在する時代〕


像法〔像とは似るの意味で、教がありそれに基づく行がなされているが

証を得る者がいない時代。次第に形骸化されてゆく時代〕


末法〔教はあっても行はなされず、証を得る者もいなくなった時代〕


の3つの時代を説き

今は末法時代だから、釈迦の法には功力(くりき)がない

というものです



法然や親鸞や日蓮は、末法思想をよりどころに

自説を展開し、また立宗の根拠にしましたが

その末法にも大きなからくりがあります



日本では平安時代中期より末法に入るとされましたが


同じ鎌倉仏教の教祖でも

日本臨済宗の祖 栄西(えいさい・ようさい)は末法に否定的であり


曹洞宗の祖 道元にいたっては“正法(禅)に末法なし”

という立場をとっています




からくりというのは?


インドでは古来、三時(正法・像法・末法)の期間について

4つの説があり


中国では北周3代皇帝の武帝が

2度にわたる仏教弾圧を行ったことから

これにあわせた説を採用しました



ところが日本で中国の説を採用すると

末法が仏教伝来の時期にあたり都合が悪い


だから4つの説のうち、最も末法に入る時期が遅い

大集経(だいじっきょう)の説が採用されたといいます



日蓮は、中国天台宗の祖 天台大師智顗(ちぎ)を

像法時代の人としていますが


中国で、三時としての末法の語を最初に用いた

天台の師 南岳大師の慧思(えし)は「立誓願文」で

自分は末法に入って82年目に生まれたと記しています




日本で用いられた末法思想は

大集経の「五五百歳」(ごごひゃくさい)に基づきます


それによると


釈迦滅後の最初の五百年は「解脱堅固」(げだつけんご)といって

解脱(輪廻転生から解放されること)が盛んで


次ぎの五百年は「禅定堅固」(ぜんじょうけんご)といって

禅定すなわち坐禅が盛んとなる


ここまでの千年が正法時代



その次の五百年は「読誦多聞堅固」(どくじゅたもんけんご)

といって経文を読んだり聞いたりすることが盛んとなり


さらに次の五百年は「多造塔寺堅固」(たぞうとうじけんご)といって

寺院や仏塔を建てることが盛んとなる


ここまでの千年が像法時代



釈迦滅後2千年で、末法時代に入り、末法は万年続くとあります

万年とはふつう永遠という意味に解釈されています



そして末法の始めには、闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・

白法隠没(びゃっぽうおんもつ)


すなわち釈迦の教説とされるものの中で

どれが正しい教説かを互いに言い争うことが盛んとなり

正しい法が隠れて判らなくなる とあります



そこで、≪末法時代に入ると、人間に邪智がつき

釈迦の説いた法を信じなくなった

また、善を積むことで仏になろうとしても、末法は濁世(じょくせ)で

悪の誘惑が多いゆえ、積み上げた善の積み石などすぐにを崩してしまう≫

などといった話となり



法然なら「末法の時代に、この世で仏になるなどムリ

念仏(南無阿弥陀仏)することで

死後、あの世で極楽に往生すること(生まれること)

を願いなさい」と説き



日蓮なら「末法時代には、釈迦の法で仏になるなんて不可能

なぜなら人間の命が濁っていて、釈迦の話が信じられないから

末法では、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることでしか仏になれない

しかし、南無妙法蓮華経と唱えれば、凡夫の身のままで仏になれる」

なんて説いたわけです




そんな末法思想の拠りどころとなっている大集経というのは

6世紀前半に、エフタル(5世紀中頃から約1世紀の間

中央アジアを統一し西北インドに勢力をふるった民族)が


北西インドに侵入し

仏教徒を弾圧する過程で成立した経典とされています



異国の侵入、その支配下での成立は

ユダヤ教の終末論と同じで


しかも、釈迦が没して1200年ものちに成立した経典ですよ(笑)




だいたい、日蓮仏法では、法華経の以外の経典は

釈迦が「正直捨方便」(方便だから正直に捨てなさい)

と言っているといって


他の経典を諸悪の根源のように宣伝しているのに

末法思想のような自宗に都合のよい話は

とり入れて、絶対不変の真理のごとくに言っているのです(笑)


【 法華経の方便品(第2品)にある

「正直捨方便。但説無上道」

〔しょうじきしゃほうべん。たんせつむじょうどう・正直に方便を捨てよ

ただ無上の法を説く〕という釈迦の言葉から 】





地球誕生から今日まで46億年

この46億年を1年のカレンダーに置き換えると

原始の生物が地球上に初めて誕生したのは2月中旬

哺乳類が登場したのは12月の中頃になってから

人類の出現は12/31日の午後

我々ホモ・サピエンス(新人)となるとその23時40分頃だといいます


つまり人類の歴史などたった20分ほどだといいます

また、地球の歴史が24時間だとすると

人間の歴史は最後の2秒にすぎないといいます



≪末法万年≫なんて

言葉のバーチャルな世界なのです


言葉の世界に引きずり込むのもいいかげんにしろよ!!

ってレベルのものなのですが


教祖自身がそこにひきずりこまれてしまっているのですから

どうしようもありませんね(笑)







予言者 日蓮



日蓮仏法の特徴をあげると


① 一神教的性格 


② 死後の幸福を願う念仏宗に対して

現在の幸福を約束する現世利益主義


③ 現実の世界に仏国土を建設するという理念 


④ 日蓮の予言者的性格 に集約されます




②については“現当二世”

〔げんとうにせ・現在と当来世(まさに来るべき世・来世のこと)〕

と言って


現世においては

死後の安楽の確証としてご利益を得るとしています




「立正安国論」(1260)は、日蓮が

幕府5代執権 北条時頼に提出した

国家諫暁〔かんぎょう・諫(いさ)め暁 (さと)すこと)〕の書です


客と主人との問答形式によりなっていて

客とは、仏法に無知な一般、とくに時頼を

主人とは日蓮を意味しています



日蓮は、この立正安国論で

大集(だいじっ)経にみられる三災


金光明(こんこうみょう)経・

仁王(にんのう)経・薬師経にみられる七難をあげ


この三災や七難を末法時代

(日本では平安時代中期より末法に入るとされた)の証しであるとし


さらにこのまま、正法(法華経)を誹謗し続けるなら

このうちまだ起きていない他国侵逼難(たこくしんぴつなん)と

自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)も起こるであろう

と述べています




この日蓮の予言はのちに

他国侵逼難は2度(1274年・81年)にわたる蒙古襲来


自界叛逆難は1272年

8代執権 時宗の異母兄 北条時輔による乱(二月騒動)

が起きて的中したとされています




まず、大集経の三災について述べておくと

穀貴災(こっきさい・穀物の価格が上がることで、飢饉を意味する)

兵革災(ひょうかくさい・戦争)、疫病災(伝染病)



金光明経の七難は、天体の運行の異変・疫病・暴風雨・

眷属(親族や家来)が離れてゆくこと・

他国の侵略(悪賊侵略難)・飢餓・

内乱(自界闘諍難・じかいとうじょうなん)



仁王経の七難は、太陽と月の異常現象・天体(星)の運行の異変・

大火・水害・暴風害・旱魃(かんばつ)・他国の侵略と内乱(悪賊難)



薬師経の七難は、疫病・他国侵逼難・自界叛逆難・

天体の運行の異変・日蝕と月蝕・風水害・旱魃 です




日本という国は、昔も今も

地震、洪水、台風、津波、噴火などといった自然災害は

毎年のようにどこかで起きています


そもそも日本は、災害が多いのです


ですが、世界的にみれば

食糧・食料的には恵まれていて、水も豊富です


だから、我々は、災害の可能性を受け入れても

日本に住んできたし、今も住んでいるのです

(豪雪地帯にさえ住んでいる)




近代以前の日本では、治水1つを考えても

自然災害にともなう被災は

今とは比べものにならないほど甚大だったことは予測できます



加えて、干ばつや冷夏で、凶作になれば

飢饉となり、餓死者を出す


疫病は蔓延する


戦闘、領主の圧政などもある



つまり、三災や七難などといったものは

末法うんぬんに関わらず

つねに日本に存在したいたと言えますよ





また、自界叛逆難(北条時輔の乱)と

他国侵逼難(蒙古襲来)の予言があたったといっても

ともにほぼ未然に防がれています



蒙古襲来は、二度とも神風(暴風雨)によって

蒙古の軍船が壊滅したわけですが

日蓮仏法の立場からは

日蓮がいたから神風が吹いたのだと主張されています




自界叛逆難については

≪末法以前≫とされる飛鳥時代には


蘇我馬子により、崇峻天皇(32代)が暗殺される事件

〔日本史上、臣下により天皇が殺害された唯一の事件〕

が起きていますし


「壬申 (じんしん)の乱」といって

38代 天智天皇の弟である

大海人皇子(おおあまのおうじ・後の40代 天武天皇)が

天智天皇の子である大友皇子(39代 弘文天皇)

を攻め滅ぼすことも起きています




奈良時代には、藤原氏と対抗する貴族たちの抗争が絶えず

さらに疫病や凶作がつづき、740年からわずか5年の間に

山城、近江、摂津と3度の遷都がなされています



平安時代初期にも平城(へいぜい)上皇と嵯峨天皇が対立し

上皇が敗北した「薬子(くすこ)の変」が起きています


このように

末法以前の方がむしろ難つづきだったと言えます(笑)




こうしたもののうち

奈良時代に起きた「長屋王(ながやおう)の変」は

藤原氏が、藤原不比等(ふひと)の娘で

聖武天皇の妃である光明子(こうみょうし・のちの光明皇后)

を皇后にしようと画策して起きた事件です




●  長屋王の変


藤原氏が、藤原不比等(ふひと)の娘で

聖武天皇の妃である光明子(こうみょうし・のちの光明皇后)

を皇后にしようと画策して起きた事件


光明子が生んだ皇太子が没したことで


天皇の別の妃に王子が誕生すると

藤原氏は、光明子を皇后にしようと考えた


そこで藤原氏は、これに反対する

長屋王(天武天皇の孫で行政の最高位の左大臣)

を排除しようと


「長屋王が、自分が天皇になろうとして呪術を学び

光明子の子である皇太子を呪い殺した

との密告が

長屋家に仕えていた2人の者よりあった」として


朝廷軍によって長屋王邸を包囲

長屋王と夫人と3人の王子を自殺に追い込んだ


長屋王の後、光明子は

臣下の娘としては異例の皇后になっている




こちらの方がよっぽど自界叛逆難ですよ(笑)





創価学会の信者なんかは

「末法以前の飛鳥・奈良・平安時代は

仏教文化が栄えて平和であった」

などとデタラメを言っていますが


だいたい法然以前の仏教は、支配者階級のものです



また、天智、天武、持統 (41代)、聖武 (45代)などの

天皇の世を通じて大変な数の寺院が全国に建立されています


東大寺と大仏の建設には、当時の全人口600万のうち

約半数の290万人が動員されたといいます



国家的事業の名もとに、民衆を使役したからこそ

仏教が興隆したのです




なお、聖武天皇と光明皇后が仏教に傾倒し

諸国に国分寺(総国分寺が東大寺)と

国分尼寺を建設したのは


長屋王(ながやおう)の霊を鎮め

それによって国家を鎮護するためだったとされます




聖人知三世事(しょうにんちさんぜじ)には


“日蓮は一閻浮提第一(いちえんぶだいだいいち)の聖人なり

上一人 (かみいちにん)より

下万民に至るまで之を軽毀(きょうき)して

刀杖 (とうじょう)を加え流罪に処するが故に

梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けてこれを逼責するなり”


〔 日蓮は全世界で第一の聖者である

しかるに上一人(将軍・執権)より

下々の民衆に至るまで日蓮を軽視しそしり

刀杖を加えた上、伊豆や佐渡に流罪にした


この為、梵天や帝釈天や日天、月天、四天王らが隣国に命じて

日本の者たちをとがめ責めたのである 〕

とあります



これは蒙古襲来のことを述べた文です


創価学会をはじめ日蓮信徒は

「日蓮は、当時誰一人として想像もしなかった

蒙古軍の侵略を予言した」

などと言っています




しかし、鎌倉時代には、北条氏や有力の御家人が

臨済宗(臨済禅)寺院の建立を推し進め


宋〔元(モンゴル帝国が中国に建設した王朝)によって滅亡〕

からの亡命僧を次々と迎えているのです


最初の蒙古襲来までに


建長寺〔臨済宗建長寺派本山。鎌倉五山第一位〕の開山

蘭渓道隆〔らんけいどうりゅう・1246年に来日〕をはじめ


兀庵普寧〔ごったんふねい。建長寺2世。1260年に来日〕


大休正念〔だいきゅうしょうねん・

兀庵普寧とともに鎌倉五山第四位の浄智寺開山。円覚寺2世〕


西子曇〔せいかんしどん・時宗のまねき来日〕

などが来日しています



2度目の襲来までには


円覚寺〔臨済宗円覚寺派本山。鎌倉五山第二位

北条時宗が蒙古襲来で死んだ人々の追善のために建立〕

の開山となった 無学祖元(むがくそげん)も来日しています


このような事情から、北条政権は元の動静を知り得たし

いずれは日本に攻めてくる可能性も

当然、予測できていたはすです  小学生でもあるまいし(笑)




だいいち、大集経も、金光明経も、仁王経も、薬師経も

方便の教えだから正直に捨てなさい

というのが日蓮仏法の根幹であるのに


捨てろという経典を根拠に

自界叛逆難・他国侵逼難

なんて説を立てているのですから、論理は破綻しています



それに、立正安国論を著してから1度目蒙古襲来

(他国侵逼難)まで14年も経っているのです


自界叛逆難(北条時輔の乱)にしたって12年も経っています


これでも予言の的中になるのか

という話にもなります(笑)




日蓮は、立正安国論(1260年)で

指摘した他国侵逼難について


1268年に元より国書がとどいたことから

同年、執権の北条時宗をはじめとする幕府要人に

諌状を送っています



そこで「謗法(ほうぼう・正法をそしる)の僧を退治して

諸天善神の加護を受けよ」とか

「諸宗への布施をやめよ」とか


「元寇(げんこう・蒙古)を調伏できるのは自分1人である」とか

「諸宗と公場対決させよ」とか述べています


それから予言が的中したのは

「聖人(しょうにん)の一分である」と自らを聖人と称しています




また、建長寺の蘭渓道隆

極楽寺の忍性


大仏殿別当〔当時の別当職の人物は不明〕


寿福寺〔臨済宗建長寺派。北条政子の発願。栄西開山〕


浄光明寺〔真言宗。日蓮当時は

念仏僧の行敏(ぎょうびん)が住持していた〕


多宝寺〔極楽寺とともに真言律宗の拠点。現在はない〕


長楽寺〔法然の孫弟子

智慶(ちぎょう)が建てた浄土宗寺院。現在はない〕

といった諸寺の僧に


公場対決を求めて書状を出しましたが

幕府も諸寺も応えなかったそうです



忍性と祈雨の勝負をしたのは

この3年後の1271年です







忍性と真言律宗



真言立宗とは鎌倉時代に

叡尊(えいそん・えいぞん。1201~1290)が

真言密教と戒律(大乗戒・小乗戒をともに修める)

を実践しつつ

衆生救済を目指すという主旨で開いた宗派です


つまり、密教と戒律を融合させたものです



叡尊は、奈良七大寺であった西大寺(現在の真言律宗の総本山)


唐招提寺


もと総国分尼寺の法華寺

(真言律宗から平成11年に光明宗として独立。尼寺)


を再興し

真言律宗独自の戒壇をもうけています



東大寺や延暦寺などの国家的な戒壇では

女性の出家は認められませんでしたが


法華寺の戒壇によって

真言律宗では尼になることが認められました



叡尊は、皇室、公家、幕府に多くの信徒を得

彼から授戒をうけた者は6万6千余人にもわたったといいます




また、救済活動でも知られ、施食を行ったり

下層民に文殊像を授けて供養させたり


非人やハンセン病患者の救済を行ったり

宇治橋(うじばし)の修造などの架橋を行ったり


宇治川などに漁を禁じる殺生禁断の場を設けたりもしています


かつては交通が難儀だったので、道を切り開いたり

橋を架けることは「功徳」とされていたそうです



非人救済については

非人は刑死者の遺体の処理なども

仕事としていたので


そこから非人と結びつき

朝廷の公認のもと京都・奈良周辺の非人を管理したといいます



非人を文殊菩薩の化身などと称していたようです



日蓮の立場から言うと

非人救済は、その名のもとに

非人の労働力を利用するものだったといいます





叡尊の弟子が、日蓮最大の敵

忍性〔にんしょう・1217~1303。良観ともいう

鎌倉の極楽寺(真言律宗)を創建〕で


忍性は叡尊以上に福祉事業を展開しています



西大寺に非田院(貧窮者、病患者、孤児などを救済する施設)

をもうけ


疫病が発生したときは

僧侶たちを指揮して治療にあたったり


北山十八間戸という日本初のハンセン病舎を建設したり

四天王寺に悲田院や施薬院を復興させています



36歳のとき叡尊に東国の運営をまかされて鎌倉に下り

北条氏の帰依をうけ極楽寺などを創建し

同寺域内に救療所を設けています



また、鎌倉の桑谷(くわがやつ)にも広大な療病舎を設け

人々から、生き仏、医王(いおう)如来

とあがめられたていたといいます



さらに、道をつくり、橋をかけ

殺生禁断の地を設けるなどもしている


忍性が6万7千人の病人の看護にあたり

橋を180、道を71、井戸を33ヶ所も設けたという記録もあります



それから幕府は、忍性に鎌倉や三浦半島の港を修復させ

代わりに出入りをする商船から

通行税を徴収する権利を与えたといいます



真言律宗は、瀬戸内海の港湾整備にも関与し

勢力を拡大したといいます


また、諸国の主要な道でも

各地に関所を設置し、通行料を徴収していたそうです




日蓮の御書に「今の律僧は、絹布(けんぷ)や財宝を蓄え

金を貸して利息を取るのを仕事としている」とありますが


これが事実だとすると、金融業もやっていたことになります



戒律を重んじるはずの律宗が金融を営んでいたわけで

このへんを日蓮に攻撃されることとなり


日蓮は、真言僧である忍性に

忍性の一番得意とする祈雨で勝負を挑んだ

という話は、わりとよく知られています



忍性は7日のうちに雨を降らせると

弟子たちに宣言しましたが、雨は降らず


7日期限を延長してきましたが、それでも降らずに

大風が吹いて日蓮が勝利したそうです



これを恨んだ忍性は

幕府要人に働きかけ、日蓮を迫害し


弟子たちを使って日蓮の悪口をいわせたり

幕府や鎌倉仏教界の有力僧に働きかけて

日蓮への包囲網を引いたといいます



これが日蓮の佐渡流罪の大きな要因とされます



但し、これらは日蓮の主張なので

どこまで信憑性があるかは疑問ではありますが


いずれにせよ真言律宗が

のちに念仏宗や日蓮宗によって信徒を奪われ

急速に衰退していったことで分かるように

結局、民衆の宗教ではなかったとはいえます






●  行基



社会事業をしたことで有名なのは

奈良時代の代表的な僧の1人

行基(ぎょうき・ぎょうぎ・668~749)です


道昭(日本法相宗の祖)や

義淵(東大寺の開山の良弁(ろうべん)の師)

について法相唯識を学んでいますが


行基が名を知られるのは

学問僧としてでなく、実践僧としての性格です



土木技術を学び、道昭にならい

弟子を引きつれ、諸国で橋を架け

堤防を築き、道をつくり

田を開き、水路や溜め池をつくるなどしたといいます



また、諸国の産物を税として都に運ぶ途中

病気や餓死する者が多かったことから


布施屋〔食べ物などを施し休息させる宿舎

行基が畿内9ヶ所に設けたものが最も有名

平安期には最澄も信濃の神坂(みさか)峠に2院設けている

国や地方の行政機関によっても設けられた〕を設けています



また、弥勒上生経にみられる兜率天

(とそつてん・弥勒の菩薩の住む浄土)にある

四十九院(四十九重の宝殿)にちなみ49の寺院を建立したとされます



そして、全国遊行(ゆぎょう)による民衆教化(きょうけ)で

行基を慕い集まる者が千人に及び

行基菩薩とあがめられたといいます



一方、信者の多くが仕事を放棄し、物乞いをはじめたため

「行基は国法と仏法に反する」と糾弾されたそうですが


のちに緩和政策として、行基の信徒で61歳以上の男子と

55歳以上の女子の出家が認められたとされます



聖武天皇の東大寺の大仏建立も

行基が弟子たちを引きつれ

寄付を集めたことで成就した

と言っても過言でないとされています


78歳のとき、仏教界の最高位 大僧正〔だいそうじょう・

それまでは僧正までしかなく、行基が初〕に登っています



なお、行基以前は、僧侶と寺院は国家に属し

国家の安泰を願う存在で、1人の僧が寺院より離れて

民衆を教化するなんていうことは禁じられていたといいます



ただ、行基は「信仰すれば救われる」

という現世利益で人心をとらえていったようですし


畿内各地には逃亡農民を受け入れる道場をつくり

開墾地を拡大させていったなんて話からすると

立派というより、やり手だったのかもしれませ







日蓮と非暴力



僧伽(そうぎゃ・出家修行者の集団。サンガ)中心の

日蓮系教団に、「日本山妙法寺大僧伽」というのがあり

非暴力をうたっています


この教団は、明治から昭和にかけて

熊本県阿蘇出身の僧 藤井日達(1885~1985)により設立されています

(日蓮正宗の大石寺第66世の法主 日達(1902~79)とは別人)



彼は、滝に打たれて断食をした結果

団扇太鼓をたたいて題目を唱えつつ

全世界の人々を妙法に帰依させる

〈撃鼓宣令(ぎゃっくせんりょう)・四海帰命〉の誓いを立てたといいます



藤井は中国、インド、セイロン、東南アジア各地に布教

この間ガンジーにも会見


大戦後も、非暴力による平和運動を唱え

日米安保反対、軍事基地反対運動に参加


また、インドから釈迦の遺骨をもってきて

各地に仏舍利塔を建立したといいます



この教団は、僧侶が、黄色の衣服で

南方仏教の僧のような身なりをしているのが特徴で

教義は、団扇太鼓をたたいて、人々の仏性を呼び覚ますこと


これは、法華経の諸天撃天鼓(しょてんぎゃくてんく)の文に由来するそうだ

また、相手の仏性を拝みなさいということなんかが根本の教えようです




ちなみに団扇太鼓は、日蓮宗で題目を唱えたり

法華経の要文を誦するときに調子を合わせて叩くもので


起源は不明のようですが、安藤広重の「池上詣」や

「会式(えしき)風俗」に描かれていることから

江戸中期には普及していたと考えられています






さて、日蓮と非暴力主義は結びつくのか?

という話になります



1271年に念仏僧の行敏

〔ぎょうびん・浄土宗鎮西派3祖の良忠の弟子〕

を名目上の訴人(そにん)として


極楽寺の忍性

(良観ともいう。真言律宗の僧。日蓮最大の敵)


浄光明寺(鎌倉市。現在は真言宗)の良忠

〔法然の孫弟子で、浄土宗鎮西派3祖

浄土宗大本山の1つ光明寺(鎌倉市)の開山

なお鎮西派は、良忠没後6派に分かれた

現在の浄土宗の主流派はこのうちの1つ白旗派の流れを汲む〕

らが起草し


幕府に提出された日蓮への9条にわたる抗議文が

日蓮の御書にみられます



9条とは


① 日蓮は法華経だけを正しいとして諸経を非としている

② 法華経に執着し他の大乗経典をそしっている

③ 法華経以外は妄語(嘘・偽り)であるとしている


④ 念仏は無間地獄の行為と説いている

⑤ 禅は天魔波旬(はじゅん・仏教の代表的なサタン)の説と説いている


⑥ 大乗・小乗の戒律は、世間をたぶらかすものと説いている

(ちなみに日蓮仏法では

日蓮の本尊を受持し、題目を唱えることが唯一の戒)


⑦ 従来の本尊である阿弥陀や観音などの像を火に入れ、水に流している

⑧ 凶徒を集めている

⑨ 弓箭(きゅうせん・弓と矢)

兵杖(へいじょう・武器)を集めて武装している です




これに対して日蓮が当局に提出した答弁書の内容は


①~③については

善導(中国の浄土宗の祖の一人)や

法然(日本の浄土宗の祖)が

専修(兼修の反対)主義に立ち

念仏以外の行をしりぞけていたと反論



④と⑤については

「四十余年・未顕真実(みけんしんじつ)」で反論


〔 古来、法華経の開経とされる

無量義経(中国で著された偽経の説もある)にある言葉で


釈迦が、法華経を説く以前の

悟りを得てから40余年の間

いまだ真実をあきらかにしていないと述べていること 〕



⑥は、最澄が小乗の戒壇を破り

大乗の戒壇の建立を目指したのと同じであると反論



⑦については、証人を出すべきである

出せないのなら忍性らが行い

罪をなすりつけているのであると反論



⑧については、忍性らの拠点である極楽寺

多宝寺(現在は存在しない。真言律宗寺院と考えられている)

長楽寺(現存しない。浄土宗寺院)などこそ悪人を集めていると反論



そして⑨については

法華経を守護するために弓箭や兵杖を用いることは

大乗涅槃経や天台、章安(天台の弟子)

妙楽(中国天台宗中興の祖)の法華経の注釈書に照らしても

仏教上の定法である

と述べています


あきらかに非暴力とは反対ですね




日蓮の御書の聖愚(しょうぐ)問答抄には

“大乗を重んじて五百人の婆羅門(ばらもん)の

謗法(ほうぼう)を誡(いまし)めし

仙予(せんよ)国王は不退の位に登る

憑(たのも)しいかな正法の僧を重んじて

邪悪の侶(とも)を誡むる人かくの如くの徳あり”

とあります



この仙予国王は、大乗涅槃経にみられる人です


それによると ≪ 仙予王は、釈迦の過去世の姿の1つで

大乗経典を敬い、つねに愛語を用い、身は清貧と孤独を守っていた


しかし当時は、仏・声聞・縁覚がいなかったので

バラモン教に帰依し、所領を布施し外護してきた


バラモンに師事すること12年目

王は、バラモンたちに「師僧たちは、今

最高の正しい悟りを求める心を起こすべきである」

と述べたところ


バラモンは「王のいう悟りの本質とは

所有するところがないというものである

大乗経典もこれと同じである


大王よ、どうして人と物とが

虚空と同じであるというのであろうか」

と大乗経典を批判した



聞き終えた王は、500人のバラモンを殺害した


この因縁により王は、この日以来、地獄に堕ちることがなくなり

(それまで王はバラモンを信仰していたので

地獄へゆく可能性があったという意味であろう)


また殺されたバラモンも地獄に堕ちたが

過ちを悟り、後に大乗仏教への信をおこして救済された ≫



日蓮だけでなく

大乗そのものがおよそ非暴力とかけ離れていますね(笑)


そもそも大乗のご利益主義というのは、自己愛の論理です





念仏には「造悪無礙」(ぞうあくむげ)という語もあります


阿弥陀の恩寵によって極楽往生が決定しているのだから

悪を思うがままにふるまいなさいということです



つまり双六(ばくち)、女犯や肉食などの悪をしても

往生のさまたげにならないという意味ですが


この悪に、盗みや殺人などが入るか入らないのか

については

意見が分かれているようです



人を斬っても南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できる

といった話が

事実としてあったかどうかははっきりしていないようです




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