緋山酔恭「B級哲学仙境録」 仏教編 釈迦の「真理」(悟り)は正しいのか?



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




釈迦の「真理」は
正しいのか?





釈迦のアイデアを考察する



釈迦の教え=仏教と、バラモン教とのあきらかな違いを考察していきます


バラモン教との根本的な考えの違いは


1、森羅万象は、因(直接的な因。原因)と、縁(間接的な因。助因)が

「因縁和合」して生起している


だから、創造神や、唯一絶対神、あるいは、宇宙の根本原理や

宇宙の根源的な法則 なんていうものは存在しない



2、全ては= 一瞬一瞬、変化している

= 実体がない


霊魂のような固定的・不変的な自己=アートマン

なんていうものは存在しない


ということですね




釈迦は、創造神や宇宙の根本原理、また霊魂などといった

科学的に根拠のないもの=形而上学的なテーマに対し


「無記」(回答しない)という立場をとりましたが

「空」や「縁起」から間接的に、否定していることになるのです




さて、では、バラモン教とのそうした教義的な違いを支えている

釈迦=仏教の根幹とするところの「因果応報」「空」「縁起」というのは

釈迦の斬新なアイデアから生まれたものなのでしょうか?





1、因果応報説



インドでは、業・輪廻の思想から

カーストが過去世から来世まで

カルマ(業)として受け継がれると考えられています


触れるとカーストが伝染するともされていて

ひどい話では

上位のカースト者に触れた低位のカーストの者が

その場で殺害されることもあったといいます



バラモン教より発展した

ヒンズー教では、それぞれのカーストに生まれたのは

前世の行い(業)によるものだから


自分のカーストの職業に専念することが必要で

それにより来世において幸福を得られると説くのです



こうした因果応報的な考えがあって

いまでもカースト制度が維持されているのです




つまり、因果応報説というのは、釈迦のアイデアでなく

インド古来の宗教観なのです




ユダヤ教では、律法を学ばない者は「田舎者」(地の民)

律法を学ぶことさえ許されない者を「罪人」(つみびと)と呼び

さらにハンセン病患者や不治の病にある者を

「悪魔に支配された者」として差別していたそうです



これに対してイエスは

神より見捨てられたとされる取税人や罪人とともに食事をし

彼らに神の救いを約束したり

怪我をした異教徒のサマリア人を介抱したとされます



さらにイエスは、ユダヤ教の指導者たちに対し

「貧しいゆえに律法を守れない人たちを差別する心が罪である」

「自分の敬虔(けいけん)さにおごり、敬虔であることを神に誇り

その報酬として救いを願う者は、神よりしりぞかれる」

と批判したのです



つまりイエスは「神による救済」

というユダヤ教の根幹を否定して

なにか新たな真理を生みだしたわけでなく


「神による救済」の適応を変えただけです




釈迦も同じです


釈迦の当時、バラモン教ではホーマーがいけにえの儀式とともに

盛んに行われていたといいます



この火の祭儀により

火の神アグニが、火に投じられた供物を天上の神々にとどけ

人々の願望をかなえ霊魂を浄化させると信じられていたのです



これに対して釈迦は言いました


“バラモンよ。木片を焼いたら清らかになれると考えるな

それは単に外側に関することであるからである

外的なことによって清浄になれると考える人は

じつはそれによっては清らかになることはができない

と真理に熟達した人々は語る


バラモンよ

わたくしは木片を焼くことをやめて、内面的にのみ光輝を燃焼させる

永遠の火をともし、つねに心を静かに統一していて

敬われるべき人として、わたくしは清浄行を実践する”




つまり釈迦は

「因果応報説」という根幹を変えたわけではなく

「よい行い」「よい行為」についての

定義を変化させたにすぎないのです







2、空



七福神の1つに数えられる 大黒天は

ヒンズー教の マハーカーラが

仏教にとりこまれたとされています


マハーカーラは

恐ろしい黒い姿で世界を破壊する神で


黒い姿から大いなる暗黒(大黒)と訳され

仏教に大黒天として取り込まれたとれます



マハーカーラは、もともと偉大な時間の意で

時間は一切の破壊者であるから


ヒンズー教では、破壊の神であり最高神でもある

シヴァの異名となっています




「空」とは現代的にいうと

あらゆる宇宙の物質は分子レベルで

時間とともに変化しているという話です



こういうふうに、現代科学とむすびつけると

単純な人は

「釈迦ってすごい!」なんて

ごまかされてしまいますが



マハーカーラの概念がそうであるように

すべては変化してやまない

一瞬一瞬、変化している

「空」である

存在とは、時間的な存在である

なんてことは


釈迦が説く以前から

あたり前の事実として、誰もが認識していたのです

だって人間は死ぬわけですし(笑)




バラモン教においては

それを前提として

「世界の創造神」や「宇宙の根本原理」や

「不変的な自己」(アートマンや霊魂)

の存在が語られていた ということです







3、縁起説



因果応報説は、仏教独自のものではありません


では仏教の因果応報説はなにか?


それが「縁起説」です




さらに「縁起」は

一切の事物は、「空」であり

他との関係性によって生起し(縁起)


また新たな因(直接的な因)と

縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因)が加われば

たちまち変化する(空)


ということから「空」と「縁起」は表裏一体なのです




この縁起というのは

バラモン教のサーンキヤ学派の「因中有果」(いんちゅううか)と

ヴァイシェーシカ学派の「因中無果」(いんちゅうむか)の両説に対して

立てられたものとされます



当時、バラモン六派(バラモン教の代表的な6つの学派)の

サーンキヤ学派と、ヴァイシェーシカ学派は

それぞれ、「因中有果」と「因中無果」の説を立てて

論争していたのです




因中有果とは、麻の実から油が搾れるように

原因の中にすでに結果の性質が存在しているという説です



因中無果は、土という原因が

必ず器という結果になるとは限らないように


原因に結果の性質は存在していない

結果はいくつかの原因が集まって生じているという説です




つまり、前述のとおり

因果応報説というのは、釈迦のアイデアでなく

インド古来の宗教観なのです


因果応報について、釈迦の時代

バラモン教で因中有果と因中無果で論争をしていた

ということです





これらに対して、釈迦は「縁起説」という

因果応報説を立てます



縁起説とは

原因があって、結果が生じるものの

原因が、直接的に、結果を生むわけではなく

そこに、間接的な因(助因・要因)である「縁」が加わって

はじめて、結果が生じる

という立場です



すなわち「縁」とは「因」を助け

因とともに「果」を生じさせているモノやコトになります




釈迦は、すべてが直接的な原因の「因」と

間接的な助因である「縁」が≪因縁和合≫して生起する


それにより森羅万象すべてが関係し

世界が成り立っているという「縁起説」を立て


この立場から

創造神や、唯一絶対神のような存在を否定したのです





ある現象に対し

どれが、根本的が因(原因)で

どれが、間接的な因(縁・助因)ですか?

ということになると


どう考えたって「自分」とか「そのモノ自体」を根拠とする因を

「因」(原因)と呼ぶしかないですよね



例えば、花が咲く

因は、種であり

縁は、水、太陽の光、土の養分、花を管理する人などとなります



また、一方通行の道を車で走っていると

向こうから車が逆走してきたので

喧嘩となり殴られてけがをした


けがをした因は、自分の怒りっぽい性格


縁はその道をその時間に車で走った理由とかで


例えば、雨だったので車で通勤したとか

他の道が工事していたからこの道を通ったとか

寝坊して時間がなかったからこの道を通ったとか


いったことになります



これが、釈迦の「縁起説」です







釈迦の「真理」は正しいのか?



では、地震がおきました

机の上のコップが落ちて割れてしまいました

という話になると


なにをもって「因」とし

なにをもって「縁」とするのか?

ということになります



根本的な因は、地震なのか?

コップがガラスだったからなのか?

はたまた重力なのか?  ということです



自分という軸を決めずに

巨視的な視点でとらえると


「結果はいくつかの原因が集まって生じている」

という≪因中無果≫ほうが正しいと言えるのかもしれませんよ






ビッグバン運命論

でこのよう↓に書きました



竜太  自分も18歳のとき

“もし運命があるとしたら”

というのを考えたことがあったよ


宇宙レベルからも、粒子レベルからも

この世界の全ての現象は

物質と物質の反応によって起こっているでしょ


分子レベルで語ると

分子と分子の衝突が起き

あらゆる現象が起きている


心(精神作用)も分子と分子の衝突による

反応の結果と言える



そこで、我々の全ての行為(心の作用も含め)は

本当は意志によるものではなく

原子と原子、分子と分子、物質と物質の衝突による現象にすぎない

と考えみたんだよ



すると、≪神が宇宙を創造したとき、1つの行為を与えた

その神の最初の行為、最初の原因に

物質の衝突がおこり、反応として結果が生じた


その結果に、また物質の衝突による化学反応がおき

次の結果を生じる


その結果に・・・


我々の全ての行為は、この連続性のなかの結果に他ならない

あるいは原因に他ならない


また、我々の存在自体も

この連続性のなかの反応の結果である  とね・・・




酔恭  なるほど・・・

宇宙の全てのことは

物質と物質の衝突による反応によって起こっている


人間の全ての行為(心の作用も含め)も

物質と物質の 物理的・化学的・電気的な反応の

連続性として起きている



その最初を突き詰めていくと

神の最初になした行為にいきつく



つまり、全ての行為は、神の最初になした行為によって

必然の連鎖として起こった反応であり

運命的また必然的に決められていて、人間に自由意志はない

ということだね



ただ、神の最初の行為が「神の意志」

によってなされたものであるなら

“全てが神の意志”によるということになる


でも、神の最初の行為が

「意志によらず偶然なした行為」であるなら


宇宙の全ての現象は

神の最初の行為によって

運命づけられた必然であるとしても

“神の意志ではない”ということにならないかな(笑)






竜太  じつはこの理論は

「神」の存在を考えなくても科学としてちゃんと成立するんだよ


現在の科学では、宇宙は138億年前に

原子よりも小さい点から、ビッグバンによって誕生した

というのが「定説」になっている



すると、この世界は

最初にビッグバンという化学反応が起きて


宇宙の全ては

そこからの原子と原子、また分子と分子の

物理的、化学的あるいは電気的な反応の連鎖によって

起きていることになる



つまり、昨日、マックに行ったのも

今、ここでこうして話をしているのも


最初に起きたビッグバンによって

運命づけられていることになるよね




酔恭  よく「生まれたときから、出会う人がすでに決まっている」

なんて言うけど、生まれたときじゃなくて

宇宙が誕生したときにすでに決められているわけだ



すると「こんなとこにモノ置くなよ

けつまづいちゃったじゃない」→


「俺のせいじゃないよ

宇宙が誕生したときから決まっていたんだから」

という話になるな(笑)



それに、神様のスタートがビッグバンじゃなかったら

人間の運命は別の運命をたどっていたかもしれない

ってことも言えるけど(笑)




酔恭  「ラプラスの悪魔」からだと

各個人の原因による

未来・運命しか導き出せないのに対し


竜太のこの説はそれを超えて

一つ(神やビッグバン)の原因よる

未来・運命が示されているところに

おもしろさがあるね





【 ラプラスの悪魔」とは

フランスの数学者・物理学者の

ピエール・シモン・ラプラス(1749~1827)によって提唱


現代的に言うと

≪仮に、この宇宙に存在する全ての原子の運動と位置を

知ることができるような悪魔が存在し

それを現代の物理学の理論と超越計算をもってすれば

原子の時間的変化を全て計算できることになる

つまりはこの悪魔は未来の起こりうる全ての現象を

知っていることになる≫ということになる といった理論 】





このように

もっと巨視的な視点でとらえると

一元論的な≪因中有果≫のほうが正しい

とさえ言えるのです(笑)




世界は「縁起」という

関係性や調和性、相互作用によって

展開しているように思えます


しかし、それは、世界が

あらかじめ決められた関係性や調和性において

交流(相互作用)し、展開しているだけである

という話も成り立つということです






いずれにしても釈迦の思想というのは

因中有果説や、因中無果説に対して

縁起説を打ち出したというくらいなものというです



とはいえ、縁起をもって、釈迦が

創造神や、アートマンの存在を否定したところに

斬新さがあったとは思いますが・・・・





それから、釈迦は「仏教」なんていう教えや

「教団」なんかつくって

それを、自分の根拠にしています


自分の根拠とは

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕であって

執着そのものです



なのに他人には「執着はダメである」とか

あるいは「私(釈迦)の教説を

あなたの根拠、救済原理にしていきなさい」

などと教えていったのです


その意味ではめちゃくちゃな人間です(笑)


まぁ、自分で根拠を築けない人に≪根拠を与える≫

という意味もあったのでしょうけれど・・・・




それから、釈迦の教えの根本は

執着をなくす→ 苦が消滅する→ 涅槃(悟りの境地)→ 輪廻からの解脱

と信じ込まされていますが


本当は、輪廻転生からの解脱 という死後の根拠が

前提としてあって、成り立つのです(笑)



つまり、「死後の自分」に対する執着そのものを

前提として、成り立っているということです




一念三千




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