緋山「B級哲学仙境録」 仏教編 チベット仏教とは? タントラとチベット仏教 ①



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




タントラと
チベット仏教 ①





タントラとは?



タントラとは、そもそもヒンズー教のシャクティ派の諸聖典をいい

その影響をうけて成立した

インドの後期密教=左道密教の諸聖典をもいいます




もともとの意味は、縦糸(スートラ・経)に対して

横糸(タントラ・緯)を指すといいます



つまり正統派(経典)で禁じられていた肉食

飲酒(おんじゅ)、性交などを教義として取り入れたものが

タントラということですが

特に男女の性交を悟りの境地とするところにタントラの特徴があるのです





ちなみに、 バラモン教とは

前2千年~前1千5百年頃 西インドに侵入を開始し

前1千年頃にはインダスやガンジス河流域などに都市国家をつくった

アーリア人のもたらした信仰で多神教です


仏教やキリスト教のような創唱宗教ではなく

日本の神道のように教祖はいません



ヒンズー教は、バラモン教が変貌して成立した宗教です

前6~前4世紀に、釈迦をはじめとする反バラモンの自由思想家たちが活躍し

これによりバラモン文化の枠組みが崩壊したといいます


バラモン教は、前3世紀頃からアーリア人の神々に

土着民の神々を加えるなど土着民の非アーリア的な民間信仰や習俗を吸収し

変貌していきました


そしておそくとも5世紀までにはシヴァやヴィシュヌを最高神とする

ヒンズー教へと生まれ変わったと考えられています



ちなみにヒンズー教の成立過程にあたる前2~後3世紀は

仏教がインド宗教界、思想界の主流であったそうです



ヒンズー教もバラモン教同様、特定の人物によって

創唱されたものではありません


ヒンズーとはペルシア語に由来するといいます

ペルシア人(ペルシアは現在のイラン)がシンドゥ河(現在のインダス河)を

ヒンドゥと発音、その流域住民をもヒンドゥと呼んだことに由来し

広くインド人を意味するといいます





オウム真理教の麻原死刑囚が

タントラ・ヴァジラ・ヤーナという教え

をつくったというのを聞いたことはありますか?


小乗(ヒーナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)に対して

密教は、金剛乗(ヴァジラヤーナ)を主張します


また、金剛乗の立場から

大乗を、波羅蜜乗や菩薩乗ともいいます



金剛(バジラ)とは、ダイヤモンドとも訳されますが

実際にダイヤモンドを指したかは不明で

仏教では、金剛を煩悩を打ち砕く堅固な智慧にたとえます


金剛乗とは、金剛が最も堅く

最も貴重であることから、小乗・大乗を超えた最高の教えの意味ですね



オウム真理教は、インドの後期密教=タントラや

チベット仏教の思想を根本に

ヒンズー教の最高神 シヴァへの信仰、ヨガ、キリスト教のメシア思想や

ハルマゲドン(終末論)

原始仏教あるいは原始キリスト教的な共有財産制による共同生活など

雑多な要素を取り入れた教団です






ヒンズー教のシャクティ派の特徴は?


最高神 シヴァの妃である ドゥルガー

(パールバディー、ウマー、ガウリー、カーリー、

アムビカーなどの別名をもつ)を

シャクティ(性力)として崇拝するところです


ヒンズー教は、シヴァ派とビシュヌ派に大別されますが

シャクティ派は、シヴァ派の一派です



ビシュヌを最高神として崇拝するビシュヌ派にも

ビシュヌの妃であるラクシュミー

〔仏教に取り入れられ吉祥天となっている。 仏教では毘沙門天の妃〕を

シャクティとして崇拝する宗派もあるらしいです



シャクティは宇宙の万物を発動させる女性原理であり

輪廻のもととなる無明でもあり

解脱(輪廻からの解放)のもとでもあるといいます


万物は女性(雌)から生まれる

それゆえ、女性のシャクティが、この宇宙を発動させ

万物の輪廻転生と解脱を司っているということですね



そして人間はシャクティを完全に支配し、シヴァと一体化することで

あらゆる神通力(超能力)を得、全世界を支配し

解脱も達成できるというのがシャクティ派の立場です






解脱のための代表的な実践法は2つあります


1つが、身体を宇宙とみなし

ハタ・ヨガ〔強制ヨガ。身体をねじまげたりする坐法と呼吸法を行うヨガ

身体を宇宙とみなし、身体の操作により宇宙そのものと合一できるとする

日本でいうヨガとはこのハタ・ヨガ〕によって目的を達成しようというものです



≪ 宇宙の気息は、人体においては脊柱を通る脈管の中を流れている

さらに脈管には、チャクラと呼ばれる集積所があり、気息が蓄積されている

このチャクラは脊柱の脈管に6つある


脊柱の最下部あたりにあるチャクラは、4弁よりなる蓮華の形をしている


へそのあたりにあるチャクラは6弁の蓮華で

そのすぐ上には10弁の蓮華のチャクラがある


心臓近くには12弁の蓮華形のチャクラがあり

のどのあたりには16弁の蓮華のチャクラが

みけんのあたりには2弁の蓮華のチャクラがある



これら6つに加えて、さらに2つのチャクラがある


1つは脊柱最下部のチャクラの直下にある三角形のチャクラで

ここにシヴァの妃と同一とされるシャクティ(性力)が

三重半のとぐろをまいた蛇の形で存在している

この蛇をクンダリニーという



もう1つは、頭頂部にある千弁の蓮華形をしたチャクラで

ここにシヴァが住む


ヨガによって、クンダリニーを目覚めさせると

クンダリニーは脊柱を通る脈管を途中のチャクラを

中継地としながら上昇する

そして頭頂のチャクラに到り、宇宙の原理であるシヴァ合一する ≫


などといったものです






●  シヴァ


シヴァとは、本来、吉祥を意味する形容詞だといいます


バラモン教の聖典 リグ・ヴェーダの

暴風神 ルドラと同一視されますが

この時代、シヴァはそれほど大きな神格ではなかったといいます


やがて諸地方の土着の神と習合を重ね

ついに世界の主宰神になったとされます


とくに世界を破壊する神として恐れられるに至りました



ヒンズー教神話では

太古の海を神々が攪拌し、アムリタ(不死の飲料)を得ようしたとき

大蛇バースキが猛毒(ハラーハラ)を吐き、世界は滅びそうになります


シヴァがこの毒を飲み干し事なきを得ますが

シヴァのノドはそのために焼け、頸(くび)が青黒くなったので

ニーラカンタ(青い頸)の異名を持ちます



また、舞踏の創始者とされ、歌舞音曲の守護神として

ナタラージャ(踊りの主の意)とも呼ばれ

丸い炎の中で片足をあげて踊っている姿で描かれます




また、世界を破壊する神 マハーカーラ

〔偉大な時間の意。時間は一切の破壊者であることから

黒い姿から大いなる暗黒(大黒)とも訳され

仏教に大黒天として取り込まれた〕の異名を持ちます



また、天上界から落下したガンジス川を頭頂で支え

ガンガーダラ(ガンジスを支える神)と呼ばれるシヴァ像は

頭頂部からは小さな噴水が吹き出していて


絵画場合、頭髪の中で

ガンガー女神(ガンジス川の神格化)が

口から水を噴出しているものも多いといいます


 転 写


これはヒマラヤ山脈におけるガンジス川の始まりを示すといいます



また、金、銀、鉄でできた悪魔の3つの都を

一矢(あるいは三叉の戟)で貫き

焼き尽くし、三都破壊者の名を持ちます



この他、ハラ(ハリと呼ばれるビシュヌに対応)

バイラヴァ(恐怖すべき者)  シャルベーシャ(有翼の獅子)

パシュパティ(獣の王。シヴァ派の一派にパシュパィ派がある)

マハーデーヴァ(偉大なる神。大天)

マハーシュバラ(大自在天)など異名は1000を超えるそうです



つねに、ヒマラヤで苦行する一方

ヒマラヤの娘 パールバディーを妻とし愛欲の限りを尽くし

ヒマラヤのカイラス山を住居とするとされます




また、両目の間には第3の目があり

この目から怒ると炎が出て全てを焼き尽くします


額には、白く横に3本の線が描かれます



 転 写



大蛇を首に巻き、腰には虎皮を巻き

三叉(さんさ・先が3に割れた)の戟(ほこ)を持ち

ナンディン(乳白色の牡牛)に乗り、妖怪を従えます


二臂あるいは四臂

四面四臂の姿でも描かれます






シヴァは、仏教に取り込まれ

大自在天〔マハーシュバラ・

摩醯首羅天(まけいしゅらてん)。偉大なる主宰神の意〕


また、自在天 (自在天)や

伊舎那天(シヴァの8相の1つイーシャナから)となり

三千世界(あらゆる世界)の主となりました



しかし、密教神話では

大日如来に従わず「三世界(三千世界)の主である」

と称した従来の諸天の主 大自在天は


降三世明王(ごうざんぜみょうおう・密教の五大明王の1つ)

によって降伏し


降三世明王に、妻の烏摩(ウマー・パールバディーの別名)とともに

踏みつけられる存在になています



 降三世明王   国宝 (東寺)




降三世明王は、この密教神話に由来する明王で

三世界の主と名乗る大自在天を降伏させたことから

≪降三世≫といいます


後期密教のさきがけに登場した新明王であるといいます



なお、大自在天が

天上界で、天女たちにかしずかれ、歌舞を楽しんでいたとき


髪の生えぎわから、突如生まれたのが

福徳と諸芸成就の女神 技芸天

〔大自在天女。摩醯首羅頂生(ちょうしょう)天女〕です






バラモン教では

最古のリグ・ヴェーダ時代(前1500~前900頃)には


インドラ〔シャクロー・デーバーナーム・インドラ。軍神。雷神

仏教に取り込まれて帝釈天となっている〕

が最高神的地位にいて


前500年頃には

ブラフマー〔梵天・宇宙の最高原理の「梵」(ブラフマン)の神格化〕

に代わり


ヒンズー教となって

ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3神が

れぞれ宇宙の創造、維持、破壊を司る

として最高神の座にありました



ところがヴィシュヌとシヴァの信仰が高まるにつれ

ブラフマーの地位が下がり

宇宙はヴィシュヌかシヴァのどちらかの影響のもと

ブラフマーの創造がなされた

とされるようになったといいます






そこで、ヒンズー教各派は

ヴィシュヌとシヴァのどちらを最高神として信仰するかによって

ヴィシュヌ派とシヴァ派に大別されます



シヴァ派では、シヴァを、男性の性器(リンガ)で象徴し

シヴァ派の寺院には、リンガが祀られていて


女陰をあらわす皿のような台の上に

その女陰を貫く形で立っているといいます



リンガは創造の象徴で

信者は性器崇拝とは考えていないらしいです


小さなリンガを身につける信徒もいるといいます







もう1つは、マントラ(真言)という呪文を唱えている中で

シャクティとみなした女性と性交することなのです






密教の成立課程をみると

雑密(ぞうみつ) → 純密 → 左道(タントラ) となります


雑密とは、招福除災、現世利益のみの密教


純密は、即身成仏を説く密教で

日本の真言宗(真言密教)と天台宗(天台密教)はこれにあたります


左道密教は、はしょっていうと

男女交合の体験、すなわちオーガズムが即身成仏とする密教です

チベット仏教で盛んに行われました







チベット仏教と活仏



チベット仏教4大宗派の1つサキャ派のパスパが

元の始祖 フビライの帝師となって以来

歴代帝師がサキャ派より選出されましたが


帝師たちは元の宮廷をタントラ仏教で惑溺させ

皇帝を征服者から莫大な布施をしてくれる施主に

変えてしまったというのはよく知られている話です



●  元(1271~1368)

モンゴル帝国が、宋を滅ぼして建てた王朝

チンギス・ハンが、1206年にモンゴル帝国を建国

その孫 フビライ・ハンが中国を平定

帝国の中心を中国に移して元と称した

フビライは日本に2度、軍船を送っている






14後半に、チベット仏教史上最高の天才、最大の思想家と称される

ツォンカパ (1357~1415)が登場します


彼は、空観により密教を解釈し

正統派の戒律に反する性的な実践を一切排除したとされます


性瑜伽を瞑想にとどめ、女性との性瑜伽により得られるとされていた

悟りの境地(般若大楽)とは、空を体得した境地に他ならないとしたようです



そして彼が現在のチベット仏教最大宗派のゲルク派の開祖です

ゲルク派は、ダライ・ラマを出している宗派で

ゲルク派とは徳行派の意味だといいます



ツォンカパは、空の哲学を根本とし、戒律を守り

密教をもそれに矛盾せず実践できるという教義体系

つまり小乗、大乗、金剛乗(密教)の全てを悟りに到る道として

統合した教義体系を確立したとされています



基本、チベット仏教とは「空観」と「密教」が融合したものなのです






活仏(かつぶつ)って何?


転生活仏のことですね


そもそもどのようにして

チベット仏教において活仏が誕生したかですが


僧侶は妻帯することが許されない

だから、出家する前に子をもうけておいて

のちにその子に教団を相続させたり

親族を教団幹部としたりするなどして

氏族による教団の私有化がすすんだ


このため、教団の宗教的結束が弱まった

この反省として活仏を立てる教団が誕生した

とされます



14世紀半ばのカルマ派が最初で

ゲルク派のダライ・ラマは16世紀半ばからです


ダライとは歴代法主の名の一部 ギャツォ(大海の意)のモンゴル語で

ラマはチベット語です 師匠、尊師をさします

(チベット仏教はラマ教とも呼ばれている)


あわせて大海のような果てしない徳を有する高僧の意味であるといいます



チベット仏教の活仏は

楞伽経 (りょうがきょう・禅宗が依りどころとする大乗経典)の

「大悲闡提」〔だいひせんだい・菩薩は大悲をもって

自ら涅槃(ねはん)に入らず救済を続ける〕

の教えにもとづくとされます


これによりすぐれた僧侶は、全ての衆生が悟りを得て救済されるまで

生まれ変わって救済を続け

自分は涅槃(苦を滅した静寂な境地。悟りの境地)

に入らないとされたようです





ダライ・ラマが没すると、その死後49日間に妊娠し

その後成長した幼児のなかから

次のダライ・ラマをおつげや夢占いで探し出し

故人の遺品を選び取らせて、転生活仏と決定するらしいです


ただダライ・ラマに選ばれる者にダライ・ラマたる客観的証拠がないため

不正があったり争いとなったりしたそうです


それゆえ、清(しん・1616~1912・中国最後の王朝)支配の

チベットでは、瓶に名札を入れて抽選することもあったそうです


また転生者が成人するまで名代職が権力を与えられていたことから

9~12代のダライ・ラマは成人せずに暗殺されています







ダライラマとパンチェンラマ



チベットに仏教が伝来したのは、7世紀前半とされます

聖徳太子とほぼ同時期です


古代チベット王国の33代王で、チベットを統一し

唐から吐蕃(とばん)と呼ばれた王朝を建国した ソンツェン・ガンポは

ネパールからティツゥン、唐から文成公主(ぶんせいこうしゅ)

という2人の妃をむかえました


前者がインド仏教、後者が中国仏教を伝えたとされます


なお後世、ソンツェン・ガンポ王は、観音菩薩の化身として

歴代ダライ・ラマに転生し、現在もチベットを統治している

という信仰が生じています



ゲルク派では、ダライ・ラマ以前から

転生活仏制度はあったそうですが

ゲルク派の ソーナム・ギャツォ

(4歳で ゲンドゥン・ギャツォの転生者に選ばれ7歳で出家)は


1578年に、青海〔チンハイ・中国西部。人口の半数がチベット族〕

におもむき、モンゴルのトゥメット部族の長 アルタン・ハーンを教化して

ダライ・ラマの称号を贈られます

これがダライ・ラマの始まりといいます


のちに、ツォンカパの高弟の1人 ゲンドゥン・トップ(タシルンポ寺を建立)を

ダライ・ラマ第1世

ゲンドゥン・ギャツォを第2世とさかのぼり

ソーナム・ギャツォを第3世とすることが決定されたといいます





パンチェン・ラマというのも聞くけど?


これもゲルク派の活仏です

ダライ・ラマに次ぐ活仏が、パンチェン・ラマです


ダライ・ラマ5世が、自らを活仏として選んだ選定者であり

師匠であるロサン・チョエキゲルツェンに贈った尊称にはじまるそうです


パンチェンとは、サンスクリット語の学者と

チベット語の偉大なるの合成略語だそうです


ダライ・ラマが多くのチベット人とともにインドに亡命し

亡命政権を樹立して以来、パンチェン・ラマが

チベットの宗教的指導者となっていました



ダライ・ラマが観音菩薩の化身とされるのに対して

阿弥陀如来の化身〔阿弥陀如来には、アミタース(無量寿仏)と

アミターバ(無量光仏)の2つの梵名が知られる

チベット仏教では、阿弥陀を無量寿仏と無量光仏に分ける

パンチェン・ラマは無量光仏の化身とされる〕とされ

ダライ・ラマに匹敵する信仰をあつめてきました


このため、周囲に反ダライ・ラマ、反中央政府の意識ができあがり

ダライ・ラマとは今日までたびたび衝突を繰り広げてきました


ダライ・ラマ、パンチェン・ラマどちらか一方が没すると

もう一方がその転生者を認定することになっているそうです







チベット仏教の歴史



チベットを統一し、唐から吐蕃(とばん)と呼ばれた王朝を建国した

ソンツェン・ガンポ(581~649)は

唐から文成公主(ぶんせいこうしゅ)という2人の妃をむかえ

前者がインド仏教、後者が中国仏教を伝えたとされます


のちにソンツェン・ガンポ王は、観音菩薩の化身として

歴代ダライ・ラマに転生し、現在もチベットを統治している

という信仰が生じたといいます


また、唐に家臣を送り文字と文法を学ばせて

チベット文字を制定させたことでも知られ

この王の時代にさかんにサンスクリット語経典が

チベット語に翻訳されています


ソンツェン・ガンポの2人の妃は、亡くなった王をとむらうために

トゥルナン寺、ラモチェ寺を創建

2人を通じて仏教がチベットに広まったとされます




その後、仏教は一時廃れたようですが


8世紀半ばに、ティソン・デツェン王

〔742~797。唐の都 長安を一時占拠。787年には敦煌を占領

王国の繁栄を築いた〕が出現します


王は、仏教の再興、国教化を決意し

セルナンという人を、インドに遣わし


インドのナーランダ寺の学僧で

【 全ての事物は心の本体である識によって仮にあらわれた存在であり

ただ識のみがある 】という唯識派の理論を

中観派の空の思想に取り入れた

瑜伽行中観派(ゆがぎょうちゅうがんは)の祖

シャーンタラクシタ〔725~784頃。漢訳名 寂護(じゃくご)〕を迎え

彼の協力のもと サムイェー寺を建立しています



瑜伽行中観派は、外界は心がつくりだした幻であるという

唯識思想を認める中観派だといいます


外界の事物は知の認識対象として、仮として(空ゆえ)存在するという

本来の中観派の立場に対して


知は内なる心のつくり出した形象を認識する

という立場をとるといいます




また、在家密教者の パドマサンババをインドから招いています

パドマサンババは

サムイェー寺の定礎(ていそ・工事の始めに土台石をすえること)

で導師をつとめています



●  パドマサンババ(生没年不詳)


漢訳名 蓮華生(れんげしょう)。仏敵を調伏する修法などを伝えたとされる

女性との性交渉によって仏の境地に至る性瑜伽を行じたという伝承もある

チベット四大宗派の1つ ニンマ派は、彼を開祖とあおぐ



●  ニンマ派


古派の意。他派が出家中心主義であるのに対し

在家主義をとり容易な観想法でただちに悟りに至ると説く

ゾクチェン〔大究竟(だいくきょう)・あるがままに完成している

という心の本質を知る観想法〕を中心とする





●  ポン教(ボン教)


密教と似る教義と修行体系をもつチベットの民族宗教

曼荼羅を最高の天啓とし、自己の完成を目指す


チベットの西方、中央アジアにあるという神秘の国 オルモルリングに

1万8千年前、王子として生まれた シェンラプ・ミオを始祖とし

ボン教のイダム(守護尊)は全て彼の化身とされる

(その意味では外来の宗教)


シェンラプ・ミオは、31歳のとき、世を捨てて

中央アジア一帯で行われていた生贄などを行う

シャーマニズム的な宗教(古代ボン)を嫌い、永遠なるボンを広めたとされる


古代ボンでは、死後、ヤギ、ヤク、ウマなどが

七つの谷を越える案内や供をするとして

それらを犠牲にして永遠の父祖の国にたどり着くことを願ったという


なお、シェンラプ・ミオは

人間に生まれる前からブッダ(覚者)であったとされる



初め、ボンとは組織的な宗教の呼称ではなく

一種の祭司のことを指していて

シャーマニズム的な信仰であったようである


教団宗教として成立したのは11世紀頃とされる


ボン教迫害時に、仏教と習合し生まれたのが

新しいボンで、ニンマ派の仏教と区別がつきにくくなっている


近年、新しいボンから永遠なるボン に回帰する動きもある


ニンマ派同様、ゾクチェンを説く






779年、サムイェー寺が完成すると

シャーンタラクシタは、大乗仏教の戒律を6人のチベット人に授け

ここにチベット初の出家僧団が設立されたといいます

この6人の1人としてセルナンが受戒しています


セルナンは、シャーンタラクシタが没すると

サムイェー寺の管長を継ぎますが

過度に仏教を優遇する政策を行って失脚して隠棲します



ところが、中国の禅僧 摩訶衍〔まかえん・生没年不詳

787年に、チベットが敦煌を占領したことによりチベットに連行

792年、摩訶衍はティソン・デツェン王よりチベットでの布教を許された

王妃や大臣夫人らの帰依を得て禅を弘めた〕のもたらした

中国禅が弘まり


王は、禅の反社会性を心配してセルナンを呼び戻したといいます


セルナンはシャーンタラクシタが没していたので

彼の弟子で、ナーランダ寺院の学僧 カマラシーラ

〔740頃~797頃。漢訳名 蓮華戒〕を招き

摩訶衍と宗論対決をさせました


これが有名な「サムイェー寺の宗論」です



摩訶衍は

輪廻転生からの解脱を妨げているのは、思考および知覚作用であり

これを離れた状態が、不思不観という仏の境地である


禅によって、心奥に妄想(あやまった考え)がおこることを観じれば

この境地に到達できると主張したといいます



しかし、カマラシーラにより

利他の行がともなわない禅は大乗ではない

それに禅は、三昧(さんまい・心をしずめ1つの対象に集中すること)

だけをもとめて

正見(しょうけん)を欠き、知恵を完成させることができず

無自性を悟ることができない

ゆえに仏教ですらない と断じれたそうです



また、摩訶衍は、心奥に妄想がおこることを観じれば

即座に悟りに至るという頓悟(とんご)を主張したのに対し

カマラシーカは、段階的に修行を積んで行き悟りに至るという

漸悟(ぜんご)を主張したといいます



宗論は、カマラシーラの勝利で終わり、中国の禅は異教となり

摩訶衍は敦煌へ追放されます


これ以来、チベットでは

インド仏教が正統派として受け継がれていったそうです


そのためか、カマラシーラは、反対勢力によって暗殺された

とも言われています





チベットではその後もインドより訳経僧をむかえ

膨大な経論(経典や論書)がチベット語に翻訳され

仏教は興隆したようです


9世紀中頃には、僧1人に隷家7戸を与える特権や

造寺・造仏による財政負担が問題となり、仏教に対する国論が割れます


ランダルマ王は廃仏を行いますが殺害され

王位継承をめぐり王朝が分裂(843)し、崩壊します


王朝が滅ぶと

正統派仏教は国家的保護を失い

それまで禁制となっていた

タントラが正統派の教義に入り込んできたといいます



正統派とタントラの矛盾なき統合を目指したのが

ツォンカパ(1357~1415)ですが

それはずっとあとのことです



ツォンカパ以前に、アティーシャ

〔982~1054・インド東部ベンガル地方のサホル国の王子

ビクラマシー寺管長

1042年、西チベットのガリ国の王の招きでチベットに入る〕

という人が

低迷していたチベット仏教を復興、改革します


このためチベットでは、彼の時代以後を「後期仏教伝播時代」といいます


彼は、小乗・大乗・金剛乗(密教)の統合という

最終期インド仏教の理念を継承し「菩提道灯論」を著しています


この書は、小乗、大乗、金剛乗の全てを悟りに至る道とし

中観派の空観による智慧の獲得を重視しています



「菩提道灯論」は彼の弟子となった ドムトゥンがおこしたカダム派

〔唯識思想を認め、中観派の立場をとる

15世紀におこったゲルク派に吸収

このため、ゲルク派は新カダム派と呼ばれた〕

の基本経典となっています


のちに、アティーシャの理念は

ツォンカパに継承され

ツォンカパは「菩提道次第論」を著しています



チベット仏教と論理学





13世紀中頃には、モンゴル軍がチベットに侵入

当時、チベットに統一政権はなく、諸民族が協議し

最大の氏族教団であったサキャ派の長老が

モンゴルのグデン王のもとをおとずれ

貢ぎ物を納めることを約束しています



そして

サキャ派のパスパが、元(1271~1368)の始祖フビライの帝師となり

パスパは、元のチベット支配を代行し

元に対しては、チベット仏教教団に、多くの特権を認めさせたといいます


以降、歴代帝師がサキャ派より選出され

帝師たちは元の宮廷をタントラ仏教で惑溺させ

皇帝を征服者から莫大な布施をしてくれる施主に変えてしまったわけです




●  サキャ派


クンチョク・ゲボル(1034~1102)が

サキャ(ツァン地方)に密教道場を建立


一族がそこを拠点に布教したことにはじまる典型的な氏族教団


教義は、悟りを目指して修行する過程(道)に

すでに悟り(果)が得られているという「道果説」を説く


なお、日本の「道果説」としては、曹洞宗の祖 道元の

「坐禅することが悟りそのものである」という

「修証一等」〔しゅしょういっとう・修証不二ともいう。修行と証(悟り)が一体

修行のなかに悟りがあること〕や

「本証妙修」〔ほんしょうみょうしゅ・修証一等と同義で

本来的な悟りの上での修行〕が有名






15世紀初めには、ツォンカパ(1357~1415)が登場しますが

彼はチベット東北部(中国青海省)ツォンカの出身で

幼児期に出家し、16歳の頃 中央チベットに出て

主としてサキャ派の教義を学んだそうです


また、彼のおこしたゲルク派は、従来の学派の僧が

紅帽(こうぼう)をかぶり紅衣を着たことから紅帽派と呼ばれるのに対し

黄帽(こうぼう)をかぶり黄衣を着たことから黄帽派と呼ばれます


〔紅帽、黄帽ともに「こうぼう」と読む

またチベット仏教には、この他 白・黒帽派など多数あるという〕





それからゲルク派と、対抗勢力のカルマ派(カギュ派の1つ))は

それぞれ諸氏族と結んでしばしば軍事衝突をなしたといいます


第5世ダライ・ラマの ガワン・ロサン・ギャツォ(1617~82)は

1642年にカルマ派の奉ずる政権を倒して

チベット全土を統一し

チベット国王とチベット仏教全体の法主の地位を手にしました



彼は、ラサのマルポリの丘

〔ソンツェン・ガンポ王の宮殿跡地。標高3700m〕に

ポタラ宮の造営を開始しています


ポタラとは、観音菩薩の浄土である

補陀落山(ふだらくせん・サンスクリット語のポータラカの音写)

に由来します


ダライ・ラマが観音菩薩の化身とされることにちなみます





現在のダライ・ラマである14世は

1951年には中国の支配を受け入れ

チベット自治区準備委員会に参加しています


その後は、13世の遺志を継ぎ、独立を目指しましたが

のちに中国共産党と和解し、54年には北京訪問が実現します


しかし59年、ラサでの反乱をきっかけに

多くのチベット人とともにインドに亡命し

ダラムサーラに亡命政権を樹立し現在に至っています



ラサでは、88年の春と秋に中国のチベット支配に抵抗し

独立を求める僧侶ら数千人のデモがあり

パンチェン・ラマ10世が没した89年には

1万人規模の暴動があったといいます



同年、非暴力の立場をとるダライ・ラマに

ノーベル平和賞が授けられています


ダライ・ラマは、現在では独立ではなく

自治権の拡大を訴えているそうです



その後も93、96年にもラサで大規模な反乱が起きています


2008年には、北京オリンピックを前にラサで大規模なデモが生じ

中国政府より弾圧を受け

これに対する抗議行動として

世界各地で聖火リレーのランナーが

リレー中に妨害されるということが起きました





タントラとチベット仏教 ②




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