緋山「B級哲学仙境録」 琉球神道とユタ、斎場御嶽と聞得大君、久高島とイザイホー



B級哲学仙境論


琉球神道とユタ


 




琉球神道とユタ




ユ タ



ユタは、沖縄本島を中心に

南西諸島で活動する民間巫女で

女性がほとんどですが、男性もいるといいます



ユタは、津軽・南部地方のイタコに相当します



語源は不明ですが

左右にゆためくことからとか

あらぬことを口ばしるので

「ゆた口」や「ゆたゆん」(よくしゃべる意)

からきたなどと考えられています



ノロ〔祝女。地域の祭祀を取りしきり

御嶽(うたき)を管理する女性神官

世襲制で、かつては琉球王国より任命された〕

が、沖縄神道の神官であるのに対し


ユタはシャーマン(霊媒師)です




邪馬台国の卑弥呼も女性シャーマンでしたが

沖縄では、女性が祭祀の中心です




ユタは、多くは幼少から病弱で霊能力を持つ者がなる

とされています

宿命によってなるのであり一般人はなれないとされています


イタコが修行型であるのに対し、ユタは召命型なわけです




ユタになる者は

幼児期に不思議な精神体験をし


その後、神ダーリ(巫病・神よりユタになるよう与えられる病気)

にかかり


精神的に不安定な状態となり、死者と交信したり、予言を語ったり

異常な行動をするといいます


神の指示に従うことで精神が安定し、異常行動はなくなり

ユタとしての能力が現れてくるそうです



その後、御嶽(うたき)を巡り

自分の守護神を見つけ、これを憑依(ひょうい)させて

最終的には弟子入りして学ぶそうです





ユタを守護する神(守護霊)は

多くは何代か前の先祖が多いそうですが

観音菩薩などとする者もいるらしいです



また、ユタは、自分の守護霊が

他のユタのそれより霊力が強いことを誇りとするそうです



ユタによる死霊の口寄せを

「マブイワカシ」(マブは霊魂の意。本来は守護する意)というそうで


ユタによって

琉球王朝時代の死霊を呼び出すのを得意としたり

死んで間もない者の霊を得意とするなどの違いがあるそうです



この他、身体から抜け出した生霊を戻して病気を治す

「マブイグミ」なんかを行うといいます



それから、教義も戒律もないことから、ユタの祭壇には

仏教、神道、キリスト教などの偶像なんかが一緒に並べられていたり

副業としてユタを行なっている者も多いらしいです




沖縄には「医者半分、ユタ半分」という言葉があるほど

多くのユタがいて


人々は、結婚相手、結婚の日取り、運勢、転居

ノロなどの神役の選定、家庭の悩み事について

占ってもらってきたといいます



明治以後は、移民により

ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどにも広がり

当地のユタの占いを受けて、沖縄に祈願にくる人もいるそうです



しかし、お金を騙し取るユタもあり

社会問題になることも多かったようです



また、中央集権化や近代化を目指す支配者層には

ユタの存在は脅威で

琉球王国以来、幾度も弾圧を受け


明治期のユタの禁止令、大正期のユタ征伐運動

昭和10年代(戦時体制下)のユタ弾圧

といった歴史もあります







御 嶽



うたき・おたけ と読みます


うたきは、村落をつくった遠い祖先を葬った場所が

のちに聖域となったものと考えられているようです


沖縄県において

神社および鎮守の森に相当する聖地です


多くは森の中の空間で

山そのものや島そのものであることもあります



宮古(宮古島など)や

八重山地方(石垣島・西表島・竹富島など)では


過去に実在したノロの墓が御嶽となっているものも多いようで

そのノロは地域の守護神として祀られているといいます



社殿はなく、本殿にあたる最も神聖な場所を

イベ、イビ、ウブ等と呼び、イベ石という自然石を祀るそうです


イベ石は、古神道の磐座(いわくら)にあたり、神が降臨する場です



イベには、香炉、線香、ロウソクなどが置かれ

酒や供物が供えられます




琉球王国時代、御嶽は完全に男子禁制で

現在でも、イベには、ノロ(祝女)・ニーガン(根神)・

ツカサ(司)などの女性神役しか近づくことはできない

という御嶽も多いようです



なお、村の草分け的な家を ニーヤ(根屋)と呼び

その主人(村の長)が ニーンチュ(根人)

主人の姉妹が ニーガン(根神)です


ニーガンは ノロの支配下にあり、村の祭祀を行ったそうです



なお、宮古、八重山地域には ノロの名称はなく

ノロに代わって、ツカサという神女村落の祭祀を司るそうです




また、大きな御嶽では、人々が御嶽の神を歓待して

歌ったり踊ったりするための

「神あしゃぎ」(神が足をあげる場=腰を下ろす場の意味という)

と呼ばれる四方が吹き抜けの建物が

設けられていることもあるそうです



鳥居がある御嶽も見られますが

これは明治の「皇民化政策」による結果だといいます


明治初期には、宗教政策の一環として

御嶽を神社化する動きもあったそうですが

影響は一部にとどまったらしいです




御嶽に祀る神は

村落共同体の祖霊神の他

太陽神、土地神、水神

火の神、農耕神、鍛冶の神、航海神、竜宮神、英雄神など様々で


普通、それぞれの御嶽には、これを崇拝する集団がいて

代表者の女性神役を中心に

定期的に豊作祈願や悪霊払い等がなされているそうです



現在でも新しい御嶽が出来たり、逆に統合されたり

放置されるなどしているといいます



それから、村落や地域の人々が

加護や繁栄を祈願する場所を

「うがんじゅ」(拝所)と総称するらしく


うがんじゅの多くは御嶽のことだそうですが

他に霊石や洞穴などの場合もあるようです







斎場御嶽と聞得大君



斎場御嶽(せーふぁうたき)は

沖縄県南城市にある史跡です


「せーふぁ」は「最高位」を意味し

15世紀~16世紀の琉球王国最高の御嶽であり

庶民は入口を越えて入ることは許されなかったといいます



また、琉球王国時代には

この御嶽は全てが男子禁制であり

国王であっても、入り口より先に入るには

女装に改める必要があったといいます



なお、斎場御嶽は通称で

正式な名は「君ガ嶽のイビ」また「主ガ嶽のイビ」というそうです


首里城跡などとともに、琉球王国時代の遺跡群として

ユネスコの世界遺産に登録されています



南城市ホームページより 



6つのイベ(神域)があるという  転写 



転 写 



転 写



斎場御嶽は、国家の最高神職である

「聞得大君」(きこえのおおきみ)が管理したそうです



聞得大君は、国王の「おなり神」〔琉球には、妹(おなり)が

兄(えけり)を霊的に守護すると考えがあり

妹の霊力を神格化したものがおなり神〕

に位置付けられていて

国王と王国全土を霊的に守護するものとされていたという


主に王族の女性が任命されていました


琉球全土の祝女(ノロ)の頂点に立ち

命令権限をもったそうですが


祝女の任命権に関しては、国王に一任されていたといいます



王国が崩壊〔1872年(明治5)に明治天皇の臣下となる〕した後も

この役職は存続しましたが


戦時中の1944年に

18代が就任したのを最後に廃職されています




聞得大君の就任の儀式=「御新下り」(うあらうり)は

君手摩(きみてずり・海と太陽を司る女神で、琉球の創造神・守護神)

という女神との聖婚であり


これにより、女神の加護を得て

聞得大君としての霊力を身に宿すのだといいます



また、君手摩は

ニライカナイ(海の彼方、または海の底や地の底にある理想郷)に住み

新しい国王の即位の儀式のときや

琉球王国の存亡の機に降臨し

聞得大君に憑依するとされていたといいます



キンマモン〔君真物・「最高の精霊」という意

海の彼方から来訪し、聞得大君に憑依するとされる〕

と同一視されています







他に有名に御嶽には以下の御嶽などがあります


久高島のクボー御嶽(フボー御嶽・男子禁制で

近年では男女問わず立ち入り禁止となっている)





首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき・首里城内に存在)


 転 写



 転 写





安須森御嶽(あすむぃうたき)は沖縄を創生した

アマミキヨがここに初めて降り立ち

この地から沖縄が創られたとの伝説もあり、山そのものが御嶽です



 辺戸(へど)岬より)安須森御嶽  ウィキペディアより





雨つづ天つぎ御嶽

(あまつづてんつぎうたき・南城市の玉城城内)



 玉城(たまぐすく)城跡  転写


玉城城は「アマツヅ城」とも称され

築城年代や城主など分かっていないそうですが

アマミキヨが築いた城とであるとの伝説もあります



 主郭の城門  転写


 主郭の城門 城側から  転写


 雨つづ天つぎ御嶽  転写







琉球王国の歴史



日本の鎌倉時代にあたる12世紀頃から

各地に「按司」(あじ)とよばれる豪族が現れ

これらが次第に、整理・淘汰され


鎌倉時代の末から室町時代のはじめにあたる

14世紀前半には

現在の糸満市を中心とする「南山王国」

今帰仁村を中心とする「北山王国」

那覇市と浦添市を中心とする「中山王国」

の3つの王国が誕生



これを統一したのが

中山王国の2代目王の 尚巴志(しょうはし)


これが、琉球(沖縄)における最初の統一王朝

第一尚氏王朝(1429年に成立)である



第5代王・尚金福(しょうきんぷく)が亡くなると

息子の志魯(しろ)と弟の布里との王位をめぐる内乱が起き


この乱で首里城は全焼し

志魯は死に、布里は首里を追われ


金福王・布里らの弟にあたる

尚泰久(しょうたいきゅう)が王位を継承




統一王朝が成立して40年後の1469年に

農夫出身の金丸(尚円)が

クーデターにより、第二尚氏王朝を開く


金丸は尚泰久のもとで出世するが

尚泰久が死去して、尚徳が王位を継ぐと

しだいに疎まれるようになり、ついには隠遁する


尚徳が29歳で死去すると

尚徳の世子が

金丸派によって殺害され (金丸が主導したのかは不明らしい)

金丸が、群臣の推挙により王位についたされる


金丸は中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承したとされる




1609年、琉球王国は

家康の許可をもらった薩摩藩により征服され

年貢を上納することで 存続を許されている


薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠したという


以後270年間、薩摩藩の支配下でありながら

中国にも属し、なおかつ徳川幕府に朝貢する国である

という形で、琉球王国として存続していく



明治維新の後

日本と清で、琉球王国がどちらの領土であるかもめる


明治政府は、1872年

琉球王の尚泰(しょうたい・第二尚氏王朝19代)を

琉球藩王に任命しすることで

琉球王の任命権は、日本が持っているというアピールする



1875年、琉球藩は

清との関係を存続を政府に願うが、政府はこれを拒否



1879年には、政府が琉球王国に侵攻、尚泰を東京に移住させ

琉球王国を廃止し、沖縄県を設置した


これを、琉球処分という


琉球処分官に任命された松田道之〔政治家。大津県令

滋賀県令(ともに初代)、東京府知事(7代)などを務めた〕は


1879年(明治12)3月27日

警官160人・軍隊(熊本鎮台分遣隊)400人

の武力を引き連れ首里城に乗り込み

廃藩置県をおこなうことを通達


(ちなみに分遣隊とは、特別の作戦任務より

一時的に本来の指揮系統から独立して行動する部隊をいう)


3月31日に首里城は開け渡され

約500年間続いた琉球王国は終焉し、4月4日、沖縄県となる



最後の琉球国王 尚泰は侯爵に叙せられ

子の尚典は、貴族院議員を務めている





なお、薩摩藩により

琉球王国は滅ぼされなかったのは

薩摩が明と貿易をするために

琉球王国を利用したからだとされます


つまり、形の上で琉球王国は存在させ

明に服従させて貿易を行わせるが

実際には薩摩藩が支配しているという状態にあったといいます



また、どこの藩よりもスムーズに

廃藩置県(琉球処分)がなされているという事実



さらに、最後の王 尚泰が、他の藩主と同様

華族になっているという事実


こうしたことから


琉球処分=明治政府の侵略

というのは嘘というか、(共産系の)プロパガンダであるようです






聞得大君は3代国王の妹が最初で

琉球処分による王国消滅後も

東京での尚氏宗家の女性に継承されてきました

現在も継承されています


沖縄戦と沖縄のアメリカ統治で

表立った祭祀が長く中断されるようになると

「聞得大君」を自称する者が何人か現れるようになったそうです


そこで尚家の第23代当主は

「地元の要請」を受け

聞得大君を沖縄に派遣して祭儀を担わせたそうです






文化、伝統の観点からしても

琉球処分を明治政府による侵略とするのはどうでしょうか?



本土では

「廃仏毀釈」〔はいぶつきしゃく・仏を廃し釈迦を捨てる〕

が起きています



政府は、村鎮守の神主(かんぬし)の身分を

僧侶より上位にし「釈迦の教えなどとるに足らない」と宣伝します



これに刺激され、水戸学や国学思想の強い地域を中心に

それまで僧侶の権威の下に置かれていた

神職や神道家たちが先頭となって


「廃仏毀釈」の運動が全国にまき起こり


多くの寺院が破壊、焼却され、仏像や仏具、経典などの文化財が消失


廃寺や寺院の統合(全国の約半数の寺院が消滅したとされる)

僧侶の還俗などが相次いだとされます



なかでも薩摩藩、松本藩、富山藩

苗木潘(なえぎはん・岐阜県中津川市)

津和野藩、伊勢の神領、隠岐、佐渡などで激ししく


薩摩潘(1060ヵ寺)、苗木潘、隠岐では寺院が全廃

富山潘では1635ヵ寺のうち6ヶ寺を残して撤廃されています




こうしたことと比較しても

文化的に侵略されたというのも

当てはまらないのではないでしょうか?



なお、ユタの禁止に関しては

明治政府にはじまったことではなく


琉球王国がそもそも

聞得大君、ノロを、祭政一致体制に組み込む一方で

それにそぐわないユタを度々弾圧しています






【 首里城の歴史・・・・


築城の年代や築城主は明らかになっていないが

発掘調査などから、13世紀末から14世紀には存在していたと推定


尚巴志による琉球王国が誕生すると、王国の王城として

政治・外交・文化の中心地となった


1453年、 志魯と布里の乱により全焼  その後、再建が進む

1660年、 失火により正殿などが全焼  72年再建

1709年  首里城焼失  12年再建 (15年完了)


1925年(大正14)  正殿が国宝に指定

1928年  正殿の大修理がはじまる

1933年  守礼の門など4つの門が国宝に指定


1945年(昭和20)  沖縄戦で全焼


1958年  守礼の門が復元  その後、復元が進み

1992年  正殿など一部が公開


2000年(平成12)  世界遺産登録

2019年1月 約30年にわたる復元工事を完了


2019年(令和元年)10月31日 失火により正殿、北殿、南殿が全焼 】







久高島とアミマキヨ



沖縄の信仰は


① ニライカナイ(海のかなたある神々の住む場所)

の神々(人間に幸をもたらす)への信仰


② 祖霊への信仰


③ おなり神信仰


に集約されます



久高島は、ニライカナイの神々が最初に訪れる場所とされます




国王は、聞得大君を伴って

久高島(くだかじま・沖縄県南城市・

隆起サンゴ礁の島)に渡り

礼拝を行っていたといいます



ウィキペディアより




後に本島の斎場御嶽から

久高島を遙拝する形に変わったとされます




斎場御嶽の久高島を望む遥拝場所  転写




遥拝場所からの久高島  転写





久高島は、周囲8.0kmの細長く平坦な島で

琉球開闢(かいびゃく)の神、創造神 アマミキヨ が

天から舞い降りてきて


ここから国づくりを始めたということから

「神の島」として知られます













アマミキヨ(アマミク、アマミキュ、阿摩美久)は、女神です


琉球最古の歌謡集「おもろさうし」

〔琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531)から

尚豊王代の天啓3年(1623)にかけて首里王府によって編纂〕

によると


女神のアマミキヨと、男神のシネリキヨは

日神に命じられて島々と人間を造ったとされます


3人の子をもうけ

それぞれが領主、祝女(ノロ)、民のはじまりとされます




琉球の最初の史書「中山世鑑」(1650年編述)では

創成神は、アマミキヨひとりで


天帝から島造りを命じられて、アマミキヨは天より降った

しかし、一面の海原だったため


天帝から土石草木をもらって多くの島々を造り


数万年を経て、天帝から1男1女を下しもらい

このふたりから地上の人間が創造された

とあるといいます








イザイホー




久高島が「神の島」と称されるのは

神話を根拠としたものだけではありません


既婚の女性で30歳を越えたものすべてが

イザイホー(語源は不詳)という儀式をして、神女となるからです



七ツ屋  転写



但し、後継者不足のため

1978年(昭和53)を最後に、イザイホーは行われていません




久高島では男たちは成人して漁師になり

女たちは神女(カミンチュ)になるとされます




イザイホーは、12年ごとの

午年・旧暦の11月15日から4日間行われます



この儀式は、ニライカナイから

神々を迎え、神女になることを認証してもらい

神々を島からを送るというものです



また、女性たちが

タカマガエのウプテイジシ(ジンは霊力の意味で

祖霊神の霊力のこと)を得て


家庭の守り神となり

村落共同体の祭祀に参加できるようになる

というものです




久高島、現在、南城市知念字久高となっています

(南城市は2001年に玉城村、佐敷町、大里村、知念村のと合併で誕生)


それ以前の「知念村字(あざ)久高」は

明治40年代に、久高・外間(ほかま)の二村が合併してできました



久高島の巫女集団は、久高家と外間家の2つに分かれます


それぞれに最高職のノロがいて、補佐役の掟神(ウメーギ)がいます



その下は四階級構造になっていて

61歳から70歳のタムト

54歳から60歳までのウンサク

42歳から53歳までのヤジク

31歳以上の巫女はナンチュ です



イザイホーは12年に一度なので

30歳から41歳までのナンチュが対象ということになります



なお、久高島に、ユタは存在しません





内容は


イザイホーに先立つ1ヵ月前から

ノロや先輩神女のヤジクが


初めて祭りに参加するナンチュを率いて

クボー御嶽(うたき)をはじめとする

島内の七つの御嶽を巡ることを七回繰り返すそうです



この間に、ナンチュたちが

神女(カミンチュ)となって使える

御嶽の祖霊神が決定されるといいます





11月15日(初日)の夕刻


拝殿前には設けられた

短い七つの橋を渡る儀式があるそうですが

(七つ橋渡りを5回行うという)


ここでつまづいたり、橋から落ちたりする女性は

浮気など悪いことをした者とジャッジされ

神女にはなれないといいます



ナンチュウたちは拝殿で神々を拝んだあと

3晩、村の祭場・広場(ウドゥンミャー)の後ろにある


イザイ山に設けられた

七つの御嶽を象徴するという「七つ屋」に籠ります




七ツ屋  転写



この間、祝女の主宰で、ナンチュ以上の神女が参加して

歌や踊りを伴う儀礼をするようです



またナンチュたちは、イザイホーの間、早朝

島の西海岸のイザイガーという泉のような井戸で沐浴するといいます




3日目の朝、村の主人(ニーンチュ)が

ノロをはじめとする神役、ナンチュの額、両頬に

朱印を付け (イザイホーを行ったことの認証)



ノロが、ナンチュの額と頬に団子の粉を付けて

正式に神女となったことの証明をします




この団子は、もち米の粉でつくった

スジというもので


それそれれのナンチュの

信仰上の兄弟イキイよりもらいうけたものとされます



イキイには、実の兄弟、とくに兄が理想で

いないときは従弟や甥、おじ、また息子など

近親の男子がなるそうです



そのあと井戸の神・水の神に感謝する儀式

(神歌を歌いつつ踊る)をするようです






最終日の4日目には

神女たが男性と綱引き(アリクヤー)をします


久高島に来ていた神々を送り返す儀礼であるといいます


但し、アリクヤーには、ナンチュは参加しません




また、綱引きといっても運動会でするものはでなく

神女たちと、男性たちが一列に向き合って

綱(舟のとも綱を表す)を揺らすといったものです


綱を揺らすのは舟の航海を意味しているといいます




神女の歌うアリクヤーのチィルル(神歌・祝詞)は


神が「船を仕立ててもらったし、お神酒もいただいたし、海も朝凪だし

私たちは海に帰りましょう」などと語ることからはじまり


神々が「久高島にきて

祖霊神のいるたくさんの森や御嶽、ナンチュの籠る七つ屋

祭場、七つ橋などを寄ったり観たりし

さらには、対岸の斎場御嶽にまで渡って

首里にある国王の宮殿まで訪れた」と語るものらしいです




ニライカナイの神々を送り出すと

男たちが綱を、村の神の森(カンジャナ山)にもっていき



それを見届けた神女たちは、イザイ山に待つナンチュをむかえにきます





ナンチュを加えた神女一行は

それぞれのナンチュの家々を順に回ります



このとき、ナンチュは頭に緑の葉の冠をかぶっていて

これは神々と同等なったことを意味するらしいです



各家では、ナンチュは上座に迎えられ

イキイ(信仰上の兄弟・実の兄弟の兄が理想)より

お粥をもらいます


この儀式により、ナンチュはイキイのおなり神となります




このあと、神女一同に集まって

チィルル(神歌)を歌いながら踊り、御嶽と家庭の繁栄を神に願います


最後に、東に向かって、ニライカナイの神々に感謝し


全てが終わると、村落の全員に、お神酒がふるまわれ

ここでは、神i女が踊ると男性も加わり

みな自然と神への賛歌を舞い踊るようです




基本、神女たちが、チィルルという神歌・祝詞を歌い踊るもので

神女は、移動するときは「エーファイ。エーファイ」と連呼しています








古代の祭祀



古代の祭祀って女性が中心だったの?


古代の祭祀では、未婚の女性(処女)を神聖視したそうです


神の妻とされた女性が神がかりして

神の言葉を伝えてきたようです



例えば、斎宮〔さいぐう・斎王(さいおう・いつきのみこ)〕は

天皇の代わりに伊勢神宮に入り


天照大神に仕えた内親王(未婚の皇女)や

女王(じょおう・天皇の2世(孫)以下の女子)です


天皇即位のさいに選ばれたといいます


10代 崇神(すじん)天皇のときにはじまり

96代 後醍醐天皇(在位・1318~1339)のときまで続いたとされます



〔崇神の年代についてはよく分かっていない

3~4世紀とする説もある

また、神武天皇=崇神天皇とする説もある〕





皇祖神の天照大神

(あまてらすおおみかみ・太陽の女神)

の御神体である「八咫鏡」

〔やたのかがみ・「天の岩戸開き」の神話に由来する鏡〕は


天皇のもとにありましたが

崇神天皇のとき、恐れ多いとして

大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移して

皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えました



しかし、その後も天照の霊魂(みたま)が

荒ぶったことから


姫が「御杖代」(みつえしろ・自らが天照の霊魂が宿る者)

となり

丹波(京都中部)、大和(奈良)、木乃国(和歌山)、吉備国(岡山)

を21年間巡っています




さらに11代垂仁天皇のとき

年老いた豊鍬入姫命に代わり


11代垂仁の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)が

御杖代となり


新たな鎮座の地を求め、伊賀、淡海(おうみ)

美濃、尾張を巡り


伊勢の五十鈴(いすず)川のほとりに来たとき


天照が「常世(とこよ)の浪(なみ)が重浪(しきなみ)帰(き)する国なり」

といたく気に入ったとして神殿が建てられました


これが伊勢神宮です






また、日本武尊〔やまとたけるのみこと・

12代景行天皇の第3皇子

14代仲哀天皇の父。小碓命(おうすのみこと)〕は


東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り

おばで斎宮の倭姫命より、草薙剣を授かっています




このような女性中心の祭祀形態は

神の言葉を伝えるという巫女の役割が形骸化されてゆき


巫女が男性神職の補助的存在になって

失われていったと考えられています



なので沖縄の祭祀は、古代日本の宗教形態を

最もとどめていると言えるかもしれません






古代ギリシアには、アポロンの神託地

デルフォイ(ギリシア中部パルナソッス山南麓)と


ゼウスの神託地のドドナ(ギリシア西部エペテロス地方)

という二大神託地あったといいます



デルフォイのアポロン神殿では

巫女が大地の割れ目から立ち上る霊気を吸って

神がかり状態となり


アポロンの言葉を発し

これを神官が直して質問者に下したといいます



なお、アポロンは

ギリシア神話の最高神 ゼウス

〔雷神。ローマ神話のユピテル

(英語読みはジュピター)と同一視〕の子で


狩猟の女神のアルテミスの双子の兄です



光明や太陽の神(太陽神ヘリオスとも同一視)で

詩や歌、弓術、医術、予言、家畜の神でもあり

あらゆる知的文化活動の守護神とされています




デルフォイは、古くは

ガイア(ギリシアの大地母神)の聖地であったそうで


アポロンがガイアを守る大蛇ピュトンを殺し、これを奪ったといいます



日本でも八岐大蛇を

須佐之男命(スサノオノミコト)が退治する話がありますが


これは、古代の竜神信仰から

英雄神への信仰の移行を示すという説があります




デルフォイは、前6世紀にはギリシア最大の神託地となり

小アジア(トルコ)やエジプトなどオリエント諸国にまで信仰が広まり

異民族の権力者もお告げを求めたそうです


紀元390年に、キリスト教を国教化したローマ皇帝

テオドシウス1世の異教崇拝禁止令により閉鎖されたとそうです






一方、ドドナのゼウスの神殿では、風にそよぐ

オーク(樫)の葉音をゼウスの言葉とみなし

神官がこれを訳して神託(おつげ)を下したそうです


前167年のローマの攻略により歴史を終えています




ちなみに、ギリシア神話の

アルゴ船

【 英雄イアソンがコルキス(コーカサス地方のグルジア)

の黄金の羊の毛皮を求める冒険のために建造された船

勇士50人が募集され、ヘラクレスなど

冒険好きな英雄たちが乗り込んだ

彼らをアルゴナウタイという 】は


アテナ(ギリシア神話最大の女神)の指示と加護を受け

船大工 アルゴスがつくった大船で

船首は、ゼウスの神託地 ドドナの森の樫の木でつくられ

言葉を発します





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