緋山「B級哲学仙境録」 仏教編 日本の禅宗 道元の曹洞禅、栄西の臨済禅、黄檗宗



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




日本の禅宗




道 元 (1200~1253)



日本の曹洞宗(そうとう)の祖 道元は、1223年、24歳のとき

明全(みょうぜん・栄西の弟子)とともに入宋します


天童山にて如浄に学び、印可証明をうけ、1227年に帰国

1233年、34歳のときに、京都の伏見の深草に興聖寺を開きます


京都で活動するも

僧団が大きくなるなるにつれて外圧が加わるようになり


また師の如浄の

「国王大臣に近づかず深山幽谷にて

仏の道を行じ仏の弟子を育てなさい」

との教えもあり


越前の国の地頭 波多野義重のすすめで

越前の大仏寺(のちの永平寺)に移ったとされます



のちに執権 北条時頼の特請をうけ、波多野義重の頼みもあり

鎌倉に赴ますが、鎌倉での活動は半年で終わっています



また、日本臨済宗の祖の栄西(えいさい・ようさい)が

権力者に積極的に近づき、幕府の保護をうけ

臨済禅を貴族や武士階級に弘め


臨済禅が、鎌倉武士の文化の中心に

なっていったの対し


道元は、あまり権力者には近づかず

どちらかというと下級武士や庶民の間に

禅を浸透させていったとされます







日本達磨宗



道元の後の曹洞宗ですが

その前に「達磨宗」についても書いておきます



鎌倉時代、比叡山の学僧であった

大日房能忍(だいにちぼうのうにん・?~1194か95)が

禅に傾倒し「達磨宗」(日本達磨宗)を開きます


能忍の禅は、独修によるものであり

嗣法(禅宗で法統を受けること)を持たなかったそうです


釈迦以来の嗣法を重視する禅宗において

これは極めて異例であり


「能忍の禅は紛い物である」と

非難や中傷をうけたといいます



そこで二人の弟子を宋に派遣し

阿育王寺の拙庵徳光に

「自分の禅行が誤っていないか」を文書で問いあわせます


徳光は、弟子らに達磨像

自讃頂相〔じさんちょうそう・詩句を書き込んだ肖像画〕

などを与えます



自讃頂相は、師の僧が弟子の僧侶に対して

法を正しく嗣いだことを示す印可状の一部として与え

弟子はそれを師そのものとして崇め、大切にしたことから

禅宗の普及と共に多く描かれたといいます



これにより、能忍の教えは

臨済宗大慧派に連なる正統な禅と認められ

名声は一気に高まったそうです




11194年、栄西と共に京で禅宗を起こす運動を始めるも

延暦寺、興福寺の訴えにより

朝廷から禅宗停止の宣旨が下され

能忍は暗殺されたといいます



但し、能忍の死因には諸説あり

近年の研究では病死または事故死とする説が

有力になりつつあるそうです




それから、後に栄西は「興禅護国論」(1198)の中で

能忍を「禅宗を妄称し祖語を曲解して破戒怠行にはしり

その坐禅は形ばかりである」と批判しているそうです



日蓮は、能忍を

「法然と並ぶ民衆を幻惑し念仏・禅門に趣かせる"悪鬼"」

と断じています



逆に言えば、それだけ能忍の教勢が強大だった

ということです




なお、当時の密教などの

現世利益的な修法になじんだ公家社会において


修行によって悟るという禅の宗風を布教するには

困難な面があったようです




能忍の没後、弟子たちは

大和の多武峰(とうのみね・

奈良県桜井市南部にある山およびその一帯)

を中心にで活動するものの

興福寺門徒らの焼き討ちにあいます



越前に逃れますが

弟子の懐奘(えじょう・曹洞宗2世・永平寺2世)や

その弟子の義介(永平寺3世)らが


京都深草の道元のもとに参じ

達磨宗は衰微していったといいます





その後、曹洞宗では

達磨宗系(民衆教化を重視した改革派)と

直弟子系(道元遺風を遵守する保守派)の内部対立がおき


懐奘の後を継いで永平寺第3世になったが義介は

これをおさめきれずに辞任


再び懐奘が就任

懐奘没後、再び義介が住持になるも

結局、収拾されず


永平寺を出て加賀国に移り

大乗寺を真言宗寺院から禅寺に改めてその開山となっています



このとき、義介に従う者も多く

道元の法系は永平寺と大乗寺に分かれることとなったそうです



義介の弟子に、後に曹洞宗発展の基礎を築いた

太祖 瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)がいます




義介のあと、曹洞宗系の義演が永平寺住職に就任しますが

論争による寺内の疲弊


また義演が、地頭の波多野氏の信頼を得られなかったこともあり

寺勢は急速に衰え


永平寺はしばらく無住状態になったといいます







瑩山紹瑾 (1268~1325)



瑩山紹瑾(けいざんじょうきん・1268~1325)は

永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山の総持寺の開祖で

日本曹洞宗の4世です


日本の曹洞宗は

瑩山紹瑾(けいざんじょうきん・1268~1325)

によって今日の発展があります



曹洞宗では、道元を高祖、瑩山を太祖としています



但し、瑩山は、曹洞禅を民衆化するために

密教の真言による加持祈祷を取り入れ


純粋禅の曹洞宗を

ご利益お授け的な今日の曹洞宗に変貌させた人でもあります



これにより、曹洞宗は

現在、寺院数1万4700余をかかえる単独宗派としては

日本最大となったわけですが

道元の立場とは全く違ったものとなってしまったわけです




瑩山の弟子で総持寺2世となった

峨山韶碩(がざんじょうせき・1276~1366)は

峨山五哲・峨山二十五哲と呼ばれる弟子を排出します


峨山五哲は、總持寺に輪住制(住職を交替してすること)を布いて

その運営の中心を担いました


また、峨山五哲・峨山二十五哲によって

諸地方の守護や領主層に浸透し

各地に寺院が開創されていきました



こうして總持寺を中心とした門流は、南北朝から室町期にかけて

めざましい発展を遂げていったそうです



とくに五哲の通幻寂霊(つうげんじゃくれい)と

太源宗真(たいげんそうしん)の系統が栄え


通幻派は、関東地方と中国・九州地方に

太源派は、北陸地方と東海地方に教線を拡大させたそうです


その結果、現在の日本曹洞宗寺院の9割以上が

峨山派の系統となっているといいます







永平寺と総持寺



永平寺(福井県永平寺町)では

教団の発展をめざす

日本曹洞宗3世(永平寺3世)の義介(ぎかい)派と


只管打坐(しかんだざ・ただひたすらに坐禅すること)にこだわる

永平寺4世の義演との間に争いがおこります



ついに義介派は永平寺を出て加賀の大乗寺に移ります

瑩山はその義介門下であり、義介に継ぐ大乗寺の2世です



永平寺は、外護者波多野氏の援助も弱まり

寺勢は急激に衰え一時は廃寺同然まで衰微しますが

5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めたとされます


1615年、徳川幕府より総持寺と並び大本山となっています




総持寺は、石川県輪島市にありましたが

明治31年に火災で焼失し、38年に再建されたものの


これを機により大本山に

ふさわしい場所への移転を求める声が高まり


44年に現在地の神奈川県横浜市鶴見に移転

旧地の寺院は総持寺祖院となっています







臨済禅



日本の臨済宗は

鎌倉・室町時代を通じて幕府が保護したこと


また禅の宗風が

質実剛健を旨(むね)とする武士の気質に合っていたこと

により大いに興隆し、当時の文化の中心を担いました



なお、鎌倉時代には、宋(中国)がモンゴル族の侵略を受け

モンゴル王朝の元が成立します


このような状況から

中国の臨済宗の名高い僧が、次々に亡命

あるいは幕府に迎えられて、日本に渡っています




禅の悟りとは、結局のところ

分別(ふんべつ)することをやめ

一元的な原理を悟ることに他ならないわけですが


これに臨済宗の源流となった

洪州宗の祖 馬祖道一〔ばそどういつ・709~88

日本に伝わった禅の実質的創始者〕

の禅学の根本とされる


「即心即仏」〔即心是(ぜ)仏。是心是仏ともいう〕

「平常心是道」〔びょう(へい)じょうしんぜどう〕の理論が加わって


今日の臨済禅が形成されたと言われます





「即心即仏」とは

心こそが本来、仏である・

凡夫の心と仏とは全く同一である という意味です



禅の開祖 達磨(だるま)の血脈論に

「心は即ち是れ仏なり、仏は即ち是れ心なり

心の外に仏無く、仏の外に心無し」

とあります





日本臨済宗の中興の祖

白隠(はくいん・1685~1768。江戸中期)は


"神仏を祈らずとも、直(ず)ぐな心が神仏(かみほとけ)

人が見ぬとていつわるまいぞ、我と天地がいつか知る

鈍な者でも正直なれば、神や仏になるがすじ"


〔 神仏を祈らなくても正直な心がそのまま神仏である

他人が見てないからといってごまかしはいけない

自分と天地はだませない

愚鈍な者でも正直であれば、神や仏になるというのが道理である 〕

と述べています




「平常心是道」とは

あたりまえの心がそのまま仏の道 という意味です


心そのものが仏であり、小さな心の動き、指や目の動き

日常の全てがみな仏性のあらわれに他ならないこと


すなわち悟りは人を超越したものでなく

人間性に由来するものであること

であるといいます





なお有名な

「日々是好日」(ひびこれこうじつ)は


もともと中国禅宗の一派

雲門宗の祖 雲門文偃(うんもんぶんえん・864~949)

の悟りの境地を現す言葉で


お金が儲かったとか損をしたとか

よいことがあったとかいった

優劣・損得・是非にとらわれた考え方ではなく


この一日をとらわれなくありのままに生きる

今の一瞬を、精一杯に生きる


さすれば、どのような日であれ、好日になる

ということらしいです






臨済禅の根本はなに?


「一無位の真人」(いちむいのしんにん)に尽きます


「一無位の真人」とはなんですか?


「一無位の真人」「無位の真人」「真人」

これらは、仏性のことです



なぜ「一無位の真人」「無位の真人」

なんて表現をするの?


禅の思想は、分別するな!!

というところに特徴ずあるので


男女、老若、貴賎、聖俗、賢愚、迷悟 そういった

世間的な価値判断による価値(位)を超えた仏性という意味です


男でもなければ女でもなく

年寄りでもなければ若くもなく

金持ちでもなければ貧乏でもなく

聖人でもなければ俗人でもなく

賢くもなければ愚かでもなく

迷いの世界にあるわけでも、悟りを開いたわけでもない


位のつけようがないものとしての

真人=仏性 を、誰しもが具えているということです


「一無位の真人」を

曹洞宗の「本来の面目」と言っています



迷いの世界にあるわけでも、悟りを開いたわけでもない

悟りを開く必要なんてない


自分の心にもともとあるのだから、それを看なさい!!

というのが、臨済禅です



臨済宗では、一無位の真人を自覚することが、禅法(心法)であり

自覚した人が真仏(真人)であり


それ以上の法や仏は存在しないと説きます


このためひたすら、真人を「看よ看よ」と指導するわけです




中国臨済宗の祖 臨済義玄(りんざいぎげん・?~866)の

臨済義玄の法語集の「臨済録」に

有名な≪赤肉団上に一無位の真人有り≫という言葉があります


"赤肉団(しゃくにくだん・心臓またひろく身体を意味するとも)上に

一無位の真人あり、常に汝等(なんじら)諸人の面門より出入す

未だ証拠せざる者は、看よ看よ"




それから

「真正の見解」(無位の真人を自覚し、真実の自己に出会うこと)


「殺仏殺祖」(せつぶつせつそ・仏や宗祖に惑わさる仏魔から離れ

真人に出会うこと) といったところになります





「殺仏殺祖」については、「臨済録」に、

"仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し

羅漢(聖者)に逢うては羅漢を殺し

父母に逢うては父母を殺し

親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して

始めて解脱を得ん"

という有名な言葉があります




では「一無位の真人」はどこにあるのでしょうか?


その答えが「即心即仏」になります


ゆえに、一無位の真人を悟る実践をとして

坐禅による「見性成仏」〔顕性成仏。見性得達

自分の心が本来、仏性そのものであることを見極め悟りに至ること〕

を主張するわけです







栄 西 (1141~1215)



えいさい また ようさい と読まれます


日本の臨済宗の祖


吉備津神社(岡山県)の権禰宜(ごんねぎ)の子


延暦寺などで学ぶ


1168年に形骸化された日本天台宗を立て直すべく

平氏の庇護を得て南宋に留学


天台と禅を学び5ヶ月後に帰国


1187年に再び入宗

インド渡航を願い出るが許可されなかった。91年に帰国



1195年、博多に

日本最初の禅道場の聖福寺(臨済宗妙心寺派)を建立



禅の布教にあたり

旧仏教より激しい攻撃が加えられたことから

1198年に「興禅護国論」を著し


禅が既存宗派を否定するものではなく

仏法復興に重要であることを説く




京都での布教に限界を感じて

幕府の庇護を得ようと鎌倉に下向し


1200年 北条政子建立の寿福寺の開山となる


1202年 源頼家の外護により京都に

建仁寺(臨済宗建仁寺派大本山)を建立


なお、栄西は他宗とのいさかいをさけるため建仁寺を

当初、禅・天台・真言の三宗兼学の寺としている




ちなみに、道元は天台宗に疑問をいだき

建仁寺に赴いて

栄西の弟子の明全(みょうぜん・1184~1225)に参じている


1223年には、明全とともに宋に渡る


明全は1225年に宋で没し

道元は明全の遺骨を持ち帰り永平寺に納めている



道元は、栄西とは

明全を通じて師弟関係にあり


道元は栄西を尊敬し「正法眼蔵随聞記」には

「なくなられた僧正様は…」と


栄西に関する言行が数回語られているという





また、栄西は廃れていた喫茶の習慣を

日本に再び伝えたことでも知られる


2度目の入宗のさい茶の種を持ち帰り

肥前と筑前の境界の背振山に蒔いたとされる



さらに、生産を広めるため

またその薬効を知らせるために


「喫茶養生記」(上下二巻・

茶の薬効、栽培適地、製法まで細かく記述)

を著している


これが我が国最初の本格的なお茶関連の書とされている




華厳宗中興の祖 明恵〔みょうえ・1173~1232

後鳥羽上皇から京都栂尾(とがのお)の地を下賜されて高山寺を開山〕は


栄西より種子を譲り受け栂尾にまいた


これにより栂尾は2世紀にわたり茶の栽培が盛んであったという

(栂尾は宇治以前の茶名産地)


さらに明恵は、今日の茶の銘産地である宇治、伊勢、駿河の清見

川越などの各地に、茶を広めたとされる




ちなみに、現在の静岡茶は

静岡市出身で

栄西よりも半世紀ほどのちに入宋した

円爾〔えんに・1202~80。35年に入宋、41年帰国

東福寺(臨済宗東福寺派大本山)開山〕が


現在の静岡市足久保に

茶の種をまいた(あるいは中国式の製法を伝えた)

のが始まりとされている


後に足久保は御用茶を納めるほど良質な茶を作り

今日も高級煎茶を生産しているという




また、我が国の茶の始まりは

遣唐使が往来していた奈良・平安時代に

最澄、空海などの留学僧が

唐より茶の種子を持ち帰ったことによるとされる







安国寺と利生塔



南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が

北海道、沖縄を除く日本各地に

安国寺(あんこくじ)と利生塔(りしょうとう)を建立しています


これは、臨済宗の夢窓疎石

〔むそうそせき・1275~1351・

天龍寺(臨済宗天龍寺派の大本山)の開祖〕

の勧めにより


後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため

聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したのに

ならってなされたものです




足利氏としては

天下統一の威信と抱負を誇示すること

民心慰撫(いぶ)すること


さらには、反幕勢力を監視し

戦時には、軍略上の拠点とすること

をも目的としていたといいます



また、安国寺は59か国において存在したことが

確認されていますが


そのほとんどは既存の臨済宗の禅寺を

安国寺に指定したもので


臨済宗の地方への普及が目的としてあったわけです




利生塔(利生とはご利益のこと)は

66ヵ国2島に計68基が設置されたようで


形式は五重塔と三重塔で

仏舎利(ぶっしゃり)各2粒が奉納ていたそうです


室町幕府の衰退と共に

安国寺と利生塔も次第に衰退したとされます







白 隠 (1685~1768)



日本臨済宗の中興の祖

白隠(はくいん・1685~1768。江戸中期)は


新たな公案(こうあん・参禅者を悟りに導く課題)を作り

公案を分類・体系化し

その使用法について研究している


また、仮名交じり文で平易に禅について述べた書

ユーモアを交えて禅を紹介した書

などを著したことで、禅の大衆化に努めた



これにより白隠の法脈は

臨済宗各派を覆い尽くすまでに繁栄

現在の臨済宗15派は全て白隠の法脈が受け嗣いでいる


≪五百年間出(ごひゃくねんかんしゅつ)の大徳≫

と称される



有名な公案に「隻手の音声」

(せきしゅのおんじょう・両手を打てば音声があるが

片手にどのような音声があるかという課題を

工夫探求させる初学者のための公案)がある


その答えは

片手の音声は耳で聞こえるものではないが

五感をとぎすませば

ものごとの本質、真理を究めるべき智慧が生じる

といったところのようである







その他の禅宗



黄檗宗



日本の三禅宗の1つ「黄檗宗」(おうばくしゅう)は

江戸時代に始まった宗派で


宗祖は、江戸時代初期に来日した

中国僧 隠元隆琦(いんげんりゅうき・1592~1673・福建省より来日)


隠元は、将軍徳川家綱に請い

京都府宇治市の萬福寺(黄檗宗の本山)を開いている



黄檗宗の名は

臨済義玄の師 黄檗希運(?~ 850年)の名に由来するとされ


教義的にはほとんど臨済宗と同じだが

念仏を兼修するところに特色があるとされる


念仏を禅行の一種、補佐的な役割を果すとしているようである







普化宗



普化宗(ふけしゅう)は、虚無(こむ)宗ともいいます


普化宗の特徴は

禅の究極は、尺八の吹奏により煩悩を断ち

虚無の境地に至る「虚無吹断」にあるとして


尺八を吹きながら家々をまわり托鉢するところにあります


普化宗の僧を、虚無僧(こむそう)といいます




中国唐代の普化を開祖とし


日本には鎌倉中期に

臨済宗の僧 心地覚心〔しんじかくしん・1207~92

無本覚心。法灯(ほっとう)国師〕が伝えたとされます



覚心は、1249年に入宋し

中国の看話禅(かんなぜん)の

大成者 無門慧開(むもんえかい)に師事


また中国普化宗16代目の張参から普化の奥義を学び

54年に張参の在家の弟子(居士・こじ)4人をともない帰国します



和歌山県由良町の 興国寺

〔 覚心の開山。秀吉の紀州攻めで伽藍の大部分を焼失

1601年に紀州藩主の浅野幸長によって再興

明治期に臨済宗妙心寺派となる

昭和31年に臨済宗法灯派として独立

昭和61年に妙心寺派に戻っている 〕の山内に


普化庵を建て

宋より来日した4人の居士を住まわし

覚心は後世、日本の普化宗の祖と仰がれています



4人の帰化した居士から、それぞれ4人の法弟が出て

16派に分かたといいます


のちに4人の居士の宝伏の法弟の 金先(こんせん)と

括総(かつそう)の派が盛んとなり

他は滅びてしまったり、両派の支配下に入ったとされます



金先は4代執権 北条経時(1224~1246)の帰依をうけ

下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に

一月寺〔いちがつじ・現在は日蓮正宗寺院〕を


括総は武蔵野国幸手(さって・埼玉県幸手市)に

鈴法寺(れいほうじ)を創建しています



一月寺と鈴法寺は、江戸時代には

徳川幕府の庇護を受け


普化宗10数派、全国120余ヶ寺の触頭

〔寺社奉行から出される触書(命令書)を諸寺に伝える寺院〕

として、普化宗寺院を総括したといいます



鈴法寺は、室町末に埼玉県川越市

江戸初期には、武蔵野国青梅の新町村(東京都青梅市)に移って


明治4年の普化宗の廃止により廃寺となったとされるが

実際に明治28年に焼失するまで存在したようです

(その間、何宗に属したかは不明)




この他、京都の 明暗寺(みょうあんじ)を本寺とする

寄竹(よりたけ)派など多くの宗派が生じたようです


明暗寺は、覚心の法孫 天外明普(てんがいめいふ)により

京都白川建立され

開山には、明普の師 虚竹禅師を仰いだといいます


虚竹は覚心の弟子で、尺八の名手であったといいます



寄竹派は、関西で一大勢力となそうですが

明治の普化宗廃止で、明暗寺は廃寺となりす




普化宗の住職は剃髪しましたが

他は有髪で、入門者は

深い編み笠(天蓋・てんがい)と、尺八を受けたといいます



江戸幕府は

普化宗の徒は「武士に限定する」という条件つける

一方で、旅の自由を認めたそうです



しかし、浪人や浮浪の徒、あだ討ちを目的とする者が

身を隠す手段として虚無僧となったり

大道芸人のような者も多かったといいます


また幕府は、諸国を乞食(こつじき)する虚無僧を

諸国探察に利用したとも考えられています




明治4年に政府の宗教政策により普化宗は禁止されましたが


明治23年に

東福寺〔臨済宗東福寺派大本山。京都市東山区〕山内の

善慧(ぜんね)院に、明暗教会として復活


復活の経緯は、前年の明治22年に東福寺が火災で焼失

その再建費用を集めるという名目で結成されたといいます



昭和25年には、尺八各流の家元・宗家の協力のもとに

東福寺の善慧院は、宗教法人明暗寺として独立

普化宗の総本山を名のっています



また、興国寺山内には、普化教会が

京都の妙光寺〔臨済宗建仁寺派。覚心の開山〕には

法灯教会が設立され、普化宗は現在も生き残っているようです




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