緋山酔恭「B級哲学仙境録」 文化論 Ⅸ 神話値と文化値



B級哲学仙境論


文 化 論


 




文化論 Ⅸ

神話値と文化値




≪文化≫とは、結局のところなんなのか?

あまりにも広い概念をもつこの言葉に

誰もが、その正体をつかみあぐんできました




そこで、イスラム教のメッカ巡礼と

久高島のイザイホーを比べてみてください




なお、信仰をより詳しく知りたいのでしたら

メッカ巡礼については、神とはなにか? イスラム教編

イザイホーについては、琉球神道とユタ


を参照してください





メッカ巡礼



メッカ巡礼には

イスラム暦の第12月(ズール・ヒッジャ)8~10日を中心に

全世界から信徒が集まる大巡礼(ハッジ)と


それ以外の期間いつでも自由に行なうことができる

小巡礼(ウムラ)があります



世界の信徒は、ハッジを一生の願いとし

かつては一族を率い職業を営みつつ

何年また何十年とかけて

メッカ巡礼を成し遂げる者もいたといいます



また、体力と資金力があるものは

一生に一度はなすべき義務とされていて


ハッジには国外から100万人

サウジアラビア国内からの巡礼者を合わせると

約200万人が訪れるそうです





大巡礼(ハッジ)では

まず「タワーフ」と「サーイ」を行ないます


タワーフは、カーバ神殿の周りを急ぎ足で4回

続いて3回ゆったりとしたペースで

反時計回りに回ることだそうです



カーバ神殿  ウィキペディアより



カーバ神殿で祈るムスリム  転写




サーイは、メッカの中心近くにある

サファーとマルワのという2つの丘

(ともにモスクの中にある)の間を

駆け足で7往復することだといいます



ウィキペディアより



サファの丘  ウィキペディアより



≪ 母のハガルと息子のイシュマエルは、アブラハムに

わずかな水と食料を与えられただけで荒野(砂漠)に放り出され

やがて母子は耐え難い喉の乾きにさいなまれる


ハガルは苦しむ息子のために

サファとマルワの丘を登りおりして水を探し求めた


イシュマエルも自分のかかとで砂を掘った

母が戻ったとき、イシュマエルの足元から水が湧き出した ≫


この神話は、神によって

彼らに「ザムザムの泉」〔アル=ハラーム・モスクの中庭に存在〕

が送られたことを意味しますが


サーイは、ハガルが、イシュマエルために

サファとマルワの丘を登りおりたことを追体験するものだといいます



なお、いつでも行なうことのできる小巡礼(ウムラ)は

このタワーフとサーイで終わるらしいです



ザムザムの泉   転写


電動式のポンプで汲み上げられ

アル=ハラーム・モスク(カーバ神殿のあるモスク)

の噴水に利用されるほか


巡礼者の代表的な土産物になっていて

メッカ周辺には、ザムザムの水を売る店が多数あるそうです



メッカは古くからこの泉を中心とする

オアシスであり交易地であったといいます




9日から10日は決められた方式に従って巡礼を行なうといいます


9日は、夜明けとともに徒歩や車で出発

メッカから21キロ離れたアラファト山(高さ約70メートル)を目指し

この山で日没まで過ごすそうです


この山では、宗教的儀式や祈りは要求されていないそうです


但し、多くの巡礼者が祈り、神との対話

自らの人生について思索する時間に費やすそうです



アラファト山   転写




10日は、メッカ近くのミナという町(谷)で

ジャマラートの投石という儀式を行うとされます


7つの小石を、悪魔を象徴する

3本の石柱(ジャムラ・ジャムラの複数形がジャマラート)

に向かって投げます


悪魔を追い払う儀式だといいます



この儀式は

一度に100万人以上の巡礼者が集中するので

大巡礼の中で最も危険でたびたび事故が発生し

2006年には将棋倒しになった362人が死亡しています


そのためなのか以下の写真のように

ジャムラは、様々形を変えてきています



1953年当時のジャムラー  ウィキペディアより



転 写



転 写



転 写




このあと

動物(羊、山羊、ラクダなどを)を犠牲にして

神に生贄としてささげるそうですが


今日では多くの巡礼者が、巡礼の前にメッカで

サウジアラビアの当局から

「犠牲になった証明書」を買い求めるそうです



当局は、これらのお金で肉を購入し

貧者への施しを行うことになっているといいます




ジャマラートの投石と、犠牲祭は

以下の神話がもとになっているようです


≪ 神は、アブラハムに最後の試練を与えるため、彼の息子

イシュマエルを生け贄にささげるよう命じる


人々は、神のこの命令を無視するよう言う


しかし、アブラハムは、それ(悪魔の誘惑)をしりぞけ

イシュマエルを犠牲にする


最後の瞬間、神はアブラハムを止める

アブラハムは、息子の変わりに雄の小羊をささげた ≫



この神話は、旧約聖書の創世記に

「イシュマエル」でなく「イサク」の話としてあります


イスラム教徒は聖書の「イサク」という息子の名前は

改ざんされたものであると主張します



この犠牲は、犯した罪を贖(あがな)うとか

神の怒りを静めるといった意味ではなく


自分の命さえもアッラーにささげる用意のあることを表現するもので

アラーへの帰依を意味するといいます




またこの日、2度目のカーバ神殿の周回(神殿を7度回る)を行います


これを終え、巡礼者は、イフラーム(巡礼服)を着替えること

また髭を剃ったり髪や爪を切ることが許され

これでほぼ大巡礼は終了となりますが


少なくとも2日はミナに残らなくてはならないことになっていて

2、3日ミナで、アラーへの祈りをささげ

さらに悪魔追放のための投石を行ない

13日頃に大巡礼を完全に終えるようです








イザイホー




久高島が「神の島」と称されるのは

神話を根拠としたものだけではありません


既婚の女性で30歳を越えたものすべてが

イザイホー(語源は不詳)という儀式をして、神女となるからです



七ツ屋  転写



但し、後継者不足のため

1978年(昭和53)を最後に、イザイホーは行われていません




久高島では男たちは成人して漁師になり

女たちは神女(カミンチュ)になるとされます




イザイホーは、12年ごとの

午年・旧暦の11月15日から4日間行われます



この儀式は、ニライカナイから

神々を迎え、神女になることを認証してもらい

神々を島からを送るというものです



また、女性たちが

タカマガエのウプテイジシ(ジンは霊力の意味で

祖霊神の霊力のこと)を得て


家庭の守り神となり

村落共同体の祭祀に参加できるようになる

というものです




久高島、現在、南城市知念字久高となっています

(南城市は2001年に玉城村、佐敷町、大里村、知念村のと合併で誕生)


それ以前の「知念村字(あざ)久高」は

明治40年代に、久高・外間(ほかま)の二村が合併してできました



久高島の巫女集団は、久高家と外間家の2つに分かれます


それぞれに最高職のノロがいて、補佐役の掟神(ウメーギ)がいます



その下は四階級構造になっていて

61歳から70歳のタムト

54歳から60歳までのウンサク

42歳から53歳までのヤジク

31歳以上の巫女はナンチュ です



イザイホーは12年に一度なので

30歳から41歳までのナンチュが対象ということになります



なお、久高島に、ユタは存在しません





内容は


イザイホーに先立つ1ヵ月前から

ノロや先輩神女のヤジクが


初めて祭りに参加するナンチュを率いて

クボー御嶽(うたき)をはじめとする

島内の七つの御嶽を巡ることを七回繰り返すそうです



この間に、ナンチュたちが

神女(カミンチュ)となって使える

御嶽の祖霊神が決定されるといいます





11月15日(初日)の夕刻


拝殿前には設けられた

短い七つの橋を渡る儀式があるそうですが

(七つ橋渡りを5回行うという)


ここでつまづいたり、橋から落ちたりする女性は

浮気など悪いことをした者とジャッジされ

神女にはなれないといいます



ナンチュウたちは拝殿で神々を拝んだあと

3晩、村の祭場・広場(ウドゥンミャー)の後ろにある


イザイ山に設けられた

七つの御嶽を象徴するという「七つ屋」に籠ります




七ツ屋  転写



この間、祝女の主宰で、ナンチュ以上の神女が参加して

歌や踊りを伴う儀礼をするようです



またナンチュたちは、イザイホーの間、早朝

島の西海岸のイザイガーという泉のような井戸で沐浴するといいます




3日目の朝、村の主人(ニーンチュ)が

ノロをはじめとする神役、ナンチュの額、両頬に

朱印を付け (イザイホーを行ったことの認証)



ノロが、ナンチュの額と頬に団子の粉を付けて

正式に神女となったことの証明をします




この団子は、もち米の粉でつくった

スジというもので


それそれれのナンチュの

信仰上の兄弟イキイよりもらいうけたものとされます



イキイには、実の兄弟、とくに兄が理想で

いないときは従弟や甥、おじ、また息子など

近親の男子がなるそうです



そのあと井戸の神・水の神に感謝する儀式

(神歌を歌いつつ踊る)をするようです






最終日の4日目には

神女たが男性と綱引き(アリクヤー)をします


久高島に来ていた神々を送り返す儀礼であるといいます


但し、アリクヤーには、ナンチュは参加しません




また、綱引きといっても運動会でするものはでなく

神女たちと、男性たちが一列に向き合って

綱(舟のとも綱を表す)を揺らすといったものです


綱を揺らすのは舟の航海を意味しているといいます




神女の歌うアリクヤーのチィルル(神歌・祝詞)は


神が「船を仕立ててもらったし、お神酒もいただいたし、海も朝凪だし

私たちは海に帰りましょう」などと語ることからはじまり


神々が「久高島にきて

祖霊神のいるたくさんの森や御嶽、ナンチュの籠る七つ屋

祭場、七つ橋などを寄ったり観たりし

さらには、対岸の斎場御嶽にまで渡って

首里にある国王の宮殿まで訪れた」と語るものらしいです




ニライカナイの神々を送り出すと

男たちが綱を、村の神の森(カンジャナ山)にもっていき



それを見届けた神女たちは、イザイ山に待つナンチュをむかえにきます





ナンチュを加えた神女一行は

それぞれのナンチュの家々を順に回ります



このとき、ナンチュは頭に緑の葉の冠をかぶっていて

これは神々と同等なったことを意味するらしいです



各家では、ナンチュは上座に迎えられ

イキイ(信仰上の兄弟・実の兄弟の兄が理想)より

お粥をもらいます


この儀式により、ナンチュはイキイのおなり神となります




このあと、神女一同に集まって

チィルル(神歌)を歌いながら踊り、御嶽と家庭の繁栄を神に願います


最後に、東に向かって、ニライカナイの神々に感謝し


全てが終わると、村落の全員に、お神酒がふるまわれ

ここでは、神女が踊ると男性も加わり

みな自然と神への賛歌を舞い踊るようです




基本、神女たちが、チィルルという神歌・祝詞を歌い踊るもので

神女は、移動するときは「エーファイ。エーファイ」と連呼しています








神話値と文化値



メッカ巡礼と、久高島のイザイホーとで

神秘値というか、神話値にさほど違いはないはずです



メッカ巡礼には世界中からたくさんの人がきます


将棋倒しの事故で、何百人と亡くなることも

しばしば起こるくらいに人々が訪れます




一方、イザイホーは、後継者不足のため

1978年(昭和53)を最後に行われていません




神話値は同じなのに

どうして文化値に、これほどの評価の違い

価値(=必要性)の差が、生じてしまったのでしょうか?



それは、イザイホーが一般人が参加して、なんらかの価値を得られる

という形態ではないからと言えます




すなわち、文化というものが

人々が価値を共有することで成り立っていることが分かります






例えば、歌手のコンサートに行く人は

どのような価値を見い出しているのでしょう?


歌い手の声(音)だったり、曲の言葉(詩)だったり

またビジュアルだったり、センスやカッコよさだったりに

カリスマ性を感じるのではないでしょうか?



こうしたものに

その人の哲学性や倫理性を感じているのかもしれません



また、そういった認識に対する観客の心理が「崇拝」です





コンサートでのミュージシャンへの

「崇拝」というのは


・ 歌手に対するあこがれ

・ みんなとの共感

・ 「私はあなたと同じ考えですよ」という自己主張

・ 会場のムードに対する感情移入や陶酔


なんかで成り立っていると思います




みんなとの共感は

そのミュージシャンに対して

観客のみなが

≪同じ価値観を共有≫しているからこそ成り立つと言えます



≪価値観の共有≫によって

会場に、共感や陶酔感が生まれくると言えるのです







神が「船を仕立ててもらったし、お神酒もいただいたし、海も朝凪だし

私たちは海に帰りましょう」などと語ることからはじまり


神々が「久高島にきて

祖霊神のいるたくさんの森や御嶽、ナンチュの籠る七つ屋

祭場、七つ橋などを寄ったり観たりし

さらには、対岸の斎場御嶽にまで渡って

首里にある国王の宮殿まで訪れた」と語る神話の世界



素敵ですよね!!




このような神話値において

メッカ巡礼と比して劣らない文化が

日本にあるのです


にもかかわらず

誰一人として、復興させようと行動する人間がいない



音頭をとることができる旧皇族の人たちの中にも

財力のある財界人の中にも存在しない


お金儲けを抜きに動こうという人が出てこない



そんなことを考えるは

緋山くらいしかいないのだろうか?


嘆かわしいね・・・・




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